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棘の刻  作者: 赤坂九丁目
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淀殿遺誡

伏見城の寝所には、夏の終わりの夕暮れが静かに忍び寄っていた。障子を通して差し込む光は、病の床に臥す秀吉の顔を淡く照らしている。その光は、まるで命の灯のように揺らめきながら、次第に弱まっていくようにも見えた。


枕頭には、前田利家、増田長盛、そして石田三成らが侍している。誰もが、この偉大な主君の最期の時が近いことを悟っていた。淀殿は、少し離れた位置から、夫の息遣いを見守っていた。


「殿。」利家が、涙ぐむ声で呼びかける。「お茶を。」


秀吉は、かすかに目を開いた。「もう、よい。」声は弱々しく、しかし確かな意志を宿していた。


そのとき、淀が静かに近寄り、跪いた。「皆様、少しの間、私どもを。」


言葉を終えぬうちに、利家は理解を示すように頷いた。三成は一瞬、躊躇いの色を見せたが、長盛の視線を受け、そっと立ち上がった。


「申し訳ございませぬ。」淀は、深々と頭を下げる。その仕草には、これまでの二十年に及ぶ側室としての慎みが滲んでいた。


部屋から人々が退出していく気配を、淀は背中で感じていた。障子の開閉の音が遠ざかり、やがて完全な静寂が訪れる。それを待っていたかのように、淀はゆっくりと顔を上げた。


秀吉は、かすかに目を開いたまま、妻を見つめていた。「茶々。」その声には、いつもの愛おしさが込められていた。しかし淀は、その呼びかけに応えなかった。


代わりに、彼女は、長年心の奥深くに封印していた声で語り始めた。「秀吉様。私こと、最後の真実をお伝えせねばなりませぬ。」


その声音の変化に、秀吉の目が僅かに見開かれた。そこには、これまで聞いたことのない冷たさが宿っていた。


「私がここにおりますのは、母の無念を晴らすため。」淀の瞳には、もはや涙はなかった。「市の娘として、この日のために生きて参りました。」


秀吉の呼吸が、一瞬乱れた。しかし、それは驚きというよりも、何か深い理解の表れのようでもあった。


「柴田家の最期の日から、この時のために。」淀は、静かに、しかし確かな意志を込めて言葉を紡いでいく。「母上が、勝家様と別れを告げた、あの瞬間から。」


障子の向こうで、夕暮れの空が深い紫紅色に染まっていく。それは、まるでこれから語られる真実の重さを予感させるかのようだった。


秀吉は、かつてない冷気を感じていた。それは、死の気配とは異なる、もっと深い、そして取り返しのつかない何かだった。


「お前」秀吉の声が、かすかに震えた。「何を。」


淀は、静かに袖を正すと、今しがた見せた冷徹な表情のまま、じっと秀吉を見つめた。「母上は、最期まで諦めませんでした。勝家様との縁を。そして、私にただ一つのことを。」


彼女は言葉を切り、まるで過去の光景を見るかのように、うっすらと目を伏せた。母・市が自分の手を握り、小さな声で何かを告げる姿が、今も鮮やかに蘇る。


「茶々、お前は美しい。その美しさで、秀吉を討つのだ、と。」


秀吉の目が大きく見開かれた。今や病の床に伏す老いた躯であっても、その瞳だけは今なお鋭い光を宿していた。「茶々、待て。」


「もう、茶々とはお呼びにならぬよう。」淀の声音は、いつもの柔らかさを失っていた。「私は淀。秀吉様の血筋を絶やすために、ここに在る者。」


障子を打つ雨の音が、突如として激しさを増した。八月の夕立は、この密やかな告白に天の声を重ねるかのようだった。


「血筋を?」秀吉の声が、今度は明確な動揺を帯びる。「秀頼も?」


「はい。」淀の答えは即座であった。「我が子ながら、あなたの血を引く者。消えねばなりませぬ。」


その言葉に、秀吉は咳き込んだ。長年の知略で築き上げた冷静さが、今や完全に崩れ去ろうとしていた。「茶々、いや、淀。お前は狂気か。」


「狂気ではございませぬ。」淀は、まるで日常の事を語るかのような平静さで続けた。「家康殿との密約も、すでに。」


「徳川と?」秀吉の声が、わずかに上ずる。


「はい。すべては整いました。」淀の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。「秀頼は、私自身の手で。その後、この淀も。それが、母上への私の誓い。」


