処刑令嬢の転生先は女神印のお助け猫(予定)
ああ、失敗した。
この感情の表し方を間違えた。
だから手段を間違えた。
貴族令嬢としては正しかったのかもしれないけれど、貴方に恋する娘としてはきっと間違ってしまっていたのだ。
貴方の隣に立つようになった彼女を蔑む前に、
彼女を傍らに置くことを望むようになった貴方に憤る前に、
たった一言、たった一粒。
子供のように、幼かったあの日のように。
王太子妃となるはずだった身には相応しくなどなくとも。
ただあふれる気持ちに従う今なら、きっとあのころの笑顔を浮かべていられる。
「……好き」
極刑の舞台に立つ私を遥か高みから見下す貴方へ、今、やっと出来たように。
……ああ。
遠目にも、見える。
貴方はひどく驚いて、立ち上がって、そうして私に教えてくれる。
そんなに取り乱すほどに忌避されているのだと。
……ああ。
頭上より、迫る。
だからどうか安心して。この言葉はただの、私のこころのかけら。
この首と一緒に落ちるばかりの、――――
……
…………
……落ちたはずの首が、くっついている。
取り調べと牢で厳しい折檻を受けた体から、傷痕や骨折が消えている。
五体満足の姿である理由はひとつ。
ここに在る私が、魂だけの状態だからだ。
いちばん健やかだったときの姿を模っているのだと教えてくれたのは、私の目の前で不機嫌そうでありながらも輝く存在たる一人の女神だった。
この方のこの表情を見るのは、もう何度目になるだろう。
原因はいつも私なので、とても申し訳ない気持ちになる。
身をすぼめてみるものの、それで世界の輪転を司る女神のこころは慰められない。
……ああ、またお叱りを受けてしまう。
「もうほんと困るのよねー」
「すみません」
「なんで貴女いつもそうなの!? 最後の最後にならないとデレられないのどうにかして!? 今回はやっと言葉に出来ただけ進歩なんでしょうけど! でも正直マイマイ以下よ!!」
「あれでも精一杯でした……すみません。せめて記憶の持ち越しが出来れば、積極的に反省を活かせるんですが……」
「巻き戻しだから記憶も戻るのよ。当たり前でしょう。人間以外に変質するならお目溢しもできるけど……あっ、そうだ! 人外になってみる?」
「えっ?」
「他所の世界でね、乙女ゲーっていうのがあって。主人公が男性を恋愛的に攻略するゲームなのよ。そこで主人公を助けるマスコットキャラがいるの。貴女それになるなら記憶の持ち越しをしてもいいわ!」
「いいんですか?」
「世界の輪転に必要な魂の比重が足りてればいいの。そして滅亡を防ぐには彼女――貴女が醜く張り合ったあの聖女が真に覚醒する必要がある。なのに貴女が毎度毎度処刑になってるから覚醒まで辿り着かないのよ! もう何度滅亡してると思ってるの!」
「何度目なんですか?」
「数えるのも飽きたわ」
「巻き戻しには飽きないんですか……?」
「飽きたいけど! ここでこの世界が滅亡すると近くの世界も巻き添えくらっちゃうの! そっちカバーするよりこっちの巻き戻しをするほうがまだマシなの! 暗黒の泥ぐちゃに手を突っ込む身にもなってほしいけれど!」
「私が死んだあと何が起こってるんですか」
「死んだあとだから見せてあげられないわ。まあ、一言でいうと大惨事ね」
「世界滅亡なだけに」
「滅亡なだけに」
ここに来てからやっと思い出す何度目かの記憶でも、頻繁に似たようなやりとりをしていた。
でも、人外になる提案は今回が初めてだわ。
「そうですね。最初から私がいないほうが、きれいにまわるかもしれませんね」
「……それはないわぁ。でも貴女があの貴女だとどう動いてもああなるのだもの。アプローチ方法を変えるしかないでしょう」
「……あの、ほんとに死んだあと、なにが……?」
「お し え な い」
「ハイ」
ひとまず人外提案を受け入れて、姿を決めることになった。
「好きな動物はいる?」
「猫ですね」
「ふーん。じゃあこういう子はどう? 普通の獣と思われても困るから、少し異生物要素を入れてみたわ」
「……」
女神の手のひらに立体映像が浮かび上がる。
