特別編:社交界の新しい華
本編とは直接関係のない特別編です。
エルヴィスが生まれて2年。エルミーナの妊娠がわかった後のお話です。
フローラの矜持、生き方が中心で糖度は低めですが……それでも『エドリック良い旦那や』となる事間違いなし?
どうぞお楽しみください。
「おかしゃま、ちょうちょ!」
「本当ね、蝶々さんね」
レクト王国が初夏を迎えたある日、フローラはもうすぐ二歳三か月になる息子・エルヴィスと手を繋いでグランマージ家の庭に出ていた。まだ幼いエルヴィスが、蝶々を指さしてニコニコとした顔をフローラに向ける。
エルヴィスは、やんちゃ盛りだが母によく甘える可愛い息子。我儘を言う事もあるが、その我儘だって自分を母として認めてくれているからこその物だとわかっている。
色とりどりの花が美しく咲き乱れる庭を二人で歩いていれば、エルヴィスが今度は急にしゃがみ込んで『ありしゃん!』『むししゃん!』と楽しそうにしていた。
そんなエルヴィスを見ながら、フローラは空いた手を腹に添える。……お腹の中に、新しい命が宿っている事を知ったのは、ふた月ほど前。ちょうど今年の芽吹きの頃。エルヴィスの時には全くなかった『悪阻』があって、今回はすぐに妊娠に気づいた。
まだ腹は目立ち始めてすらいない。もちろんまだ胎動もない……でも確かに『ここ』に宝物が宿っている。未だ落ち着かない悪阻がそれを証明していた。
……かつてレフィーンの公女として育ったフローラは、家庭内では冷遇されていた。それは自分が庶子であったから。
顔どころか、名前も生死すら知らない産みの母。母とは名ばかりの父の妻。その子供である六人の兄姉……優しくしてくれたのは父と長兄、それと育ての母である乳母と少しの使用人だけ。
公には庶子であることは伏せられていたものの、離れで育ったフローラを知る者なら皆薄々察していたに違いない。母の身ごもった姿を見た者すらいないのだから。
使用人たちにとっては、それはもう『公然の秘密』でしかなかっただろう。
デビュタントもなく舞踏会にも出ず、ただ家の隅に置かれていた『お荷物』に回された縁談……追い出されるようにレクト王国へ嫁いだのは、きっと偶然ではない。
そう。誰も口にはしなかったが、フローラは『処分』されたのだ。
嫁ぎ先が他国であることも都合がよかったのだろう。更に先方の指定は『公女』であって、姉やフローラの名が指定されていた訳ではない。だからこそ結婚市場において、フローラより遥かに価値のある姉を差し置いてまでフローラが指名された。
聞いた話によるとグランマージ家からの縁談状には『持参金も不要』と、そう書かれていたらしい。本来ならば礼として重い持参金を求められるような場面で『不要』と記すことで、あくまで下からの礼儀を貫いたつもりだったのだろう。
……だがその一文に、レフィーンは飛びついたと言う事だ。
公には庶子と伏せられた利用価値のない娘を処分するには、これ以上の機会はなかった。相手は格下の新興伯爵家とは言えレクト王家に通じる血統、公爵家に匹敵する財力、更には魔術の祖を当主に持つ家系。
そんな相手に、持参金も不要で荷物を押し付ける事ができる。家格はつり合わなくても、金と血筋があれば文句は出ない。……それが、この世界の常識だった。
だが、それは絶望ではなく希望の始まり。今やフローラは優しい夫と可愛い子に愛し愛され、幸せに暮らしている。
本来貴族女性は子供を産んでも乳母や教育係を雇って子はそちらに任せ、社交界に顔を出すのが習わしである。だが、社交界は苦手だ。それに、フローラは愛する我が子を自分の手で育てたかった。
だから乳母も教育係も雇わず自分の乳でエルヴィスを育て、今こうして彼の手を取って一緒に庭を散歩している。
