氷結
このお話はオリジナル小説「カルテット・サーガ」のスピンオフです。
未読でも本作は読めますが、第4章までは読んで頂いても良いと思います。
※第5章には本作の結末に係る重要なネタバレがありますのでご注意ください。
カルテット・サーガはこちらのURLからご確認ください。
→https://ncode.syosetu.com/n9766hv/
また「嫌われ男爵と嫌われ公女の結婚」と交互にお読みいただくのがおすすめです。
「嫌われ男爵」第1話はこちら→https://ncode.syosetu.com/n9370ii/1
「おはよう、昨日はよく眠れたかい?」
「おはようございます、エドリック様。はい、お陰様でぐっすりと」
「それは良かった」
朝、夫となった男……エドリックがフローラの部屋を訪れてきたので彼を出迎える。彼は昨日と同様フローラの部屋に足を踏み入れる事はなく、扉の向こうでフローラが部屋から出てくるのを待っていた。
一時間ほど前に起床し、侍女のアンがフローラの準備は全て済ませてくれている。着替えも、化粧ももう終わっていた。エドリックのところまで向かえば、彼は優しく微笑んでその両手を少しだけ広げる。
フローラは、少し恥ずかしいと思いながら……両手を広げた彼の前に立つ。そうすればその手が、優しくフローラの身体を包んだ。昨夜、彼に言われたのだ。夜、眠る前と朝の挨拶の時に、彼がフローラの事を抱きしめると。
それは昨日まで全くの他人だった二人が、夫婦となるために必要な『儀式』なのだろうと……フローラはそう理解している。彼は遠方から迎え入れた新婦のフローラと初夜を共に迎える事はなく、フローラは初夜を求められない事に驚いたものではあるが。
侍女のアン曰く、エドリックは人間が嫌いだそうだ。だからきっと、フローラの事を愛してくれることもないだろう。自分のところへ来てくれた妻だから、歩み寄ろうとはするし優しくはするが……そこに愛はない。
そのうち子供が必要になれば儀式のように子を作り、フローラは愛される事なく母となるのかもしれないと……そう思っていた。
だが、自分が愛されなかったとしても、彼の事は愛したい。誰も知らない土地に来たのだ、せめて彼を愛することで自分の存在を正当化したいと……今、フローラはそんな事を考えていたのだ。
「エドリック様、髪も結い直してしまいますね」
「あぁ、ありがとう」
昨夜、フローラは彼の髪を結った。少し長い髪は、結ってまとめた方がすっきりするとそう思ったからだ。エドリックに抱き寄せられたまま、彼の髪の毛を一纏めにする。その髪を結ぶ紐は、昨日急遽フローラが編んで作ったものだった。
彼の髪を結い直し、それから彼の手が緩んだと思えばその左腕に自分の右手を添えた。そうしていれば、まるで仲睦まじい夫婦に見える。まさか昨日知り合ったばかりの、政略結婚により結ばれた二人には見えないだろう。
フローラはエドリックに寄り添って、共に朝食へと向かう。冬のレクト王国は寒く、薪を燃やして暖めてはいるが南国育ちのフローラには耐えがたい寒さである。エドリックはそれに気づいたのか、侍女のアンに『もう一枚羽織れるものを』とそう指示をしてくれた。
こんなに優しいのに『冷徹』だと評され、生まれ持った『特殊能力』のせいで周囲には嫌われている。嫌われ者だったフローラは、エドリックのその孤独がわかるから……その孤独に寄り添いたいと、そう思っていた。
「朝食を済ませたら、街の中を案内しよう」
「よろしいのですか」
「あぁ。でも外は寒いから、風邪をひかないよう短時間だけにしよう」
「ありがとうございます、エドリック様」
「休暇も、昨日を入れて三日しか取れなかったからね。君さえ嫌でなければ、今日と明日は君と一緒に過ごそうと思っているんだ」
「嫌だなんて、そんな……」
「何か知っておきたい事はある? お茶請けにぴったりな、美味しい焼き菓子を売っているお店がどこにあるか、とか?」
「そうですわね……私、甘い果物が好きですの。果物が売っているお店は……」