ベースは白猫で、全体的につぶれた豆大福のようなシルエット。短い手足が保護欲をかきたてる。ルビーのような瞳がまるく愛くるしい。三角の耳から白い羽が伸び、しっぽはふわりとした根元から長く伸び――
「……契約書を持ち出しそうですね」
「そうね。試作一号は却下ね」
あれこれひねった結果、転生先のマスコットが出来上がった。
見慣れた白猫の肉球のひとつに見慣れた女神信仰の刻印を刻み、尻尾はふわふわの狐寄り、体格年齢は一歳前後。人の肩程度までの浮遊飛行能力を持ち必要に応じて翼や後光の演出が可能。食事はしてもしなくてもよし。世界滅亡の瞬間を越えるまでは不老不死。
「なにがなんでも今回で決めるおつもりですね」
「もちろんよ。決めてもらうわ」
その他こまごまとした注意を受け、私は光の空間からあの世界へと舞い戻る。
……ほんとうは、少しだけ寂しい。
何度となく繰り返した生のなか、子供のころには屈託なく接していられたあの人と、今度はそんなことも出来ないだろうから。
けれど、今度はきっとうまくやる。
私みたいな邪魔者と遭遇しないよう彼女を導いて、貴方の隣に立ってもらって、滅亡の引き金を止めてもらうわ。
その間、貴方の姿を見てこころを慰めるくらいは――どうか許してくださいね。
……
…………
ふ、と世界が切り替わる感覚があった。
閉じていた目を開く。見慣れた石畳、街並みが視界に飛び込んできた。
ああ――戻ってき
――ぱっかぱっかぱっかがらがらがらがらがらどーん!
「へぴゅんっ」
馬車道のど真ん中に出現した私は、馬車を引いて元気に走る馬から盛大な一撃をくらって吹っ飛んだ。
「ん? 今なにかぶつかったか?」
御者には私の姿が見えなかったらしい。一瞬のうちに出現して一瞬のうちに蹴り飛ばされたから仕方ない。
びたん、と狭い路地に飛び込んだあげく行き止まりの壁に張り付いた私は摩擦の跡を残して地面に落ちる。
そのころには、馬車の姿はとうに道の向こうだった。
恋路を邪魔した身ですもの、馬に蹴られるのも必然ね。
今回の生ではまだだけど、前回までの業と思えば致し方ない。
痛いけど。死ぬほど痛いけど!
不老不死でも切られれば痛いし血は出るし衝突すれば打撲傷だって受ける。
再生のために細胞が組み変わる感覚は、体内がゼリーになったようで気持ちが悪い。怪我はなるべく負わないようにしよう。
「みゅあ」
回復までの時間を切なる誓いに費やす私の体が、宙に浮いた。
自力浮遊ではない。小さな手のひら、細い腕に抱き上げられたのだ。
「猫ちゃん、大丈夫?」
頭上から聞こえたのは、幼い少女の声だった。横手の道からそういえば、足音がしていた。
ボロ雑巾のような謎の生き物を心配して拾ってくれるなんて、幼さ故の勇気か知らぬが故の優しさか。
私は少女の姿をたしかめようと、声の出元を追って振り返り――その顔立ちを見て思わず、
「……オ……ッ?!」
……うっかり人語を口にするところだった。
急停止には間に合ったけれど、あきらかに挙動不審だ。
どうしよう……と私が次の行動を考えあぐねるうち、少女が心配そうにこちらを覗き込んできた。
「変な鳴き声……猫ちゃん、どこか痛いの?」
ありがとうございます女神様。
基本的に通信はできないとのことなのでこの感謝も届いているかは分かりませんがありがとうございます。
「……なぁお」
平気よ、と主張するために目を細めて少女に身を寄せる。
自然と喉が低くゴロゴロという音を立てた。
そうね。
人のぬくもりなんて――処刑のずっと前からもう、遠ざかっていたものね。
久しぶりのそれがこの子からだなんて、運命はほんとうに皮肉。
……この子の名前はオリビア。
なぜ知っているのかって――それはもちろん、少女が彼女だから。
何年かのち、学園で私に手ひどく甚振られて王子に救われる運命の聖女だから。
「んー、ちょっと見せてね」
ふんわりとしたピンクゴールドの髪を揺らしたオリビアが、若草色の瞳でしげしげと私を眺め回した。
きっと、さっき壁にぶつかったのも見ていたのだろう。
「おなかはどうかな……」
――きゃあああああ。
そうねたしかにそこも心配よねありがとう!
