月迎えの巫女
長めです。
春は過ぎて夏は来る。そうすると秋が来る。豊穣の秋、読書の秋、運動の秋、いろんな秋がある。春にまいた種は豊かな実を抱き、風はほのかに寒さを帯びてきて人間の活動を助長してくれる。
ほら、秋が過ごしやすくて仕方がない季節だろう? どんなことをしてみても肉体的な疲労が最低限で済むから、皆なにかに挑戦したがるんだ。だから秋は四季の中でも特別なものだ。それに秋の月は亡者と会うことを許してくれるからさ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
校舎からは驚くほど静かだ。けれどそれは仰々しい静けさではない。朝凪みたいな自然で健全な静けさだ。それもそのはずだ、何せ授業中だからな。つまり俺はサボりの途中って訳だ。
ゆったりとした陽が差した中に吹く秋の撫でらかだだけど肌寒い柔らかい風と、ほのかな潮の香りを受けながら現代の学校にしては珍しい解放された屋上の金網フェンスに背を預けて、輝きながらその果てを知らせない無限に広がる大洋をじっと眺めている。考えることも無い。けどもしこのフェンスが対岸みたいに整備不良か何かで壊れてしまったなら俺は地上に真っ逆さまだろうな。多分一撃だ、助からないだろうよ。そうなったらもうこの屋上を解放できなくなっちまうな。人一人が死んじまったなら天下の学校様も頭を下げて、普段見下げて虐げいる生徒共にさらに縛りを設けてやることになる。そんで生徒共は事故死した俺を恨むだろうよ。「あいつさえ死ななきゃ私たちは屋上で青春を過ごせったっていうのに」って具合にな。クソッタレがまず人が死んだってことに何か思えってんだ。手前らに人の心は無いのか?
けど、俺もきっとここで人が死んじまって素晴らしき屋上が封鎖されたらその死んだ奴を恨むんだろうな。結局人間なんて言うの何処まで行っても五十歩百歩、ドングリの背比べなんだな。うな垂れちまうよ。うっわ、なんだこれ、俺の制服汚れちまったじゃねえか。誰だよ、こんな場所にガムを吐き捨てたやつは? 畜生。でも、あとで洗えば落ちるだろ。クッソ、ブレザーに汚れが付いてみると目立つな。
まあでもいいや。今はそんな気分じゃねえさ。
ああ、でもここの景色は素晴らしいよ。これだけ良いモンだったら誰もこの屋上を人生の終点にする奴はいねえだろ。だってこれだけ綺麗な風景なんて言うのはきっと日本中どこを探しても見つからねえと思うからよ。広島の宮島も、宮城の松島も、京都の天橋立もこの鎌倉様の風景には敵わないしな。地元だからって言う御贔屓が係ってるからかもしれないけど、それでもこんなに美しく凛として整っている風景は滅多にないと思うぜ。流石、鎌倉幕府が置かれた場所なだけある。お江戸様なんか今では風情の微塵も感じないけどここ鎌倉は違う。至る所に風情が残っている。高徳院の大仏。神道じゃ、三大八幡宮の鶴岡。他にも日蓮、真言、天台、臨済のしみったれた仏教寺社。下町には人情溢れる店の数々。浅草みたいな似非とは違う本物だぜ。それともちろん裏にはどっしり緑を蓄えた山が鈍く連なってありますぜ。それが背は任せなさいと言っていているようで惨めな気分でも何か頼れるように感じて素晴らしい。どこぞ、日本が誇る三大都市と横浜に神戸に博多に仙台、どこぞの都市にある惨めなコンクリートの無常な超高層ビルディングなんぞで埋め尽くされた自然亡き所とは違う訳ですから。けど、今は他の都市と同じように観光客だらけで静かに生活って言うのは中々難しいかも知れねえな。でもおかげで下町は潤っているのだから喧騒には金が付き物ってことで我慢するほかないな。観光は大切にしねえとだ。ということは死んじまったら観光にも影響が出るかもしれないだろ?