『グランマージ家の若様の奥方は、社交もせず子育てに夢中だそうよ』
『せっかく政略で嫁いできたのに、あれではただの田舎貴族ですわ。レフィーンの公女と聞きましたが、そんな風には見えません』
『子供を自分で育てるなんて、ちょっと……信じられませんわよね』
……他家の奥様方からは、そんな風に言われている事もなんとなく知っている。それでも、フローラは母でいたかった。子を産んだだけで一切の世話をせずに母を名乗るなんて、そんなのは嫌だ。
陰口に泣きたくなる夜もあったが、いつもエドリックが優しく包んでくれたから耐えられた。彼はただそばに居てくれるだけで、フローラの選択は間違っていないと肯定してくれる。
だから昼夜問わずエルヴィスのそばに居て、寝かしつけもするし食事も一緒に取った。二人目を身籠った今でさえ、できる限り自ら子を抱きしめ、歌を歌ってあげた。
そのフローラの生き方を、幸いにも夫・エドリックは尊重してくれたが……国の『常識』とは逆行しているのはわかっている。
母である事が軽んじられる世界。子育ては他人に任せて、身綺麗にして社交界に出てこそ貴婦人だと……それがこの国でも、生家のレフィーンでも、常識だった。
……正直に言えば、不安がなかった訳ではない。自分のやっている事が果たして正しいのか。
エドリックは優しい。だけど、世間は……王都は、この国は。フローラの『母』としての在り方を評価してくれる空気は、まだどこにもない。
(エルヴィス。あなたが大きくなった時、私がどんな想いであなたを育てていたのか……それを少しだけでもわかってくれたら、きっと満足なの)
しゃがんで地面を歩く蟻に気を取られているエルヴィスの頭を撫でながら、フローラはそう思う。
この時、フローラはまだ知らなかった。この選択が、彼女の矜持が……新たな品格として、この王都に認められることとなるとは。
『母である事を誇りとする貴婦人』として、上流階級に名を刻むことになるとは。
フローラの頭上を、先ほどの蝶がひらひらと通り過ぎていった。
数日後の朝食後……朝の光が差し込む窓辺。フローラがエルヴィスと積み木で遊んでいたところへ、使用人が一通の手紙を持ってくる。
「若奥様。サリーナ公爵夫人より、お茶会の招待状が届いております」
その名前に、フローラは小さく目を見開いた。サリーナ公爵夫人といえば……エドリックの父方の祖母の姉。つまりは元・王女である。
もう随分と高齢だが未だこの国の社交界の頂点に君臨している、侮れぬ影響力を持つ人物だ。
「……わ、私に? サリーナ公爵夫人から?」
使用人が頷いた。フローラは手紙を受け取り、封を切って中を確認する。香の移る厚手の上質な紙には、柔らかくも堂々とした筆跡が並んでいた。
『貴女の装いと育児のお噂、幾人もの婦人より伺いました。お子様を慈しみ、自ら育てておられるご様子を、心より敬服しております。
今度ささやかなお茶会を催します。もしよろしければ、お子様同伴でも構いません。貴女ご自身の在り方を、ぜひ一度お聞かせいただければと存じます』
この言葉をそのまま好意として受け取って良いのかはわからない。だが、この丁寧な言葉に裏はないと……本当にフローラが自分で子を育てている事を評価してくれているのだと、そう信じたい。
「ア……アン。これ……本当に、いいのかしら? 私なんかが、サリーナ公爵夫人のお茶会に、しかもエルヴィスも同伴で良いなんて」
「大丈夫ですよ、フローラ様。サリーナ公爵夫人と言えば、エドリック様の大伯母様でしょう? ご血縁でもありますし……何より、貴女のことをきちんと見ていてくださる方だと思います」