でも私にもこう、まだ、年頃の女性としての恥じらいというものがね!
反射的にオリビアの腕を蹴って、飛び降りる。
あっとあわてるような声に振り返れば、勢いをつけ過ぎたせいか思ったよりも彼女から距離をとってしまっていた。
ごめんなさい。貴女が嫌いになったわけではないの。
……視線で訴えようとして、おかしな気持ちになる。
前回ではさんざん蔑視も侮辱もしておいて、いざ王子が絡まないとこの態度。私、ほんとうに現金だわ。
だけど――この先オリビアと王子が出逢ったときにも、今と同じ感情を持っていられるかしら。
決意は胸にたしかにある。
それを貫ききることが、こんな私に出来るかしら……
「見つけた」
「にゃ」
思考に沈んだ一瞬、また私の体が宙に浮いた。
新しい手と声は、背後から。オリビアではない。彼女は私の目の前、少し離れた場所に佇んだまま。
――え?
いま、見つけた、と言われた気がしたけれど。
私は、誰かに探されるような関わりを持つ生き物ではない、はず。
「みゃ……」
「ああ、だめだよ。逃げないで」
とにかく捕獲者の顔を確認しようと身じろいだら、きゅぅと抱きしめられた。
顔を寄せてささやく声は思いの外近く、そして高い。
おそらく、オリビアと同じ年頃の少年――
……とくん、と、鼓動が大きく跳ねた。
振り返る途中の視界の端に、淡い色合いの髪が映り込む。
見覚えのある色。そして――そう、聞き覚えもある。この声は。
あまりに遠く懐かしく、大切で。
記憶の宝箱に鍵をかけてしまっていた、幼い頃のあたたかな思い出。
それに直結する響き。
――振り返る。
(……ああ)
その方の姿を認めた瞬間、胸が騒いだ。
好きだった。
恋しかった。
屈託なく笑いあえたころの年齢に近い今の彼を目の当たりにして――私は過去に置いてきたと思ったはずの気持ちを、結局後生大事に抱えてきていたのだと自覚した。
ジュード・フィン・ファリエンダル。
陽の光に透ける金髪、はちみつ色の瞳。街風を装っていても上質さを隠せない衣装――なにより、その佇まい。
幼いながらも国を導くものとしての自覚を備えつつある――第一王子、そのひとが。
……そのひとが、なぜ、私を抱っこしているの?
「みぁ」
「ああ、うん。ごめんね、急に馬車の窓が開くから驚いたね? ちゃんと探して見つけたから、許してくれるかい?」
「にゃ、み?」
「……ふふふ、ありがとう」
私は知った。
獣の鳴き声など、人は容易に己の都合がいい方向へ読み替えてしまうのだと。
今がまさにそれ。
混乱する意味なき音の羅列を適当にいなしたジュード様は、しっかりと私を抱きしめて微笑みを向けてきた。
うぐっ。
エルシリア(旧名)は精神的な金縛りに遭ってしまった……!