「では市場が良いかな。とはいっても、冬だからあまり果物は売っていないかもしれないけれど」
通年で暖かい国に生まれ、更には箱入りのお嬢様であるフローラは……冬には作物が育たない事など知らなかった。レフィーンでは食べたいと言えば果物はいつでも出てきたし、それが当たり前だと思っていたのだ。
朝食の後エドリックと共に馬車に乗って市場へ向かってもらえば、市場では乾燥させた肉や魚、それに冬野菜が並べられている。エドリックが言ったように、果物はあまり見当たらない。
そもそも市場に来ることすらフローラは初めてだった。キョロキョロと周囲を見渡すフローラが面白いのか、エドリックは笑っていた。
「あ、あそこに果物が売っているよ」
「どこですか?」
「ほら、あそこ。林檎だね」
「リンゴ……?」
「南国では採れないだろうから、見た事がないのかな。林檎の産地と言えば、北方の涼しい地域だからね。買って帰ろう」
「良いのですか?」
「あぁ。生のまま食べても、火を入れても美味しく食べられる。帰ったら、林檎のパイを作ってもらおうか。パイが焼けるには時間がかかるから、その前に生のままでも食べてみると良い。甘くて美味しいから、きっと君も気に入ってくれるよ」
「ありがとうございます、エドリック様」
そう言ってエドリックは、その店の前までフローラを連れて行ってくれる。籠には五つ、リンゴと呼ばれた果実が入っていた。赤くて丸い果物を触ってみれば、とても硬い。
「……これは、本当にこのまま食べられますの? 硬くて歯が折れてしまったりしません?」
「心配しなくて大丈夫だよ。ご主人、こちらの籠を一つ」
「はい、毎度あり。……あの、ジルカ男爵様では?」
「そうだけど、何か」
「い、いえ……。男爵様自ら、こんな市場で買い物など珍しいと……」
「そうだね。『怪物』は買い物なんてしないだろうから」
「か、『怪物』なんてそんな、男爵様に向かってとんでもない……!」
「いいよ、誰が何を思おうが気にしていない。お代はこれで足りる?」
「は、はい……今お釣りをご用意します」
店主は焦ったようにそう言って、エドリックに釣りを渡す。そしてエドリックは釣りを受け取って、同行していた侍女のアンに林檎の籠を渡した。
その後も、エドリックが道を行けば人が避け道は広くなるような気がする。フローラは、はじめは気のせいだと思ったが……行く先々の店で店主や売り子の顔が強張るのを見ていれば、気のせいではないと理解する。
エドリック自身は、まったく気にしていないような表情だったが……その瞳には、悲しみが映し出されているように感じた。
皆が皆、エドリックを避ける。彼に触れると魂を抜き取られるとか、目が合うと気が触れるとか……そんな訳の分からない、根の葉もない事を避けた庶民たちが囁く声がフローラの耳にも入ってくる。だから、皆エドリックの事を避けるのだ。
だから彼は極力人前には出たくないだろう。それでも、フローラのために市場まで来てくれた。フローラはエドリックが、こんなにも優しい自分の夫が根の葉もない噂で傷つくのは嫌だ。
本人は気にしていないとそう言ったが、それでも嫌だったのだ。フローラは立ち止まる。
「エドリック様」
「うん? どうしたの?」
エドリックは立ち止まったフローラを振り返った。フローラは彼のその瞳をしっかりと見つめて、そしてそれから一歩前に進む。エドリックの事を避けようとした庶民たちが、皆フローラの事を見ていた。フローラはそのまま、エドリックの左腕に右手を添える。
「……フローラ?」
「そこの貴方たち、先ほど何か仰っていましたわよね」
「え? いえ、何も……!」
フローラは、先ほど根の葉もない噂を話していた男達をキッと睨みつける。証明したかったのだ。エドリックに触れても魂を抜き取られることはないし、目が合ったって気が触れる事はないと。
いきなりフローラに声を掛けられた男たちは焦って否定し、そそくさとその場を立ち去る。男たちが群衆に紛れて見えなくなるまでフローラは彼らを睨みつけていたが、彼らの姿が見えなくなったところでエドリックはククっと笑った。