だからそうしたことを何よりも知ってるこの高校のやつらは死なねえよ。もちろん俺もだよ。でも知っていても死にたくなるやつって言うのは少なからずいるって訳だ。十代の悩みってやつだろうな。将来への不安、勉強苦、人間関係のもつれ、失恋、みたいな後から考えて見れば虫けらほどに小さなものとかな。もちろんこんなものは軽い? 言い方が悪いな、当人にとっては重くて重くて仕方がないんだから。けど俺から見たら正直言って軽い。だって比べてもどうしようもないがイジメとかで死ぬ奴も居るんだからよ。それでも、こんな俺でも、少しは理解できる苦痛だと思うからもし相談したかったら相談することを薦めるぜ? けど俺の世間体の悪評からして相談してくる奴は居ないだろうな。何せも一回だけ、理解していながらやっちまったことがあるからな。過去は拭えないものなんだよ。消せないものなんだ。どれだけ後悔しても過去には戻れない。だから人生の一瞬は大切にしなきゃならないんだ、考えて、考えて、考えて、途方もないほど考えて自分が今一番何がしたいのかを理解しなきゃならないんだよ。若人でも明日死ぬかもしれない爺でもな。
けど、本当に辛くなったら投げだしてもいいのかもしれないな。だって思い悩んじまって死んだら元も子もないからよ。
柄にもなく、とめどなく、俺の心内にはこんな将来未来のある少年少女へ対しての心配事を溢していた。余計なおせっかいって言うことは分かってるさ。親に言われても腹が立つんだから同年代のこんな馬鹿に言われたものなら閻魔の怒りさ、ああ分かってるよ。でも言葉に出してないんだからそこは許してくれよ。って、誰に謝ってんだよ俺は? 誰も居ないんだからそこで謝る必要はないだろうに。
全く、サボりに来たって言うのにも関わらずどうして変な気遣いをしなきゃならねんだろ。まあ、いいや。せっかくサボってんだ、ちょっとひと眠りでもしますかな。
そうして俺はこれから夕方にかけて徐々に寒くなることだろうから、ガム付きの汚れたブレザーを掛け布団の様にし、腕枕を組んで、硬く少し暖かいコンクリートの上に横になって少し疲れた目を閉じた。
しかし、人が休もうとすると邪魔が入るって言うのは世の常ってもんだ。
錆びた扉が軋んだしゃがれた音を出しながらゆっくり開いた。というか滅茶苦茶慎重に、誰にも気付かれたくなさそうに開くじゃねえか。一体誰だよ。どんだけサボることに臆病になってんだ? サボりって言うの堂々とするから楽しいもんだろ。ここは一つサボりの先輩である俺がサボりの極意を教えて進ぜよう。まあ、もしもそいつが先輩だったら誤ればいいし。
ようし、じゃあ一言かっこよろしい言葉でも掛けてやろうかしら。
「おい! 手前は何をしに来てんだ?」
っふ、決まっただろ。俺の頭の中で繰り広げられる男の子の理想を一つ、それも飛びっきりカッコいいセリフはこういう場面で使わないと。寝ていても君が来たことに気付いてる俺っていうシチュエーションは最高にクールだろうし。
どうだ、反応は?
「……」
え、無言なの? 絶対聞こえてたでしょ、俺の声。なのに無言ってお前、すっごい恥ずかしい。待ってよ、ほんとに無反応で俺を無視して歩みを進めないでよ。ほらほら、なんか言うことあるでしょ?
「……」
ホントに無言だよ。
わあ、顔面に血が上ってきて熱くなるのが自分でも分かるよ。マジで恥ずかしい。
はあ、こうなったらさっきの言葉は風の言葉ってことで自分の中にけりをつけておこう。うん、そうしよう。そうじゃないと黒歴史として頭に残っちまうからな。ふふ、妙案だ。
それにしても、野郎は本当にサボりに来たのか? クソ真面目な校風だからサボる生徒なんて俺くらいしか居ないと思ってたけどさ。周りが固い奴らばっかで、ここに入るのも慎重な野郎が周りの空気に惑わされ無い奴なんて肝が据わってる人間だとは思えないんだが。
「ふう……これで、ようやくね。やっと決心がついた」
なんだ女かよ。耳が良くてこいつの言ってることが聞けて何だか背徳感が凄い。
しっかしなんで一人で呟いてんだ。それもこの世の暇乞いを終わらせた坊主みたいな口調でさ?