それは、そうよ。
だって貴方の隣に女性の姿があるだけで、嫉妬に苛まれるような女だもの。
醜い感情を膨らませつづけて、人として許されないような行為までしてしまった愚物だもの。
根源の『好き』を、あの処刑場に落としてくることも出来なかったほどに。
……今も、好きなのだもの。
救いといえば――オリビアと王子が揃って近くにいても、前のような嫉妬が浮かばないことだろうか。
ふたりはまだ知り合いでもないのだから、当然といえば当然……
「あの、あなた様は貴族の方ですか?」
オリビアがジュード様に問いかけた。
一心に私をなだめるそぶりを見せていたジュード様は今初めて気づきましたとばかりにオリビアへ目を向け、にっこりと微笑んだ。
「そんなようなものだね」
……嘘ではない。貴族の中の貴族、むしろ頂点たる王族のお方だ。
とはいえ、市井のしかも子供にとっては貴族も王族もどこか物語めいた遠い場所にいる誰か、偉さの概念でしかない。
オリビアもそれに違わず、「そうですか」と納得するだけ。それから、彼女は私を指差した。
「その子、さっき飛んできて壁にぶつかってたんです。あなた様のおうちの子だったら、怪我とか心配なので、お医者様にみせてあげてください」
なるほど、馬に蹴られたところは見てなかったのね。
道のほうで騒ぎにもないようだし、一瞬すぎて誰の目にも止まらなかったのかもしれない。御者の反応もそんな感じだった。
むしろ乗っていた王子が、よく気づいたものだわ。
「ああ。心配してくれてありがとう。――お礼に、よかったらどうぞ」
「まあ! ありがとうございます!」
私を片腕に抱き直した王子は、自然な仕草で懐から取り出したお菓子の包みをオリビアに手渡した。
これがお金やお花ならオリビアも困っただろうけれど、消え物であれば遠慮も要らない。嬉々として彼女はお菓子を大事にしまいこむ。
「それで、この子を馬車から飛び出させてしまったことと僕たちに逢ったことは内緒にしておいてくれるかい? お父様にひみつのお出かけなんだ」
市井ではめったに出回らないだろう高級なお土産によろこぶオリビアは、二つ返事で王子の要請を受け入れた。
唇に人差し指を当ててお願いポーズをする王子の姿に私が悶えている間の出来事である。そうそう、子供の頃はこんなふうにいたずらっ子っぽいお顔もよく見せてくださっていたのよね。
王子、王太子としての教育を受けるにつれ、君主としての表情をまとうことが多くなられたけれど、その向こうにはこの姿があったのかもしれない。
……それを見られる立場に、あのころの私はいなかったけれど。
(あら)
不思議だわ。
悔いとともに記憶を振り返り、目の前にはその王子とオリビアがいるのに、こころが波立つことはない。王子への思慕ではどきどきしてしまっているけれど、あのころの嫉妬のようなものはない。
面白いわ。
姿と立場がちがうということ、ただ単純に慕っていられるだけの存在でいられるということは、こうも心の在りようを変えてしまうものなのね。
ひとりしみじみとしているうちに、オリビアの姿は消えている。
別れの挨拶をしていたらしいジュード様がちょうど、振っていた腕を下ろしたところで――その腕は、また私の体を包み込んだ。
「にゃ」
「……さ、行こうか」
「みぁ!?」
はっ。
いけない。
私はオリビアがちゃんと聖女として覚醒する道標となるためにこの姿になったのよ。
いくら大好きなジュード様の腕のなかだからって、その腕が気持ちいいからって、響いてくる鼓動が落ち着くからって、見下ろしてくださる優しいまなざしにときめくからって、体に全然ちからが入らないからって、このまま連れて行かれてしまうわけには……!!
というかいまさらだけども、なぜ王子は私を自分のものだと嘘をついてまで確保したのかしら!?