「……それにしても『育児のお噂、幾人もの婦人より伺いました』だなんて……。育児に夢中で社交をしない怠慢な嫁だと、そう言う悪口では……」
「確かに、そう仰る方もいらっしゃるかもしれません。でもご自身で子どもを育てているフローラ様のことを、本当に素敵だと憧れている方も多いんですよ。私はそちらの声の方が、ずっと強く聞こえてきます」
「……本当?」
「えぇ。それに、『貴女の装い』と……フローラ様は育児の傍らでも立ち振る舞いや服装には気を遣っていらっしゃいます。きっと先日教会へ出られたときか、庭先でのお散歩か……どこかで見られていたのでしょう。フローラ様はいつどこから見てもお美しいですから、お噂になるのも納得です」
「もう、アンってば……ありがとう。いつもあなたが私の髪を綺麗に結って、衣装も季節に合った素敵な物を用意してくれるからよ。私ひとりでは、きっとこんな風には見えなかった」
そう言いながら頬を少し赤らめるが、胸の奥が少し暖かくなった気がした。
世間からの無言の圧や陰口に、笑って耐えてきた毎日。ようやく、自分の選んだ道を誰かが評価してくれたなのならば、どれほど嬉しいか。
「……本当に、裏はないと思う? 私のような者が出向けば場違いだと笑われたり『あの人、本当に来たの?』なんて、陰で言われるかもしれない……」
「お気持ちはわかりますが、考えすぎです。サリーナ公爵夫人のお言葉に、きっと曇りはありません」
「……それでも、エルヴィスを連れて行くなんて。常識から外れているでしょう?」
「公爵夫人自ら『お子様同伴でも構わない』と書かれていたのです。むしろ、エルヴィス様とご一緒だからこそ、お招きになったのだと思います」
少し不安げな顔のままエルヴィスの方を見れば、積み木で遊んでいた彼はすくっと立ち上がってよちよちとフローラの方へ歩いてくる。
「おかしゃま、だっこ!」
「はい、いらっしゃい。もう、お兄様になると言うのにいつまでも甘えん坊で……いえ、弟か妹が生まれるまでは、お母様にいっぱい甘えてね。あなたがお母様を独り占めできるのは、今だけだものね」
フローラはエルヴィスを抱きしめれば、エルヴィスは『えへへ』と笑ってフローラの胸に身体を預けてくる。あぁ、なんて可愛らしい。世の貴族の母親は、この可愛らしさを知らずに必要な時だけ母親をしているのかと思えばなんて勿体ないのかと……
(……この子を連れて、大伯母様……サリーナ公爵夫人のお茶会へ?)
レクト王国の貴婦人たちにとって、子連れでの社交は『無礼』にさえ見なされる。だが、今回の招待状には確かに『お子様同伴でも構わない』と書かれていた。
(……もしも、これが何かの転機になるのなら。私が『母であること』を恥じず、隠さず、誇っても良いのなら……)
フローラはエルヴィスの髪に顔をうずめる様に。子供のふんわりとした柔らかい髪の毛からは、決して臭くはないがほんのり汗のにおい。
「ええ……行ってみましょうか。エルヴィスも一緒に」
「どこにいくのー?」
「ふふ、内緒。でもきっと、素晴らしい日になるわ。えぇ、きっと……」
フローラは微笑む。返事を書くための紙と筆を用意するようアンに伝えれば、その頬には初夏の日差しが窓の外から差し込んでいた。
お茶会の日は、六月の半ば。晴天に恵まれ、空には雲一つない絶好のお茶会日和となった。
その朝、フローラはまだ膨らんではいないが腹に負担のないようコルセットも締めずゆったりとしたドレスを身に纏い、鏡の前で自分の姿を確かめていた。
「……これで、大丈夫よね?」
控えめな薄緑のドレスは、アンが選んでくれた季節に合った軽やかな一着。襟元には細いレース、胸元には翡翠の首飾り。それは、エルヴィスが一歳となった日にエドリックから贈られたもの。
あの日の彼の言葉が、耳に蘇る。