「私は、貴方の傍に行きたい。だから私の代で月迎えは終わらせる。待ってて、今いくから」
おいおいおいおい、んだよそれ。マジで何するつもりだ?
というかあいつの声が聞こえてくる方向からして、あそこってフェンスが破れてるところじゃねえか!
こうしては居られねえ! クソッタレが!
体の全てが反射的に動いた。口も、足も、手も、目も、何もかもが一瞬の内で諦めの声を漏らしている女を捉えてくれた。想像通り、フェンスが破れた場所に儚げに立っていた。消えゆくものが最後に見せる儚さだ。
「待ちやがれ!!!」
「誰!」
良いじゃねえか、そんなに声が出るなら生きろよ。くっだらねえ。
自慢でもねえが俺は足がそこそこ速い。真面目に陸上やってるやつと少しくらいタメを張れるくらいにはな。だから野郎の体をこちら側に、野郎が足を向こう側にやって冥府の入り口に辿り着く前に、無理やり引っ張ることが出来た。まあ掴んでみた感想は細くて柔らかいっていう修羅場にしては俗すぎるものだけど。
「手前! 何やろうとしてんだよ!?」
「そっちこそ何よ!? いきなり私に飛びかかってきて、何様よ!」
それからは取っ組み合いだ。もちろん俺は力を大分抜いていたがな。取り敢えず頭を冷やさせるには存分にぶつかり合うって言うもんが筋だろ? もっとも俺の経験に置いてだが。
だから、とにかくこの女の体を傷付けないように気を付けながらあちらこちらから飛んでくる弱くて柔いパンチとジタバタと抵抗してくる足をあーだこーだして対処した。時々、何かとっても柔らかいものが当たって役得だった。自分で言うのもなんだが俺って言う人間はどうにもロクデナシみたいだ。
傍から見たら痴話喧嘩の延長線上か、俺が暴漢かのどちらか、いいや絶対こんな現場を見られたもんなら間違いなく俺が暴漢だって見られちまうな。だって相手は暴言を吐きながら、目に涙を浮かべて、黒髪を振り乱してるんだから。
「止めなさいよ! どきなさいよ! どうしてこんな邪魔をするの!」
ほら、俺が悪者だ。
でも俺は俺自身の正義の味方だ。
「うっせえ、馬鹿野郎! こちとら午後の休息をたっぷり取ろうとした居たのによ、手前みたいな陰湿な空気を醸し出してるいけ好かない野郎が来てイラついてんだよ! それに手前がここで滅多なことやりやがったら目覚めが悪いし、それにここでサボれなくなるだろ!」
「ええ……」
俺は自分本位な言葉で目の前で暴れている諭そうとした。もちろん本音だ。別にこいつが死のうと俺には関係ないけど、ここが使えなくなるのは不味い。マジでサボれる場所が無くなっちまうからな。
まあ、でもこういう場面でいうことじゃないのは分かってるさ。空気をあえて読まなかったわけよ。ホレ見て見ろよ俺を失望の目で見てんだろ、つうことはこいつも平静な思考を取り戻した証拠だ。ここまで人でなしっていう目で見られるとは思ってもみなかったけどさ。結構傷付くのよ。
「分かったか! 馬鹿が!」
俺はこいつの腕を引っ張り上げて立たせると、叱責した。
ただ俺の情熱はどうにも届いていないようで、この女は冷めた目でこっちを見つめていた。分かってるけどさ、せめて、もうちょっと優しくしてくんねえかな?