「に、にゃ、ふゃあ」
「だめだよ」
ああ、だめ。
ちからが入らないという以前に、そもそもの膂力に差がありすぎる。
ジュード様はたしかにまだ幼い姿だけれど、子猫が暴れるくらいじゃびくともしない。
四肢を動かしても尻尾をばたつかせても、腕はまったくゆるまない。
かといって爪や歯を立てるなんて論外だわ。
「……にぃ、や、なぁ―――」
おねがいですから、後生ですから。
どうか、見逃してくださいな。
必死に鳴いて情けを乞うもジュード様は足を止めず、腕のちからもそのままに微笑みを私に向けるばかり。
「大丈夫。これから行くのはきみの家になるところだよ」
ちょっと広すぎて人間が多すぎて堅苦しいこともたくさんのところだけれど――
その言葉を聞いた私は、顔が毛で覆われてなければ血の気の引いていく様をジュード様に見られたかも知れない。
だって、どう考えても間違いなく、それ、王城ですよね!?
馬車にぶつかっただけの猫を連れて行くところではありませんよね?
お医者様は!? いえもう要らないといえば要らないのですけれど!
「ああ、ちゃんと獣医にも診せてあげるから安心して。馬が専門だけど、他の動物も扱い慣れてる者だから」
ありがとうございます!?
……ではないのです!
「にゃー……!」
「だめだよ」
「ぶにゃ」
ちからなく抵抗する私の諦めの悪さに閉口したらしいジュード様は、羽織っていた上着でまるっと私を包んでしまった。
息苦しくはない。体が不自然に折りたたまれたわけでもない。
だけど、――ああ、どうしましょう。
獣の嗅覚を持ってしまった私にとって、全身をジュード様の香りに包まれているというのはもはや苦行に近い楽園だ。まるごと委ねてしまいたい気持ちと、それでもオリビアのところへ行かなければという気持ちがせめぎあう。
もごもごと小さく動く上着の包みを抱えたジュード様の歩みが止まった。
「待たせてすまない」
「いいえ。落とし物は見つかりましたか」
「ああ。――一緒に、とても素敵なものも見つけたよ」
「それはようございました。では、出発しますね」
「よろしく」
素敵なもの、と言われて持ち上げられた上着包みの中身たる私のこのときの心境は、とても言語化出来るものではなかった。
ああなってしまったあのころの記憶が一番強い私には、精神へ馬上槍を投げつけられたようなものなのだ。
おかげで馬車へ乗り込むときも、座った王子のお足に乗せられたときも、ぷるぷると小さく震えて衝動を受け流すのに精一杯だった。
……我に返ったのは、馬車が停まる振動で。
つまり――王城に到着してしまった、いわゆる後の祭りになってからのことである。
王城騎士団勤務の獣医師のところへ包まれたまま連れて行かれながら、私は考えた。
思考に没頭するため身動きひとつしなくなった私を気遣ってか、あるいは居眠りやいっそ絶命など心配してか、ときどきジュード様の手が上着のうえから優しく撫でるような動きを繰り返す。
……ごめんなさい。とても気持ちいいです。
でもだからこそ辞めてほしい。まとまる考えもまとまらない。
さて、もはやオリビアのところに戻るのは困難だ。
けれどやはり、されるがままに王城へ連れ込まれるのも受け入れられない。
どうにか脱出して街に潜んで改めてオリビアを探して――あっ。
彼女は私が王子のものだって教えられている。おうちに帰りなさいって言われてしまうかも。
それを言いくるめる手段を私は持たない。
……爪で地面を引っ掻いて文字を記してみようかしら……?