『エルヴィスの一歳の誕生日は、君が母となって一歳の記念日でもある。ありがとう、フローラ。これは妻として母として、そして『君自身』が誇らしくあるために、受け取ってほしい』
エドリックはもちろん仕事で今日のお茶の席には同行できないが、朝屋敷を出る前にこんな話をした。
「どうだい、フローラ。王都一の貴婦人になった気分は?」
「もう、おやめください。冗談でも、そんな……」
「冗談ではなく、私は本当にそう思っているよ。子を自分の手で育てている君は、こうやってエルヴィスを抱いている姿は誰よりも美しい」
エドリックはエルヴィスを抱くフローラの頬に口づけて、それからエルヴィスの額にも口づける。
『おとしゃま、いってらっしゃい!』と、エルヴィスが手を振った。
「本当に、大伯母様のお茶会……行って大丈夫ですよね?」
「何も不安に思う事はないよ。もし何かあれば私に言ってくれ。私から大伯母上に抗議するから」
「……はい」
「君は自分の足で選んだ道を歩いている。それを受け止めてくれる人が、ようやく現れた。私はそう信じているよ」
エドリックの言葉に、胸が暖かくなる。不安はすっと、溶けていく。
いつだって彼は、フローラの欲しい言葉をくれる。誰よりも、この人の隣が安心する。本当にこの人が夫で良かった。フローラはいつも、そう思う。
そして、サリーナ公爵家へと向かう時間。エルヴィスと手をつなぎながら玄関を出れば、エルヴィスは馬車を見つけた後で目をキラキラと輝かせながらフローラに言った。
「どこいくの? おかしゃまと、おでかけ?」
「ええ、おでかけよ。お行儀よくできるかしら?」
「できるー!」
フローラはエルヴィスと共に馬車に乗り込み、膝の上にエルヴィスを抱える。道中エルヴィスは緊張する様子もなく、窓の外を見ては『あっ、おうまさん!』『おはなやさん!』と元気な声を上げていた。
石畳の上をゴトゴトと走る馬車の揺れにも平然としていて、その無邪気さにフローラは小さく笑みを浮かべる。
(お願いよ、エルヴィス。どうか今日だけは……大人しくしていてね)
不安と期待が入り混じる中、馬車はやがて目的地……サリーナ公爵邸の門前に到着した。
石造りの重厚な門が開くと、奥に広がる庭園にはすでに数名の貴婦人たちが集まっている。
彼女らの視線は、今現れた年若く美しい貴婦人……緩やかに微笑む若き母と、手を繋いだ青髪の男の子に注がれていった。
(……皆の視線が痛いわ。でも、エルヴィスが手を握ってくれている。それだけで、強くなれる気がする。大丈夫よ。しっかりしなさい、フローラ)
サリーナ家の使用人に案内されフローラが庭の中央に進むと、石造りのガゼボのもとに一人の老夫人。豊かな銀髪を結い上げ、上質な葡萄色のドレスに身を包んだその姿。
まるで王族の肖像画から抜け出したかのような気品をまとったその人が、サリーナ公爵夫人だと一目でわかる。
フローラは軽く膝を折り、深く一礼した。
「本日はこのようなお席にお招きいただき、誠に光栄に存じます。グランマージ伯爵家より参りました、ジルカ男爵夫人フローラと申します」
「ジルカ男爵夫人、よくいらっしゃいましたね。まぁまぁ、坊やも可愛らしいこと。坊や、お名前はなんて仰るの?」
「エルヴィスです! にしゃいです!」
「まぁ、立派にご挨拶できて偉いわねぇ。坊やはエルヴィスと言うの。グランマージ伯爵……あなたのひいおじい様の素敵なお名前を頂いたのね」
夫人は微笑む。優雅に、けれどその目は鋭さと慈愛を湛えていた。
「……フローラ様。貴女の姿を一目見て、確信いたしましたわ。この国の未来には『母であること』を誇れる貴婦人が必要です。さあ、どうぞお掛けになって。皆も紹介いたしますわね」