「暴れていた私が言うのも何なんだけど貴方もう少し良い言葉無かったの?」
「いや、だって俺お前のこと知らねえし、興味もねえもの。そりゃあ何にもないでしょ」
「……なんだって私はこんな男に。というか貴方、本当に私のこと知らないの? この地区だと結構な有名人だと思ってたんだけど」
名も知らねえ女はがっかりとした目つきでこちらを見つめてそんな自惚れを溢してきた。知らないものは知らないんだからそいつは自惚れだろ。
けれど流石自分で自分のことを有名人だって言う奴だ。顔の造形は滅茶苦茶整ってやがる。テレビに出てるヘタな女優なんかよりも、雑誌の表紙を飾る半端なモデルなんかよりもよっぽど可愛い。可愛いって言うか美しいって言うかなんていうか、言葉じゃ表しきれねえ何かがあるんだ。大きなアメジストのような瞳なんか見てるとこっちが吸い込まれそうになる。取っ組み合いの最中でこれでもかと触れた柔肌も着ぬように滑らかできめ細かくて白い。背丈もそれなりにあるようだ。これが魔性の美貌ってもんかな?
でも、そんなもんに現は抜かしてられねえよ。
「そいつは自惚れに過ぎないぜあんた。周りの野郎どもが全員自分のことを知っていると思っちゃあ甚だ傲慢ってもんよ」
「傲慢? 世間知らずなだけじゃないの?」
中々図太いなこいつ。
一体全体どういう思考回路してやがるんだよ? 普通、自分が知られていないって言うことを前提にして話すだろ。
「あんたの言ってるそれ自身が傲慢だよ。世間の物差しを自分に置くなってことだよ」
「そう……」
どっちなんだよ! 傲慢ならその態度で貫けよ! やりずれえだろ……。
ああ、畜生、めんどくせえ。なんでこんな良いサボり日和にこんな怠いことに巡り合っちまうのかな? 俺の日ごろの行いが悪いってか? ふざけんなよ、クソッタレの神様。俺にばっかそう言うことを振り分けるんじゃねえよ!
はあ、でも愚痴ばっかり言っても仕方がねえ、ここはもう一発忠告してやるか。
「とにかく手前はヘタなことすんじゃねえよ、俺に迷惑がかかるからな」
「嫌よ、なんで貴方に私が合わせなきゃならないのかしら?」
なんだよこの女、口を尖らせてそんなぶっきらぼうに言うんじゃねえよ。
一瞬手が出そうになっちまうだろ。
おいおい、髪の毛を指でくるくる遊んじゃってさ。マジでうぜえな。
この野郎……、ああうっぜえ。
「合わせる合わせないっていう問題じゃねえんだよ、馬鹿野郎。考えてみろよ? 手前は死んじまったら
無になるんだぜ。怖くわねえのかよ」
「私は何も怖くないわ。この世の暇乞いを全部終わらせてここに来たんだからね」
指遊びを止め、女はアメジストの目を真っ直ぐと俺の目線に向けて堂々と言った。自信たっぷりに言うことじゃねえだろ。お前、聖職者がそんなこと聞いたら顔真っ赤にして怒っちまうぜ? でも良かったな、俺がそんな徳の高い人間じゃなくてさ。
「……はあ」
しっかしどうなってんだよ。この女は?