「おや、やんちゃさんですね」
「にゃ……」
獣医師の診察を受けている途中だったことを、そこで私は思い出す。
爪について考えたせいか、うっかり現実でも飛び出させてしまったらしい。
「危ないよ」
私を抱いているジュード様の指先が、そっと爪を押し戻した。
この方、獣医師に私を預けようとしないの。抱えたまま。獣医師の指示でひっくり返したり脚を持ったりとまるで助手のようにしている。
最初に獣医師へ診察台へ乗せてくださいと言われたとき、とても嫌そうな顔をしたから折衷案でこんなことになったのだ。
ジュード様の手でばんざいさせられたりうつぶせにされたりあおむけにされたり……もっと言うとあられもない格好もさせられたり、そう、だから現実逃避のために状況を打開すべく思考に集中していたのだった。
だから、ひとしきり触診を終えた私が傷心を癒やすために丸くなったのは仕方がないことだと思う。きゅうと外界から隔絶するように顔もうずめた私の体は、またジュード様の腕のなかに戻された。
ここで暴れても意味がないことは分かっているので、おとなしくしておく。
外界では、獣医師とジュード様が私の容態について話し合っていた。
「外傷はなし、内部の異常も認められません。呼吸や脈拍も平均値です。健康体ですよ」
「……」
ジュード様は意味ありげな沈黙のあと、「そうか」とうなずいた。
「ありがとう。これからは僕と暮らす予定だから、また何かあったら頼みたい」
「ええ、いつでもおいでください」
まるくなったままの私を再び上着で包んで、ジュード様は診察室を後にした。
王城へ戻ってからずっとついている側付きの方も、数歩遅れてやってくる。
前回の記憶だけど、今日のようなおしのびの外出には影と呼ばれる隠密主体の護衛がついているのよね。だからオリビアと逢ったとき、彼女からは一人でいるように見えたはず。私も、隠密の方々がどこにいるのかは分からなかった。
ただ、馬車のなかで王子が誰にとなくつぶやいた声から、私が跳ねられたことを確信したのは隠密からの情報だったらしいと判明している。
ジュード様自身も感じるものがあったところに、裏打ちがとれたという次第。
……気づかなかった御者が相当にぶかったのかしら……
上着に覆われた視界が、ふと明るくなった。
ジュード様が頭部分の布をめくってこちらを覗き込んでいたのだ。
「不思議だね。馬車に跳ねられて無傷だなんて、……やっぱり女神のご加護かな?」
するりと差し入れられたジュード様の手が、私の前脚をそっと掴んで上着包みから引っ張り出す。
女神の刻印が刻まれた肉球は、診察のときに発見された。
汚れではないというのは明らかで、外見とも相まって私はそういう神性系の生物だと判断されつつある。実際そうなのだから認識されるだけなら問題はない。
問題なのは――
「……そういうことなので、陛下。彼女は女神が私に遣わしたなんらかの御印なのだと思うのです」
「ふむ。善き兆候であるといいな。他ならぬおまえの望みだ。仲良くするといい」
問題なのは!
それを後ろ盾にあっさり私をペット化した王子とそれを許可した国王陛下のほうなのです!!
私、エルシリア(旧名)。
今、王子殿下の私室にいるの。
陛下との謁見は、ダンスステップ一往復より短い時間で幕を下ろした。
晴れて飼育可のお墨付きをいただいたジュード様は今、嬉々として私の寝床をこしらえている。
控えていた侍女や従僕がお任せくださいと名乗り出たのを、自分がやりたいからと一蹴して。ついでに女神の恩寵を満喫したいからふたりきりにしてほしいと扉の外に出るようにまで指示して。
……ほんとうに、すごく、尋ねたい。
王子は飛び出て馬車に跳ねられた謎生物に何を感じて、懐に引き入れようと思ったのか。
ここまで王城の深くに連れ込まれた以上、簡単に脱出できるとは思えない。
いったん逃走をあきらめて静かに見守ることしばらく、なんとご自身のクッションやストールでやわらかな深皿のような寝床を作り上げたジュード様が満足そうにこちらを振り返った。
「おまたせ。おいで」
「……」
ふるり。
目線を合わせず、しっぽを揺らす。
だって一言目で動いたら、言葉を解するって思われそうだもの。
「……おいで」
ジュード様は気分を害した様子も見せず、辛抱強く私を手招いた。
その指先に興味を惹かれたふりをして、私はのそのそと身を起こす。
……いまさらだけど、猫っぽい仕草って意外と思いつかないわ……。なんとなく体が動くように任せているけれど、大丈夫かしら。
「ふふ」
近づいた私を、ジュード様が抱き上げた。
そのまま寝床へ安置されるかと思いきや、ジュード様はそのまま私ごと、寝床を置いてもなお余白のあるソファへ腰を下ろす。あの、寝床の意味は?