その瞬間、周囲にいた他の貴婦人たちが一様にざわめき、空気が変わった。
(……本当に、受け入れられたの? 私の……この姿が)
フローラはそっとエルヴィスの手を握る。
(ありがとう、あなたが私のそばにいてくれたお陰よ)
母としての一歩が……今静かに、確かに社交界へと踏み出されていた。
ガゼボの中は、優雅な白いレースの敷布が敷かれた丸い机が並び、上質な磁器に注がれた紅茶の香りが立ちのぼっている。サリーナ公爵夫人の招きでフローラは中央の席へと案内された。招待客は十名ほど。いずれも名の知れた上級貴族の夫人たちだ。
(社交界には疎い、私でもお名前を知っている方ばかり……。あの方は王宮付き女官長の妹、あちらは法務大臣の奥様……)
フローラは小さく深呼吸しながら、笑顔を崩さずに貴婦人たちへ一礼する。
「ジルカ男爵夫人、お噂はかねがね……」
「まぁ、本当にとてもお綺麗な方ね。しかもご懐妊中ですって?」
「あの小さなお坊ちゃんは?」
さまざまな声が飛び交う中、エルヴィスが少し不安そうにフローラの足元に寄ってきた。しかし、サリーナ公爵夫人がにこやかに言う。
「私がこのお茶会に、坊やも招待したのですよ。どうぞ、皆さまも気兼ねなく」
場が和み始める。すると、エルヴィスが机の上を指さした。
「おかしゃま。あれ、なあに?」
「……あれは、スコーンね。甘いのと、しょっぱいのがあるの」
「たべたい!」
笑いが起きる。貴婦人たちは皆、素直な二歳児を微笑ましく目を細めて見ていた。
「まぁ、なんて素直な坊やなの」
「スコーンを『あれ』と言えるのも今だけね」
「子どもって、本当に無邪気で癒されますわね……」
自然と、場の空気が優しくなっていく。フローラは、安心した。席に着き、膝の上に載せたエルヴィスにスコーンを渡してあげると美味しそうに頬ばる。
そして一人の婦人が……フローラに話しかけた。
「男爵夫人は、お子様をご自身でお育てになっていると伺いましたけれど……」
唐突な質問に、数人の視線がフローラに向く。一瞬の緊張。でも、フローラは微笑んだまま、ゆっくりと頷く。
ここで怯んだら、この子のために選んだ道が間違いだったように見えてしまうと……誇りとすることを、恥じてはならない。自分の声で、それを伝えなくてはと手を握りながら口を開いた。
「ええ。乳母はおりません。食事も、着替えも、寝かしつけも、すべて私が。使用人の手を借りる事も多々ありますが、母として……この子は私の手で育ててまいりました」
「まぁ……!」
「それは随分と……貴女のような方が、そこまでなさるとは」
「貴族の奥様は、普通は……」
賛否が交錯する空気。だが、フローラはまっすぐに答えた。
「お恥ずかしいことかもしれませんが……私には、育ててくださった乳母が『母』そのものでした。だからこそ、自分の子は自分の手で育てたいと思ったのです。たとえ貴族の常識に逆らっても、それが『母』である私の願いでした」
静寂が、ほんの数秒。少しだけ、空気が居心地悪い。だが……
「……とても、素晴らしいお考えですわ」
サリーナ公爵夫人が、紅茶を口にしながら穏やかに言った。
「それは貴族である前に、一人の『女性』としての気高さです。私はね、フローラ様。貴女のような方こそ、この国の未来を担うべきだと、そう思っていますよ」
サリーナ公爵夫人の言葉に、場が一変する。
「本当に……素敵ですわね」
「私も、もう一人いたら自分の手で、なんて。少し考えてみたくなりましたわ。ほほ、もう子を産める年ではないと言うのに」
「旦那様は、反対なさらなかったの?」
「いいえ。夫は……私の選択を、いつも尊重してくださいます」
小さな波紋のように、場の空気が変わってゆく。
『非常識』が『高潔』へ。『変わり者』が『見本』へ。