「……エドリック様? どうして笑うのですか」
「いや……これは面白いと思ってね。私は良い妻を貰ったな」
「笑い事ではございません! あんな根の葉もない噂、何か言い返せば良いではありませんか!」
「良いんだよ、言いたい奴には言わせておけば。ありがとう、フローラ。君のその気持ちが嬉しいよ」
「エドリック様……」
「さあ、そろそろ屋敷に帰ろう。身体も冷えてきてしまっただろう? 屋敷に戻って林檎のパイを焼いてもらわないと」
「……はい」
フローラはそのままエドリックの腕に自分の手を添え、馬車が停めてある場所まで戻った。馬車に乗れば、隣に座ったエドリックが冷えた手を握ってくれる。
少し驚いたが、エドリックの手は暖かく……フローラの冷えた手が、少しずつその暖かさを取り戻してきた。
「……どうしてあの人たちは、あんな酷い事を言うのでしょう。エドリック様のお手は、こんなにも暖かいのに」
「さあ……彼らは知り合いでもなければ話した事もない。私の話を聞いて、勝手に尾ひれ背びれを付けた噂話をするのが楽しいんだろうね」
「そんなの、酷いです」
「私は気にしていない。だから君がそんなに怒る必要はないよ」
「ですが……」
「……フローラ、この道をまっすぐ行くと刑場がある。今日は処刑の日ではないから、今は誰もいないだろうが……なぜ、処刑は群衆の前で行われるかわかるかい?」
「え……? 見せしめ、でしょうか。恐怖を植え付けるためと言うか……悪い事をすると、こうなるぞと。あとは、罪人を厳重に罰する姿を見せる事で、国の威厳を示すために……」
「どちらも正解だ。だが、もう一つ理由がある」
「もう一つ……どのような理由ですか?」
「娯楽だよ」
「娯楽……?」
背筋がぞっとした。エドリックはフローラの方を見ることなく、窓の外を見ながら続ける。
「人間ってさ、自分は常に安全なところに居たいんだ。他人よりも優位な場所に居たい。見下されたくない。当然の感情だと思う」
「……はい」
「だから処刑を見る事で、官憲への恐怖を覚えるのと同時に安心するんだ。自分よりも下がいるとね。刑場に行くと、これから処刑される罪人に石やゴミを投げつける人もいるよ。そう言う人は彼らを痛めつける事で、正義感を充足させたいのかもしれないけれど」
「……」
「大多数の見物人は安全な場所から、痛めつけられる罪人を見て安心するんだ。そして、刑を受ける罪人が痛みにのたうち回る姿を見て、それを笑う。斬首刑で首が飛ぶところを見たって、彼らは笑っている」
「……そんな、事が……」
「彼らの噂話も、それと一緒さ。……だから私は人間が嫌いなんだ。自分も人間だけど……人間は狡くて醜いから。君もヴァレシア教の神々を信じているだろう? 彼らのやったことは正しいよ。人間は神にしておく種族ではなかったんだ。我々人間は生まれながらに罪を背負わされ、死ぬまでその罪と向き合うべきだ」
ヴァレシア教は、このウルフエンド大陸で圧倒的に支持されている宗教である。ほとんどの人間が、ヴァレシア教の信徒であろう。フローラも、そう熱心ではないとはいえヴァレシア教の信徒である。
ヴァレシア教には、元々十三の神がいた。このウルフエンド大陸に住む十三の種族から、各種族の王が神として崇められていたのだが……他の種族を侵した事で、人間は神の座を追放される。
そして神々は、人間達へ禁欲と節制を言い渡した。人間は、生まれた事が罪だと原罪を背負わされ生きている。
「……エドリック様は、魔術師団の他に裁判官でもあると昨日アンから聞きました。罪人の刑を決める時は、どのようなお気持ちなのですか……?」
人間が嫌いだと、そして処刑は娯楽だとエドリックは言った。使用人にも『冷徹』だと言われているエドリックに、この質問をするのは少し怖い。
どんな事があっても、彼の妻になった以上彼の事を愛そうと決めた。だが、結婚二日目にして既に……彼の返事次第では、彼の事を愛せないかもしれないとそう思う。