戸惑う私の胴体に、ふか、と、ジュード様が顔をうずめた。
「にゃ!」
なんて大胆なことを!
ふたりきりだからなの!?
思わず身を硬直させた私をなだめるように、ジュード様の手が動く。
顔をうずめたままお腹のあたりから聞こえる声はくぐもっていた。
「やっぱり――間違いない。人でなかったのは意外だけど」
「……?」
「僕の鍵はきみだ。おなかの奥がこんなに落ち着いたのは初めてだよ」
「……にゃあ……」
独り言かと思ったけれど、どうやら私に語っているようだ。
うっかり相槌を打ってしまった。
「……きみは人間じゃないから、僕らの禁忌には引っかからないはずだ。少し話を聞いてくれるとうれしいな」
「…………」
もしや人語を解すると把握されているのかしら。
反応に迷う私をよそに、ジュード様はもごもごと口を動かしていく。
……どうでもよくはないけれど指摘できないからそのままにするけれど……毛が入って話しにくかったりはしないのかしら……などと思いながら聞いていくうちに、そんなことは本当にどうでもよくなった。
「僕ら王族の直系には、魂の穴を埋める伴侶が必要なんだ」
……そうして私は前回までの己の生き方を、深く悔いるとともに――しかしそれでもどうしようもないことだったのではないのかと、悩みも抱えることになるのだった。
「遠い旧い時代に世界を喰らい尽くそうとした悪意は、人の身に封じられた。その子孫が僕らこの国の王族だ。世代を経るうちにそれは減衰しているけれど、一度魂の枷が壊れてしまえばいまでもあっという間に世界を飲み込むだろうということを、抱える僕らは知っている。一人でもどうにかならなくはないが、それを抑える強力な手助けが、枷の鍵穴を慰めてくれる伴侶の存在だ」
脈々と継がれてきた悪意はいつも、それを抱える彼らの魂を打ち破って溢れ出そうと狙っているのだという。
「これは、伴侶になる前の人間には明かせないという厄介な禁戒でね。でも、きみには言える。……本当に女神が何か思ってきみを送ってくださったのかな」
愛をください。
想いをください。
一日に一度でいいので、伴侶の想いの形に触れさせてください。
「……それだけで、とても楽になるんだと、父上は教えてくれた」
だから、
「きみもどうか、きみなりの形で僕を好きになってくれるとうれしい――」
やわくゆるく私を抱く幼い腕。
ふわふわと混じり合う毛並みと髪の毛。
くぐもった声。
なにもかもが切々と、前回までの私が知り得なかった事実を告げてくる。
なんてひどいことをしたのかと、もういない私が嘆き出す。
……でも、だけど。
どうすればよかったの。
厳しい王妃教育に、笑顔を余裕を忘れた私が悪かったの。
いつしか好意の仕草も言葉も形づくることなく、強く賢くあれとそれを念じて貴方の隣に立つようにした私が悪かったの。
何も言わずとも幼いころの日々があるからと甘んじた私が。
それなのに隣にあの子がいるというだけで嫉妬心を募らせた私が――きっと、悪かったの。
前回の私の魂が、ジュード様の穴を埋める形であるから婚約者になったのかは、もう分からない。
ただ形式ばかりのもので、本当は前回のオリビアこそがそうだったのかもしれない。
……でも、だけど。
笑いかければ笑い返して。
指をからめれば握り返して。
そっと額を突き合わせて、こっそりお菓子を分け合うこともして。
そのたびに、貴方はほんとうにうれしそうにしてくれた。
もちろん私もうれしかった。楽しかった。