エドリックが反対しなかったと言うのも、彼女たちを驚かせた要因の一つだろう。普通、貴族の男ならきっと反対する。
この社会では多くの夫が妻の意志を尊重せず、自らを優位に置こうとする。だが、エドリックは違った。フローラを一人の人間として対等に、そして深く敬意を持って受け止めている。
……彼女たちの多くは夫に意志を否定され、母であることすら他人任せにするよう強いられてきた。子を愛したいという想いも、女性としての誇りも、屋敷の陰で押し殺すしかなかったのだ。
だからこそ、目の前で堂々と『母であること』を誇るフローラの姿に、胸の奥の何かが震えたのだろう。
そんな中、スコーンを食べ終えて口の周りに食べかすをつけたエルヴィスが小さな声でささやいた。
「おかしゃま、あまいの、もういっこたべていい?」
「ええ、いいわよ。きちんとお礼ができたら、もう一つね」
「ありがと!」
その愛らしい姿に、貴婦人たちの視線が自然とほどけてゆく。笑みがこぼれ、誰もがほんの少し……かつての『母になりたて』の自分を振り返ったのかもしれない。
……ある婦人がぽつりと呟く。
「……ああやって、子供が母親に甘える姿って、いいものね。うちの子たちは、皆全部乳母任せでしたから……。孫たちも、皆乳母が見ているし……」
ふと、場がしんとなる。誰もが一瞬、自分の選択を思い返したのだろう。そして再び、柔らかな笑い声と紅茶の香りが庭を包んでゆく。
最初は刺すようだった貴婦人たちの視線は、皆エルヴィスを連れたフローラの事を敬意と羨望を込めた視線に変わった。
自分の手でエルヴィスを育てている事が、フローラの母としての在り方が『認められた』と、それを感じるには十分だった。
その後日が西に傾きかけた頃、庭園のお茶会は名残惜しくもお開きとなった。涼やかな風が吹き始め、木々の間を抜けた木漏れ日が机の白い敷布に淡く踊っている。
「本日は本当に、素晴らしいお話をありがとうございました。男爵夫人……いえ、フローラ様」
「……こちらこそ、こんなに素敵なお席にお招き頂きありがとうございました」
貴婦人たちの誰もが、最初とは違う瞳でフローラを見つめていた。軽く会釈しながらフローラが席を立つと、膝の上にいたエルヴィスも『ごちそうしゃまでした』とぺこりと頭を下げる。
「ふふ、お行儀のいい坊やですこと。……やっぱり、育て方なのかしら」
「またぜひお目にかかりたいわね。次は……奥様と二人だけでも」
笑顔と共に交わされる別れの言葉が、フローラの胸にじんと染みた。
そして帰り際、サリーナ公爵夫人がそっとフローラの手を取った。
「……この国にはね、昔から『こうあるべき』という重石が多すぎるのです。でも、貴女のような方が少しずつ、それを揺らしてくださる。誇りを持って、進んでくださいな」
その言葉を胸に刻み、フローラは丁寧に一礼する。心がじんわりと暖かくなって、思わず涙が溢れてしまいそうだった。
乗り込んだ馬車の中。夕日に染まった街並みを眺めながら、スコーンをたくさん食べて満腹なエルヴィスはお腹をさすりながらうとうとしている。
フローラは彼の柔らかな髪を撫でながら、静かに問いかけた。
「ねえ、エルヴィス。……今日は楽しかった?」
「うん。あまいのたくさんたべた……」
「ふふ……そうね。いい子にできて、偉かったわ」
返事はもうなかった。小さな寝息が、フローラの胸のあたりから聞こえてくる。彼の頬に残ったスコーンの粉をそっと指で払ってから、フローラは天井を仰いだ。
(……私、少しだけ……自信が持てたかもしれない)
心の奥で、確かな光がともっていた。もう『ただの庶子』でも『厄介者の公女』でもない。母として、女性として……自分の選んだ道を、胸を張って歩いてゆける気がしていた。彼の寝息と共に、胸の奥に宿る確信は静かに息づく。
