量子力学の世界で推しと出会う
「量子力学入門」。それを私が受講したのは、ちょっとした興味からだった。
文学部の私が、大学の一般教養の講義選択でそれを選択したのは、出来心と言ってもいいだろう。
「名前がかっこいい」という何とも馬鹿な理由でそれを選んだ時、心のどこかで、一般教養なんだし、と甘く見ていた。
しかし、初回の講義の時、私の想像は打ち破られた。講師の先生は、確かに日本語を話しているはずなのに話している内容の8割以上が理解できない。
後で知った話だが、「量子力学入門」が文学部の一般教養に入っているのはうちの大学の七不思議らしい。大学にもなると、七不思議にトイレの花子さんは登場しないのだ。
これは終わったなと思ったのだが、私はそこで「推し」を見つけた。講師の鎌田晴也先生だ。
前髪とメガネでほとんど見えていない目は二重の切れ長。ひょろりと高い背。教科書を持つ大きな手は指が長く、爪は短く切りそろえられている。よくわからない理論について説明する声は、低いのに柔らかく心地よい。
私は決して広くない講義室の最前列に陣取り、それは熱心に先生を見つめた。
はたから見れば、私はさぞかし熱心な受講生だっただろう。
時が流れ、試験代わりのレポートを提出し、私は見事「可」の評価を得て、単位と引き換えに至福の時間は終わった。
週に1回の楽しみがなくなった私は、その日、食堂で一人で昼食をとっていた。混みはじめた食堂で、斜め前に誰かが座った。ほぼ条件反射でそちらに目をやって、思わず小さく声が漏れた。
「あっ。」
すると、その声が聞こえたのだろう。「推し」がこちらを向いた。そして、「あぁ。小早川ナナさん。」と私の名前を呼んだのだ。「推し」が私の名前を呼んだ!と心が歓喜する。しかし、心の中とは反対に「え?な、なんで私の名前?」と動揺した声が出た。
「熱心な受講生の名前は憶えています。」
そういわれて、自分の顔が真っ赤になったのがわかる。
推しに名前を呼ばれた興奮と、あんなに熱心に講義を聞いていたのに成績は「可」で、飽きられているのではないかという不安。
色々な感情でテンパっていた私は思わず言ってしまった。
「先生は私の推しなので!」
先生はポカンとした表情で私を見た。先生がお箸でつかんでいた唐揚げが、皿に落ちる。
先生、もしもその唐揚げが量子なら、お皿を素通りしてどこまでも落ちていきますか?