フローラの声は震えていただろう。彼が握ってくれた手にも、何か嫌な汗をかいているような気がしていた。
「厳しい刑を受ける者ほど、重い罪を犯した者だ。情けはかけてやれない。だが決して、罪人への刑を決めることが……その事を楽しいとかいい気味だとか、そんな風には思っていない」
「……」
「それに私だって、好き好んで裁判官なんてやっているわけではないよ。人の嘘を見抜く力を買われて、陛下直々に任命されたからやっているだけで……陛下の勅命でなければ断っていたさ」
「そう、なんですね」
安堵した。彼がもしも、罪人を処刑台送りにすることを楽しんでいるのであれば……彼が自分へ向ける優しさは偽物だと、そう判断したかもしれない。
だがエドリック自身、裁判官と言う役職に苦悩しているとそう思った。そして何より……人間が嫌いだと言っているが、その嫌いな人間達のために日々過ごしている人なのだと。
彼の勤める魔術師団だって、国民達の平和を守るための組織である。裁判だって、犯罪者に罰を与える事は国民の平和につながるための物。
嫌いな人間達のために、嫌々やっている訳ではなさそうで……エドリックの本心は、人間が嫌いな訳ではないのだろうと思った。
自身の持つ『特殊能力』のために嫌われているから、歩み寄っても無駄だと歩み寄ろうとしていないだけではないのかと……フローラはそんな事を思いながら、握られた彼の手を握り返す。
「フローラ?」
「……私、もっとあなたの事を知りたいです」
「まだ知り合って二日目だから、急ぐ必要はない。ゆっくり、互いの事を知って行けば良いさ」
「はい。……お屋敷へ戻ったらリンゴのパイ、楽しみですね」
「そうだね、美味しい紅茶も用意してもらおう」
エドリックはフローラの方を向いて、優しく微笑む。こんなにも優しく微笑む人が、そして人間が嫌いだと言いながらも人々のために尽力している彼が夫で良かったとフローラはそう思った。
フローラもエドリックを見つめて微笑み返せば、エドリックは少しばかり照れ臭そうに視線を逸らす。その姿が可愛いと、胸が少し高鳴った。
屋敷に戻れば侍女のアンが買ってきた林檎を厨房へ持って行き、フローラはエドリックの私室へ招かれる。アンが戻ってくるのを待つ間に、別の使用人が紅茶を淹れてくれていた。
他愛のない話をしながら待てば、アンが皿にごくごく薄い黄色い物を乗せて戻ってくる。その淡い色と言えば、白にも見えるほどの薄い色で……フローラが首を傾げていればエドリックが笑いながら言った。
「これが先ほどの林檎だよ」
「えぇ、これがですか? 先ほどは真っ赤でしたわ」
「赤いのは皮で、実は見ての通り淡い色なんだ」
「不思議です……」
「パイは焼けるのに時間がかかるから、まずは生のままで食べてごらん。シャリシャリとした触感に、甘い果汁が美味しいよ」
「で、では頂きます」
食べやすいように一口大に切られたそれを、フローラは口に運ぶ。口に入れた途端に優しい甘さが口に広がり、歯で噛めばエドリックが言うようにシャリシャリとしている。
初めて食べる林檎の美味しさにフローラが目を輝かせれば、エドリックは楽しそうにフローラの顔を見ていた。
「あまり見ないでください、エドリック様……」
「どうして? 良いだろう、林檎を美味しそうに食べる君の顔が、可愛いと思っただけだ」
「も、もう……恥ずかしいですわ」
エドリックはふふっと笑って、自分の前に出された紅茶に手を伸ばす。ごくんと一口喉に通して、それから彼も林檎を口に放り込んだ。
「うん、美味しいね。どうだい、初めて食べた林檎は」
「とても美味しいです。優しい甘さで、なんだかほっとします。パイも楽しみです」
「それは良かった。でも、パイは作るのに時間がかかる。まだまだ出来ないよ」
「……そうなのですね」
「あぁ、夕食後の楽しみにしておこう」
「パイを作るのは、そんなに時間がかかるのですか?」