『明日からも、私は私のやり方で、母であり続けてゆこう』と……
屋敷へ戻ると、玄関先で待っていたアンはどこか不安げな顔でぱたぱたと駆け寄ってくる。フローラは妊娠中で子連れ、しかも相手は格式あるサリーナ公爵夫人……本来であれば、何かあったときのためにいつものようにアンに付き添ってもらうべきだったかもしれない。
だが今日の席は自分が母としてひとりの女性として、堂々とするべき場所。誰かの手を借りてばかりではいけないと、そう思ってあえて同行させなかった。
「お帰りなさいませ、フローラ様。今日はいかがでしたか?」
「ええ、とても……素敵なお茶会だったわ。少し緊張もしたけれど、それでも行ってよかったと思うの」
アンはほっとした表情を見せる。その表情にフローラも、やっと胸をなでおろした。エルヴィスはそのままアンが抱いてくれて、部屋へ運ばれていく。部屋に着いてフローラはようやく窮屈な靴を脱ぎ、一息ついてソファへと身を沈めた。
「……実は、サリーナ公爵夫人が、こんな風に言ってくださったの。『母であることを誇りとする貴婦人が、この国には必要なのです』って」
「まぁ……!」
アンが手を打ち、目を潤ませながら喜ぶ。
「フローラ様の選んだ道が、ようやく……正しいと世の中が気づき始めたのですね」
「……本当に、そうだといいのだけれど」
ふと、窓の外を見る。赤く染まった空の下、風が木々を揺らしていた。
確かに今、この屋敷から……この貴族社会に変化の風が静かに広がり始めている。
そしてひと月後……フローラは、王妃とのお茶会を終え帰ってきた義母・イザベラから驚くことを聞くのだ。
『イザベラ様。お宅のご子息の奥様の事をお伺いしても?』
『自分でお子様をお育てになっているんですって? しかもその姿が、まるで絵画のように美しいって……』
『聞いたわ。あのサリーナ公爵夫人が『未来を担う女性』と仰ったとか』
『最近の流行、少しずつ変わってきているのよ。装いも髪型も、フローラ様の影響だって……』
『メリック侯爵のご子息の若奥様も、乳母を使わず子育てをしたいと仰っていたそうよ。ご子息が反対したそうですが……』
『グランマージ夫人。ご子息は……ジルカ男爵様は反対なさらなかったのですか?』
王都上流階級の夫人たちの中で、フローラの立ち振る舞いの噂がさざ波のように広がり始めている。
お茶会は一度きりの出来事だった。けれど、それは確かに……彼女の生き方が、他者の心に問いかけた日だったのだろう
そしてその問いは今、誰かの心に静かに根を下ろし、新しい時代の芽吹きとなりつつある。
(私の生き方が、皆様に認められた? ……母であることが、私の誇りが)
その話を聞いてあの日……手を引いて歩いたエルヴィスのぬくもりと共に、フローラは静かに微笑んだ。
いつかエルヴィスが家族を持った時その隣にいる誰かが……あるいはこの先自分が娘を授かって、子供たちにも子が生まれたら……彼女たちが同じように、母であることを誇りに思ってくれると良い。
それこそが、きっとフローラの一番の願いだろう。
「今日、城の庭で君のような姿の令嬢を見かけたよ」
「私のような、とは……?」
「遠目に見た時は、本当に君かと思った。登城の予定は聞いていなかったから不思議に思って近づいたら、もちろん全く別の令嬢で。何というか……服装や佇まいが、どこか君に似ていたんだ」
「まぁ……」
「最近、君を手本にしている令嬢が増えていると聞くよ。きっと彼女も……君のことを憧れの存在だと思っているんだろうね」
「そんな、私なんて……」