自分の命を終わらせる事すら傲慢なのかよ。手前の命は手前だけのものだけど、そいつは手前のものであって手前のものじゃないんだよ。はたして俺が言えた義理なのかどうかは分からねえけどさ。いや。一回失敗してるからこそ言えるってやつだな。失敗しなきゃ何も分かりはしねえからな。
でもだ。ここまで覚悟決めてるみたいだからやっぱりこいつの意向通り向こう側に送り届けてやるか? けどそうすると俺の明日が、未来が心配だ。いやもう友好関係とかいうのは持ち合わせてねえから良いんだけど、俺の自由時間が奪われちまう。どうせ自殺したって分かってってもポリ公は検死するんだ。そうなるとさっきの揉みくちゃで俺の髪の毛だの、皮膚の一部だの、なんだのが検出されて、尋常じゃないくらい長い時間の事情聴取を受けることになるんだからな。まあ時間が奪われるってだけで、別に事情聴取は怖くねえんだけど。だって経験済みだからな、それも当事者としてな。
なら……、いや違うよな……。
「まだるっこしい」
なんだかなあ。
こんな調子の女を見るとはよ……、つい俯いちゃうよ。
コンクリートの地面を見ると遥か昔からこびり付いた鳥の糞が残って、そこに長年の雨やら風やらに吹きさらされた結果のヒビが薄らと入ってる。
まるで今の心境みたいだな。昔のことがあって、けれどそいつが付いているのは安全安心で壊れないと思われてるモノで、でも風さえ吹きすぎて他人には分からねえ傷を生んで、いざ気付いてみると取り返しのつかない破傷風さ。いつの間にか進行する病みたいだな。
ただ安全なことで校舎はまだまだ余裕みたいだ。あと五十年くらいは安全だろうよ。
逆に俺の心は限界かも知れないな。そうだよな、まだあれから一年しか経ってねえんだもんな。目の前の女と同じように覚悟を決めてやった時からたったの一年だ、そりゃあしょうがねえな。廃れちまった建物を突貫工事で無理やり補強した継ぎ接ぎ状態でよくも一年持ったと思うぜ? そこは褒めてやりたいね。流石俺だよ。
まあ、だからよ、こいつの気持ちも何となく分かる。死んでやりたいって言う気持ちが分かるんだよ。
けれど俺は否定してやりたいんだ。どうしてだかはいまいち理解できてねえし、言葉も出てこないけどさ。それでもどうしてだか俺の本能は否定してやりたいって叫んでるんだ。
「ねえ、他に何かないのかしら?」
「あん? まあ、ねえこともねえよ。ちょっと待ってくれ、頼むぜ。俺は今ちょっとした感傷に浸っているんだからさ」
「ふーん、そう。なら待ってあげるわ。まだ貴女と話してみたいし。なんたって貴方は私と同じようなことを、いや同じね、違うのは私の場合は一人で、貴方の場合は二人だったていうことだけ」
「人が大切な感傷に浸ってるっていうのに余計なちゃちゃを入れないでくれよ。しかも飛びっきりの爆弾をさ、デリカシーが無いぜ」
「あら、ごめんなさいね。あんなことを言うものだから、すっかり忘れていたと思ったのだけれど」
忘れられる訳無いだろ。
いいや前提が間違ってんだ、忘れちゃいけないんだよ人の死は。死は忘れるものじゃなくて理解するものなんだよ。どれだけ悲痛な死でも死を理解しなければならないんだよ。怖くて、悲しくて、恐ろしくて、寂しくて、惨い感情が湧いてくるかもしれねえけど、死を理解した先にある死者を尊び、失ったものから学ぶ、そんな精神を宿すことが正解なんだよ。もし死を忘れて、人を忘れるようなことがあったらそいつは人間じゃねえよ。それは唯の空虚な人形に過ぎないはずだ。空っぽのな、そこまで俺は落ちぶれちゃいねえ。それにこの女も落ちぶれちゃいねえだろ。だから死のうとしてたんだろ。じゃねえと、あんな甘ったれた声で『貴方』なんて言ねえだろ……。きっと想い人かなんかなんだろうな、死んじまったのは。そこまで俺と一緒かよ、運命を感じるぜ。
ただ不確定なもんだ、ここは一つ確認してみねえとだ。興味本位と、時間稼ぎと、説得の材料の元を引き出してやらねえと。
「忘れることが出来ないことくらい山ほどあるさ。というか手前も人が忘れられなくて俺と同じことをやろうとしたんだろうが」
「貴方と同じ……?」
「おいおい、ダンマリすんなよ。手前がさっき言ってただろうよ、『貴方』だとかよ。それに『月迎えを終わらせる』とか」
「……。アレを聞いていたの貴方?」
「ばっちりさ」
なんだよこいつ急に俯きやがって、顔が髪で隠れて表情が読めねえな。
こういうとき、出来る男だったら雰囲気で読めるんだろうけど残念ながら俺は不出来中の不出来で、産業廃棄物みてえな男だからな、何にも分かんねえよ。きっとこいつが分かったら俺も生きやすかったんだろうな……。もっと楽に生きてみたかったよ。
うん? 顔を上げたな。なんで目に涙を浮かべてんだよ? 俺、泣かすようなこと言ったか?