「生地を作るだけで二時間くらいかかると聞いた事がある。今はまだ昼だけど、出来上がるのはどんなに早くてもきっと夕方だよ。だから、夕食の後の甘味の方がいいんじゃないかな」
「……そうですか」
しゅんとしてみれば、エドリックはまた笑う。一体何が可笑しいのかと頬を膨らませてみれば、エドリックは『ごめんね』と言って、更に続けた。
「君は表情が豊かで良いね。もっと君の色んな表情を見せて欲しいな」
「い、色んな表情……ですか」
「そう。笑顔も、今のように照れている顔も。それだけじゃなくて、怒った顔も悲しい顔も……きっと共に過ごせば、もっといろんな表情を見れるのだろうね」
「エドリック様……私にも、貴方の色々な表情を見せてくださいますか?」
「どうだろう、私はあまり表情を顔に出しているつもりはないんだけど。それにとても温厚だと思うよ。怒る事なんてあるかなぁ。でも、長く共に居ればいつかはきっと見れるさ」
「まぁ、ふふ……」
フローラが笑えば、エドリックも微笑みながらフロ-ラの事を見つめる。その瞳がとても優しくて、愛しいものを慈しんでいるようで……フローラは思わず頬が赤くなるのを感じた。
そんな目で見られては、勘違いしてしまいそうだ。いくら自分たちが夫婦とは言っても、昨日出会ったばかり。まだ互いの事は何も知らない。もしかしたら、エドリックはフローラの事を既に色々と知っているかもしれないが……
だが、それでも。人間嫌いを自負する彼が、そう簡単にフローラの事を愛してくれるなんて思っていない。彼が歩み寄ってくれようとしているのもわかってはいるが、まだ自分たちは一歩踏み出したばかりだと……
まだ、本当の意味で夫婦になるのは程遠い道のりだと。それもわかっている。
それから、夕食が出来上がるまでフローラはエドリックの部屋で彼と色々な話をした。子供の頃に好きだった遊びの話や、レフィーンでは海に沈む夕日が綺麗に見える事など、エドリックはうんうんと聞いてくれる。
エドリックはレクト王国……その王都に生まれ、王都で育った。騎士団と魔術師団で魔物退治のため遠征に行く事もあるが、海は何度かしか見たことがないと言う。
レフィーンの海はとても澄んでいて、綺麗で……いつかエドリックにも見せたいとそう言っているうちに、なんだか急に寂しくなってきた。
あの離れに帰りたいわけではない。自分を嫌っていた兄姉達の元が、恋しい訳はない。だがあの場所を否定しても、フローラが生まれ育ったのはあの場所に違いはなく……生まれて初めてレフィーンを出て、見知らぬ土地で、見知らぬ人に囲まれて。
いくら夫と言う男性が優しくしてくれても、寂しい事には変わりはないのだ。そんなフローラの気持ちを感じ取ったのか、正面に座っていたエドリックが突然椅子から立ち上がる。そしてフローラの隣に立ったと思えば、すっと片膝を着いてフローラの手を取った。
「エドリック様……?」
「フローラ、私にできる事があれば何でも言ってくれ。遠慮はいらないから」
「……ありがとうございます。そのお気持ちだけで、十分ですわ」
「そう言う訳にはいかない、私は君の夫だ。どんな我儘も、聞けるものは聞く。君をここに連れてきたのは私だから、私にできる事はなんだってする」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから。レフィーンの話をしていたら、少し恋しくなっただけですの」
「まだ国を離れたばかりだから仕方がないよ。君のその寂しさを埋めるのに、私にできる事はあるかい?」
「エドリック様がお側に居てくだされば、それで十分です」
フローラは自分の右手に添えられていたエドリックの手に、そっと左手を重ねた。そうすればエドリックは優しく微笑む。その表情に、胸がどきどきとした。
こんなにもフローラに優しくしてくれて、本当に素敵な男性だと……フローラはそう思う。自分の夫となった人が、とても優しい人で良かったと……。たとえ人の心を、考えている事を読めると……その能力のせいで、人々には嫌われ避けられているのだとしても。
「エドリック様、夕食の準備が出来ました」