秀吉は、長年の経験で培った直感で悟っていた。目の前の妻の言葉には、一片の偽りもない。それは、二十年の歳月をかけて練り上げられた、完璧な復讐の計であった。


「市との約束か。」秀吉は、虚ろな目で天井を見つめた。「しかし、茶々。いや、淀。お前は、これほどの年月を。」


「はい。」淀は、静かに頷いた。「お傍で笑顔を見せ、時に涙を流し、お子を産み育て。すべては、この日のために。」


障子の外では、雨が一層の激しさを増していた。その音は、まるで淀の心の内に潜む激情を代弁するかのようだった。


「ならば」秀吉は、かすかな息の下で言った。「私への、愛しさも。」


その問いに、淀は初めて、僅かな逡巡を見せた。しかし、すぐにその表情は消え、再び冷たい仮面が戻る。


「それこそが、最も辛き棘でございました。」


「棘、か。」秀吉の声は、かすかに震えていた。「では、お前の笑顔も、涙も、すべては偽りであったか。」


雨音が一時的に弱まり、夕闇の気配だけが部屋に満ちていく。淀は、長い沈黙の末に口を開いた。


「偽りではございませぬ。」その声には、初めて感情の揺らぎが滲んでいた。「だからこそ、棘なのです。お慈しみに応えぬ報いは、この身を千々に引き裂き。されど、母上との誓いは。」


「市め。」秀吉は噛みしめるように言った。「死してなお、わしを討つか。」


「母上は、ただ私に道を示されただけ。」淀の声が冷たさを取り戻す。「選びを致しましたのは、この淀。そして、その代償も。」


彼女は袖の中から一通の巻物を取り出した。「家康殿との密約。すでに二年前より準備は整えられ。」


秀吉は、死の床にありながら、なお鋭い眼差しでその巻物を見つめた。「開けよ。」


淀は従順に巻物を広げ始めた。文面が明らかになるにつれ、秀吉の表情が変化していく。そこには、豊臣家の終焉に至る詳細な計画が記されていた。秀頼の処遇、大坂城の行く末、重臣たちの分断工作。すべてが、冷徹な算段の下に綴られている。


「石田や、増田までも。」秀吉の声が掠れる。「すべてを。」


「はい。誰一人として、お側近くの者たちにも生きては。」淀は淡々と続けた。「彼らもまた、あの日、母上の涙を見た者たち。」


秀吉は、長年の戦で培った洞察力で、その計画の完璧さを理解していた。抜け道は一切ない。すべては、この女の周到な準備の下に置かれているのだ。


「茶々。」秀吉は、今一度その名を呼んだ。「いや、淀。最後に一つ。」


「何なりと。」


「秀頼を、手にかけると言ったな。」その声には、かつての武将としての鋭さが戻っていた。「母として、それほどまでに。」


淀は、初めて目を閉じた。その瞬間、彼女の仮面に微かな亀裂が走った。「母として、子を。されど、母として、母上の無念も。」


その言葉に、秀吉は初めて、深い諦めの色を見せた。そこにあるのは、単なる復讐の狂気ではない。母から母へと受け継がれた、魂の叫びであった。


「すべては、定められた運命。」淀は、再び目を開いた。「秀頼には、私自身が。その後、この身も。母上の待つ三途の川へ。」


障子の外では、雨が再び激しさを増していた。その音は、まるで運命の太鼓のように、二人の最期の対話に重なっていく。


「淀。」秀吉の声が、今度は深い疲れを帯びていた。「わしは、お前のような女に討たれるのか。」


「はい。」淀の声は、再び冷たく澄んでいた。「最愛の男に命を捧げた、一人の女に。」


「最愛の、男。」秀吉の声が、部屋の闇の中に消えていく。「今になって、何を。」


「偽りではございませぬ。」淀の声に、かすかな情感が滲んだ。「御年を召された今も、若き日の秀吉様の面影は、この淀の心に。」


雨音が一瞬途絶え、二人の間に深い静寂が広がる。


「市の無念を晴らすため、母の教えのままに、あなたの血脈を断つ。」淀は静かに続けた。「されど、その心に刻まれし御面影は、この世からは消えませぬ。」


「茶々。」秀吉は、再び昔の呼び名を口にした。


「もう一度申し上げます。茶々とは。」


「うむ。」秀吉は、かすかに目を細める。「しかし、わしにはお前が見えておる。仮面の下の、本当の。」


その言葉に、淀の表情が微かに揺らいだ。


「母の無念も、お前の復讐も、すべてはわかった。」秀吉の声は、死の床にありながら、奇妙な力強さを帯びていた。「されど、お前の心の中で、わしはずっと生き続けるのだな。」