「彼女の気持ちもわかるよ。君は本当に、見惚れるほど可憐で美しくて……それでいて、子を自ら育てるという強い意志がある。品格は滲み出ているし、高貴な生まれをひけらかすこともなく誰にでも丁寧で優しい。……君のような女性は、滅多にいないよ」
「……もう、エドリック様ってば」
ある日の夜、寝台の中で二人の時間。フローラの肩を抱いたエドリックがそう言う。
……実は、フローラ自身も少しだけ気になっていた。エミリアの友人、ブレドラ伯爵家の令嬢アリス。エミリアが失踪した後も月に一度ほど会っていたが……その彼女に、先日こう言われたのだ。
『フローラ様の服はどこの仕立て屋で? 毎日違う髪型は、どこの髪結いを呼んでいるのか? ……皆が気になっているんです』と。
通常、王都の流行を作るのは発言力のある貴族女性たち。フローラ自身は社交界にほとんど顔を出さず、流行を語る立場には到底なかったはず。
それなのに、まるで先駆者のように扱われることに困惑していた。
庭先でエルヴィスを遊ばせていると、時折通りかかる令嬢が挨拶をしてくる。その視線は、どこか憧れを含んだもので……まるで、夢に描いた誰かを見るかのようだった。
(私は……そんな目で見られるような存在ではないのに)
そう、フローラが思っている事は誰も知らないまま。
「私は嬉しいんだよ、フローラ。君が皆に認められたようで」
「……エドリック様のお陰です。エドリック様が、私を認めて下さったから。乳母を使わずに子を育てたいと、私の意志を尊重して下さったから」
「初めは正直、大丈夫かな? と、そう思ったよ。でもそれはすぐに杞憂だったとわかった。君は母親を『頑張っている』のではなく、自然体でこなしていたから」
「お屋敷の皆の協力があったからです。今だって、エルヴィスはアンに一緒に寝てもらっていますし」
「君がどれだけ日々エルヴィスへ愛情を注いでいるか、私は知っている。夜エルヴィスを侍女に預けている事は、私と君の二人きりの時間を取らせてほしいと……私が言った我儘だ。君が育児を放棄した訳じゃない。だから胸を張っていいんだよ。私は、君を誇りに思っている」
そこまで言うと、エドリックはフローラの唇に優しく唇を重ねた。……母になっても、エドリックはこうして愛してくれる。女として見てくれる。
今はお腹に新しい命が宿っているから身体を重ねる事はないが、身体でつながらなくとも愛されているのを十分に感じられる。
それだけで、もう十分に幸せだった。
「……あなたの隣に居られて幸せです、エドリック様」
「私も、君が隣にいてくれて幸せだよ。ずっとそばに居てくれ」
「はい、ずっとおそばに置いてくださいませ」
「あぁ。……君のような女性が増えれば、きっとこの国も少しずつ変わっていくのだろうね」
フローラはそっと瞳を閉じる。エドリックの大きな暖かい手が、フローラの髪を優しく撫でた。
先ほどよりも、もう少し強く抱き寄せられる。彼の胸に顔を寄せれば、ドクンドクンと規則的に脈打つ音が聞こえた。その音がどこか心地よくて、安心して……フローラは眠りに落ちてゆく。
新しい女性の在り方が認められることを明日に、未来に委ねながら。
余談ですが、フローラはファッションリーダー的な立場になってしまいます。
自分で子供を育てるという生き方も、センスの良いファッションや髪型も若い貴族夫人や令嬢たちの憧れに。
アンが毎日張り切って服を選んで髪型をセットしているので(しかも髪型は毎日違うし、もっと言えば午前と午後でも違ったりします)令嬢や若い夫人たちは『フローラ様服装と髪型メモ』を毎日必死に作っている事でしょう。
フローラはこの後『お子様同伴のお茶会』を主宰して、年齢の近い子持ちの夫人を招待したり……なんてこともしていると思います。