「わかった。……フローラ、行こうか」
「はい、エドリック様」
エドリックが立ち上がり、フローラも彼に倣う。部屋を出るために歩き出すエドリックの、その左腕に自分の右手を添えるのは……もう自然な事だった。
……夕食後に、甘味として出てきた林檎のパイはとても美味しかった。生のまま食べるのとはまた違う触感で、砂糖で煮詰めた林檎がパイの中にぎっしりと入っているのだと言う。
食の文化もレフィーンとレクトではかなり異なるようで心配していたが、問題ないだろう。
「では、フローラ。また明日」
「はい。おやすみなさいませ、エドリック様」
フローラの部屋の前まで戻って来て、エドリックがフローラを抱きしめる。早く夫婦になるために『毎朝毎晩抱きしめる』と言うその約束。
彼の腕に包まれるのにまだ慣れず恥ずかしいが、エドリックの胸に耳を寄せるとドクンドクンと心臓の鼓動が少しばかり早く聞こえた。
この『約束』は彼が言い出した事ではあるが、エドリックも同じように恥ずかしいと思っているのだろうと……そう思えば、フローラはなんだか嬉しいような気もする。
自分で言っていた通り、女遊びなどは決してしないのだろう。こうして身体を寄せ合うだけで、緊張しているのだろう事がフローラにも伝わってくる。何でもないような顔をしているが、内心ではドキドキしているのだと思うとなんだか可愛い。
「……どうして笑っているんだい?」
「ふふ、内緒です」
「……私に内緒が通じると思ってる?」
「あ……そう言えば、そうでしたわ」
「大丈夫、君が内緒だと言うのなら心を覗いたりしないさ。何度も言うけど、普段からむやみやたらに人の心を覗いているわけではないからね」
「はい……」
「じゃあ、おやすみ」
エドリックがフローラから離れ、部屋の扉を開けてくれる。フローラは侍女のアンとともに自分の部屋に戻って、アンが扉を閉めた。おやすみと挨拶を交わしたものの、フローラはまだやる事がある。
化粧を落として入浴、それから肌の保湿……寒く乾燥しているせいでしっかり保湿しないと肌はカサカサに、髪もパサパサになってしまう。男性のエドリックはきっとこの手の事に疎いだろうが、フローラは花も恥じらう年頃の乙女だ。
すぐに湯を沸かしてもらい、入浴ししっかりと暖まる。良い香りのする香油で肌や髪の保湿をしっかりとしてから、やっと寝台に入った。
(今日は……なんだか色々な事を知ったような気がします)
レクト王国の街並みの事もそうだし、リンゴと言う果物の事も……そして、エドリックの事も。
(……エドリック様はあぁ仰っていたけれど、私は嫌です。エドリック様はとてもお優しい方なのに、きっと何も言わないから勘違いされている……。嫌われるのが嬉しい人なんている訳がないのに、どうしてエドリック様は『気にしていない』なんて、そんな風に言うのでしょう)
……それを考えたとき、自分も一緒だと思った。フローラも兄姉達に嫌われていた。だけど寂しくなんてないとそう言って、何も言わなかった。
何か言って、もっと嫌われるのが怖かった……だから、何も言わなかった。それ以上嫌われないように。ただでさえ居場所と言えるような場所はあの離れだけだったのに、それすらも奪われてしまうような気がして。
『処刑される罪人に石やゴミを投げつける人もいるよ』と、昼間エドリックはそう言っていた。人の心を読むと言う彼は、ただ人にとっては畏怖すべき存在。その能力は『罪』かもしれない。
彼に飛ぶ冷ややかな視線や侮蔑の言葉は、罪人に投げられる石やゴミと同じなのだろうと……そう、理解するのに時間はかからなかった。
彼は彼で、生まれながら背負った『罪』を、その業をただ静かに受け入れているのだろうと……
『我々人間は生まれながらに罪を背負わされ、死ぬまでその罪と向き合うべきだ』
その言葉は、きっと自分へ……エドリック自身へ向けた言葉だったのだろうと……フローラはそう思いながら、そっと目を閉じる。
月が高く上り、もうすぐフローラの真上を超えて行く頃の事だった。