「秀吉様。」今度は淀の声が震えた。


「市の娘として、母の仇を討つ。」秀吉は続ける。「されど、茶々として、わしを愛した。その二つの真実を、わしに見せにきたのだな。」


淀の目に、初めて涙が浮かんだ。しかし、すぐにそれを拭い去る。


「最期まで、お目の高さは変わりませぬ。」淀の声が、僅かに嗄れる。「ですが、それがこの淀の運命。愛する者の血脈を断ち、母上の魂を慰める。」


「血脈を。」秀吉は、再び秀頼のことを思い出したように目を見開く。「わが子までも。」


「御心配めさるな。」淀は、再び冷たい微笑みを浮かべた。「秀頼には、この母が寄り添いまする。三途の川まで。」


秀吉は、長い沈黙の後、静かに目を閉じた。「茶々。いや、淀。最期に一つ。」


「何なりと。」


「わしの血脈を絶やすという、その計。」秀吉は、かすかな息の下で言った。「お前の手によって果たされるのは、まことに相応しい。」


淀の目が、大きく見開かれた。


「愛ゆえの復讐か、復讐の中の愛か。」秀吉の声が、次第に弱まっていく。「そのような美しくも残酷な結末は、お前にしか。」


障子の外では、雨が完全に止み、夜の帳が静かに降りていた。部屋の中には、ただ二人の呼吸だけが、かすかに響いている。


「最期に、このような真実を。」秀吉は、もはや目を開くことなく言った。「お前という女は、わしの人生そのものよ。」


その言葉が、淀の心の深部を突き刺した。


「あなたの、人生。」彼女は、震える声で繰り返した。


「うむ。」秀吉の声は、もはかかすかな息づかいほどの強さしかなかった。「わしを討つため、これほどの年月を。わしの傍らで、喜びも、悲しみも、すべてを共に。」


淀は、両手を強く握りしめた。爪が掌に食い込む痛みも感じない。


「秀吉様。」


「お前の策は、見事だ。」秀吉は、死の床で最後の叡智を振り絞るように言葉を紡ぐ。「家康と手を結び、わが血脈を、わが家臣を、すべて計算済み。されど。」


「されど?」


「それこそが、わしの最期にふさわしい。」秀吉の唇が、かすかに歪んだ。「天下人・秀吉の最期を飾るに、これほどの女はおらぬ。」


淀は、思わず身を乗り出した。その瞬間、彼女の冷たい仮面が完全に崩れ落ちる。


「お前の復讐は、わしへの最後の贈り物よ。」秀吉の声が、さらに弱まっていく。「市の娘として、母の仇を討つ。茶々として、わしを愛した。その矛盾こそが、お前という女の。」


言葉が途切れた。淀は、慌てて秀吉の手を取る。冷たい。しかし、まだかすかな温もりが残っている。


「最期まで、このような言葉を。」淀の声が震える。「私の心を、もてあそぶような。」


「もてあそぶ?」かすかな笑みが、秀吉の唇に浮かぶ。「いや、認めておるのだ。お前の、すべてを。」


その時、障子の外から、夜明け前の風が運ぶ鳥の声が聞こえた。


「淀。」秀吉は、最後の力を振り絞るように目を開いた。「もはや時は来た。お前の道を、行け。」


「秀吉様。」


「わしは、お前のような女に討たれて、本望。」


その言葉と共に、秀吉の手から、最後の温もりが消えていった。淀は、その手を両手で包み込んだまま、動かない。


部屋の中に、深い静寂が広がる。やがて、障子の外から、夜明けを告げる鐘の音が響いてきた。


その音と共に、淀の頬を一筋の涙が伝う。


「母上。」彼女は、かすかな声で呟いた。「私は、果たして。」


問いは、闇の中に消えていった。しかし、その問いが何であったのかを、彼女自身が最もよく知っていた。


夜明けの光が、次第に部屋の中に満ちていく。秀吉の顔は、まるで穏やかな眠りについたかのようだった。


淀は、その手をそっと胸元に置き、静かに立ち上がった。障子の外では、すでに人々の気配が感じられる。天下人の死は、すぐにも伝えられねばならない。


しかし、その前に。


「秀吉様。」淀は、再び跪いた。「最後の真実を、申し上げます。」


風が、かすかに障子を揺らす。


「母上の無念を晴らすため、この道を選びました。」彼女の声は、もはや冷たさを失っていた。「されど、あなたをお慕い申し上げていたことも、また真実。その二つの真実に引き裂かれ続けた日々が、私の人生。」


淀は、ゆっくりと目を閉じた。


「あなたの血脈を断つという誓い。それは変わりませぬ。」彼女の声が、かすかに震える。「ですが、秀頼と共に三途の川を渡るその時まで、この淀の心には、あなたへの想いが。」


言葉が途切れる。もはや、何を語ればよいのか。すべては終わったのに、まだ何かが、心の奥底で燃え続けている。


「母上。」淀は、今度は天井を見上げた。「私は、立派な復讐を果たしますゆえ。されど、この心の棘は、抜くことが叶いませぬ。」


障子の外で、足音が近づいてくる。もう時間はない。


淀は、最後に秀吉の顔を見つめた。死して尚、その表情には、かつての若き日の面影が残っていた。築き上げた仮面を、この最期の時に崩された男。そして、その崩れた仮面の下から、真実の愛を見抜いた男。


「さようなら、秀吉様。」


淀は、静かに立ち上がった。仮面を取り戻し、背筋を伸ばす。これから始まる長い復讐の日々に向けて。


しかし、その胸の内で、確かに燃え続けるものがあった。


愛という名の、抜くことのできない棘を。


(了)

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