ヴァイデン渓谷の戦い
1709年、勇者フォルテは故郷であるフルーム王国の協力のもと、魔王マザンジオとの一騎打ちを実現させた。
フォルテは連れ添った仲間たちと最期の別れを告げ、決戦の地であるヴァイデン渓谷へと向かう。
対してマザンジオは一騎打ちに反対する部下を退け、「絶対に手出しをするな」と強く警告した。それでも部下は納得がいかない様子であった。確かにマザンジオは強い。歴代の魔王でも例を見ない力を秘めている。
しかし相手は勇者フォルテ。台頭から実に二年間で手に余るほどの伝説を残してきた。フォルテは前代未聞、空前絶後の最強の人間。それは悪魔たちの共通の見解であった。それならばと、魔王の部下の中には極秘に姑息な計画をめぐらす悪魔もいた。そのようなことは勇者フォルテにしてみれば些事であったのだが。
約束の刻限、霧がかかった渓谷の中、完全武装のマザンジオと勇者フォルテが相対する。
「お前が魔王か。さっさと始めよう」
「あぁそうだ。貴様がここに来たこと……後悔させてやる」
「オレがお前を……倒す!」
一度言葉を交わすと同時に、二つの刃が交じり合う。天が割れ、水が干上がり、周囲の草木は灰燼に帰す。
「やるではないか! 人間! 楽しいぞ!」
「……口を開いている暇があったら、もっと手を動かせ」
「あぁ」
一度始まったが最後、轟音は鳴りやまない。一日経とうが、一週間経とうが、一か月経とうが、戦況は全く変わらない。雨が降ろうが、雷を降らせようが、風が吹こうが、嵐を吹かせようが、戦いは終わらない。
人々は祈った。勇者の勝利を。
悪魔は祈った。魔王の勝利を。
そうして二人が最後に言葉を交わしてから、間もなく一年が経過しようとしていた。変わったのは地形のみ。二人の容貌は一切変化がない。
しかし、二人の関係には変化が生じようとしていた。一年の歳月はその土台として十分すぎたのだ。
「勇者よ」
「……だから口を――」
「――まぁ待て。我は少々疲れた」
「何が疲れただ? お前は本気を出していないだろ?」
「ふっ。それは《《貴様も》》だろう? いや、今そんなことはどうでもいい。我は貴様と戦ってきて、ふと疑問に思ったのだ。なぜ貴様は刃を振るう?」
魔王は近くの岩場に腰を掛け、臨戦態勢を完全に解いた状態で勇者に尋ねる。
「……どういうつもりだ? 俺は早く戦いを終わらせたい。剣をとれ」
「それは我も同じだ。だがこの具合ではそう簡単には終わらんだろう。貴様も既にわかっているはずだ。だから答えろ。なぜ戦う?」
魔王の指摘通り、勇者もこの戦いがこの先も続くことには気づいている。勇者はこれまでの殺気を一切合切収め、対話の態勢をとる。
「オレが戦う理由はただ一つ。世界中の人々のためだ。オレは人々の夢を背負ってここにいる」
「ほう」
魔王は興味深そうに頷いて見せる。
「逆に魔王、お前はどうしてこのような真似をするんだ?」
「大陸征服のことを言っているのか? だとしたら理由は貴様と同じだ。魔界中の悪魔のためだ。我は魔族の夢を背負って人間界に来た」
「そうか……」
勇者は魔王の戦いの理由にひどく納得がいった様子である。
「ならばそうだな。勇者としてではなく一人の人間としての夢はなんなのだ?」
「……人間として?」
「あぁ。口ぶりからして貴様自身の夢は他にあると思える」
「……よくわかったな」
「我に隠し事ができると思うな」
魔王は薄らと笑いながら勇者の言葉を待つ。
「まぁお前になら話してもいいのかもしれないな……」
これから倒す相手になら、という意味で勇者はそう発言する。
「オレの夢は……何もせずに暮らすことだ。家のベッドに寝転がって天井のシミを数えながら、時には小鳥の囀り、時には雨の囁きに耳を傾ける。何の理由もなく散歩をしたり、釣りをしたり……。そして眠くなったら寝て、昼過ぎにぼんやりと目を覚ます。そんな生活を送ってみたい。誰にも話したことのない馬鹿げた夢なんだけどな」
「ふっ」
「お、お前の夢も聞かせてくれ。もちろん魔王としてじゃなくて一人?一匹?の悪魔としての夢を」
勇者はなぜか恥ずかしそうに魔王に尋ねる。
「よくぞ聞いてくれた。我の夢は――自由に生きることだ!」
「自由……?」
「あぁ自由だ。自由な時間に起き、自由な時間に自由なことをして、自由な時間に寝る。これが我の夢だ。誰一人として理解してくれない珍妙な夢……なのだがな」
「ははっ」
魔王と勇者は互いに聞いたことを改めて咀嚼する。相手の夢は一体何だったか。
「同じじゃん」
「同じであるな」
戦いは幕を下ろした。
= = = = = = = =
半年と数か月後、
「やっと完成っすね!」
「そうだな。褒めて遣わすぞ、勇者よ」
大陸の端に位置する、最も辺鄙な国の辺鄙な街の近くにある山中に、一人の人間と一人の悪魔の姿があった。