6 別れの夜、始まりの朝――美咲の決意
最悪の目覚めだった。
まだ窓の外は薄暗く、東京の街が静まり返っている時間帯。しかし、佐藤美咲のアパートのドアベルがしつこく鳴り響いていた。彼女は昨夜、新しいデザイン案の締め切りに追われ、ワインを何杯も飲みながら作業をしていた。そのためか、頭はぼんやりと重く、目もショボショボしていた。
「こんな時間に誰だろう…」と思いつつ、ドアを開けると、予想外の人物が立っていた。田中健だ。彼女の元彼で、同じ広告代理店で働くマーケティングマネージャーだった。
「健…? 何で?」
「ああ、美咲、ごめん。急ぎで話があって。」
田中の顔は真剣そのもので、美咲の心臓が少しだけ早く打つのを感じた。彼との別れから数ヶ月、彼のことを忘れようとしていた矢先の出来事だった。
「えっと、実は…共有してたもの、返してほしいんだ。」
「共有してたものって…」
美咲の頭の中で、田中との思い出がフラッシュバックする。彼と一緒に選んだ、あの記念品のスピーカーだ。引っ越しの際、どちらが持っていくかで少し揉めた末、美咲が保管することになった品だ。
「ああ、スピーカーね。今、使ってないから…」
「うん、ありがとう。実はそれ、新しい彼女が気に入ってて。」
その一言が、美咲の胸に突き刺さった。彼が新しい彼女との生活を始めていることは知っていたが、こんな形で現実を突きつけられるとは思わなかった。
田中が去った後、美咲は自分の感情と向き合った。彼との思い出が詰まったスピーカーを箱に詰め、彼に渡す準備をする。その間、彼女は何度も深呼吸を繰り返し、涙を堪えた。
「これで、最後ね…」
田中に手渡した後、美咲は彼の連絡先をスマホから消去した。これで、彼がこれ以上自分の生活に干渉することはないだろう。
その日の夜、美咲はバスルームに駆け込んだ。お湯を準備しながら、自分の感情と向き合う。失恋からの立ち直り、そして自己成長。彼女はバスタブに浸かりながら、これからの新しいプロジェクト、新しい自分の人生について考え始めた。
「新しい始まりだ…」と、彼女は心に誓った。
佐藤美咲は、田中健から手渡された小箱を受け取りながら、その重さに心も同じように沈んでいくのを感じた。彼からの最後の品、それは彼女がかつて彼に贈った誕生日プレゼントだった。箱を開けると、中から小さな、しかし輝きを失っていないカルティエのネックレスが現れた。彼女の心の中で、何かがほどける音がした。
「これは…返すよ。もう、君のものだから。」田中の声は静かで、彼の言葉には一定の決意が感じられた。
美咲は小さく頷き、何も言わずにその場を離れた。彼女の足音が廊下を通り過ぎると、彼の姿がドアの向こうに消えていった。彼女はその箱を持って自室へと戻り、深く息を吐き出した。
自室に入ると、美咲はすぐに田中健の連絡先をスマホから消去した。その指の動きは機械的で、まるでその行為によってすべての痛みが消え去るかのようだった。しかし、彼女の心の中はまだ乱れていた。
バスルームに駆け込むと、お湯を溜めながら深いため息をついた。水がジャバジャバと音を立てる中、彼女は自分の心を落ち着けようとした。この瞬間、彼女は自分自身と向き合う時間を持つことを決めた。
お湯に浸かりながら、美咲は目を閉じて、これまでの彼との思い出を一つずつ手放していった。彼の笑顔、彼の怒り、彼の優しさ、そして彼の裏切り。それぞれの記憶が水面に浮かび、そして沈んでいった。
「もう、振り返らない…。」彼女は自分自身に囁いた。美咲は彼との関係にピリオドを打ち、新しい自分への道を歩む決意を固めた。
浴室から出た後、美咲は新しいプロジェクトのアイデアノートを取り出した。デスクに向かい、新しいデザインの構想を練り始めた。彼女の中にあったクリエイティブな火が再び燃え始めていた。彼女はこの痛みを乗り越え、より強く、より賢くなった自分を感じていた。
外はすっかり暗くなり、東京の夜景が窓から見える。美咲はその光景を背に、未来に向かって一歩を踏み出した。失恋は彼女を止めることができず、むしろ新たな始まりへの扉を開いたのだった。