抱えているだけでは、伝えなければ、意味などなかった。
意味をなくした躯を抱えた私には、もっと、意味などなかったのだ。
ただ義務だけで傍に在るのだと、前回のジュード様には思えたのだろう。
腹の底が気持ち悪いという感覚がどれほどのものか想像は出来ないけれど――世界を滅ぼすくらいなのだ。胸焼けなんてレベルではないはず。
そんなものに苛まれて、原因の一端が私にあるのだと知っているなら……それは、態度も辛くなろうというもの。
まして形ばかりの婚約の可能性、正しい伴侶は聖女となるあの子だった可能性があったのだとしたら、こちらは邪魔者でしかなかったのだ。
……どうすればよかったの。
……ああなるしかなかったの。
そう、開き直るしかない。
それこそ腹の奥で悔恨が悲鳴のように響いていても、あの私はあの処刑場で断たれたのだ。
それでも、開き直っても。
何度と数えることも飽きられるほど愚行を繰り返した身であることを、私はもう忘れていない。
……私があの私であるかぎり、ジュード様に安らぎなどなかったのだ。
女神は、だから、きっと、このようになさった。
私の救いではなく、ジュード様が、世界が救われるために。
『一度獣に生まれるとね』
だから女神はおっしゃった。
『次は人か獣か――確率が大きく偏るわ。そこは覚悟してね』
どちらに、など。問いはしなかったけれど。
今はそれも愚問だと分かる。
……ごめんなさい。
「……ぁ」
かすれた声とともに、私はこの姿になってから初めて、自分からジュード様へ身を寄せた。
「ん」
顔をあげたジュード様と視線がぶつかる。
穏やかな微笑みは――あのころを私に思い出させ、否応なく悔恨の渦に思考を叩き込もうとした。
けれど、それを引き剥がす。渦巻く懺悔よりも、ただジュード様に寄り添わなければという己の声に従った。
「やっぱりきみは人の言葉が分かるのかな。……だとしたら、素敵だね」
「……」
この姿で何をしたら、貴方が好きだと伝わるのだろう。
獣としての好意でいいのか、抱えてきた人としての想いでいいのか。
抱き上げた私と鼻をくっつけて楽しそうに笑うジュード様のおなかの向こうが、今は安らいでいるのなら――
……そうだ。
今はジュード様のお傍にいよう。
彼はオリビアと、学園で絶対に出逢うのだ。
そこへうまく潜り込んで……それにここでも信頼を得られれば、外出の自由は与えられるかもしれないし。接触の機会を探って、――それで……それから、――――、…………
折り合いをつけるために思考をめぐらせる私は、気が付かなかった。
「……素敵だ」
ひとしきり鼻をつきあわせたあと、また私を胸に抱え込んで身をまるめたジュード様が、ぽつりとそうこぼしたことなど。
「そうだよ。逃げてはだめだからね。僕ももう絶対に、きみを離さない。――エルリシア」
うっそりと――ささやいたことなど。
「一度壊したんだ、二度をためらう理由はないんだよ……」
……何も、知らずに。
このときの私は、ただぬくもりを享受していた。
ちなみにしばらく後になるのだけれど。
私の生家であるウルシュ家の一人息子が何故か女装をしているとか、前世の記憶ではたいそう好ましいお人柄だった王弟殿下の素行が悪いとか、宰相の息子が魔術に傾倒しているとか、騎士団長の長男が父親をしのぐ勢いで成長しているとか――
聖女が、自ら名乗り出るとか。
たったひとりがいないだけでこんなに世界は変わるのかと、私は驚きの日々を迎えることになる。