「あ、あのことを聞いて貴方は何を思った?」
震える声で、泣きじゃくった後の子供みたいだ。一体何を思ったんだ?
たださっきまでサッパリとしていたこの女がここまで気弱になって、臆病になってんだ、聞き返すのはおかしいよな。正直に答えてやらなきゃならねえな。
「俺は、手前が死を望んでいるってことを思ったよ。とろけるほど甘い声の中に確かな死の信念を感じたよ」
「それで?」
それでってお前、まだ俺に言わせたいのかよ。キッパリと言って見せた気がするんだが、まだ足りねえってか。なら満足させるまで聞かせてやるよ。
「それで俺、お前を死なせねえと思ったよ。死んではいけねえ奴だって、本当に思った。俺とは違うんだ、生きなきゃならねえ奴だってさ。まあ死んで良い人間なんてのは誰も居ないんだけどさ」
「それは私が月迎えの巫女だって知ってたから? 有用で、代わりの無い人間だからってこと?」
「いいや、ちげえよ馬鹿野郎。そんな打算的なもんで手前を判断した訳じゃねえさ、俺はただなんだか分からねえ感情に駆られたっていうだけさ。直情的なもんだよ。というか手前、月迎えの巫女だったのか!」
おいおいこの野郎が月迎えの巫女様だっていうのかよ。
じゃあなんだって自殺何て考えやがったんだ? だってよ自殺しちまったら向こう側に行けたとしても十五夜の日、こっち側に来れない命になっちまうだろ。それに巫女さんだったら死んじまった奴に真っ先に会えるはずだろうにさ。確か、巫女さんは誰よりも早く想ってた人に会えるんだろ。だったらなんでだ? いや、答えなんて一つか。
「そう……」
何故か物悲しそうに俯くと女は言葉を濁した。
「なんだよ、口籠もりやがって」
強い口調だったかもしれねえけど俺はこの野郎の口からちゃんとした理由を聞きたかった。だから罵倒に似たような口調で言っちまったよ。言葉を放ったのがついさっきなのにもう後悔の念に押しつぶされそうなくらいにはよ。本当だったらもっと優しい言葉で寄り添ってあげることも出来るはずなんだろうがな。俺にはそう言ったことは点で出来ねえよ、不器用、だからさ。
「普通、いたいけな少女が悲しんでいるのなら気を遣うのが礼儀じゃないのかしら?」
うっ、いきなり顔を上げんなよ。それも真顔でさ。ビックリしちまうだろ、まあ整った顔立ちだから苦ではねえんだがよ。
「うるせえよ馬鹿。それにいたいけな少女は屋上から飛び降りねえよ」
「まあ、そうね。それと嬉しかったわ……」
「嬉しかった? なんのこった?」
何言ってんだよこいつ。脈絡も無く唐突に嬉しかったってさ、思考回路がぶっ飛んじゃってのかしら? いやそんな失礼なこと考えるもんじゃねえ、きっと俺のカッコいい言葉こいつの胸に響いたんだろ。そいつは俺も嬉しいさな。
でもだ。一体何が嬉しかったんだ?
「貴方が打算抜きで私を見てくれていたことよ。物心ついた時から私の周りの人はほとんど、私のことをモノみたいに、月迎えのための装置としてか見てくれなかったからね。親でさえね。生まれた時から巫女としての素質があるからって私を養子に出して、たんまりとお金を貰ってね。所詮、金のなる木としか思われてこなかったのよ……。でも、貴方は私を人として見てくれたから、それが嬉しかったのよ。今はいないあの人みたいにね……」
「そうかよ、そらあ良いこった」
「あら、あの人が誰って聞かないのね?」
「聞かねえよ。そんな野暮なことはさ。大体あんたの口調でその人があんたにとって大切な人だってことくらい察しが付くからな。それによ、手前見てえに純情で、脆い表情になってる女の子に細部まで説明してもらうのはどうかと思うからさ」
「そう……」
素っ気ない言葉に、こいつはほんのりと微笑んだ。
肌寒い秋風が俺とこいつに少しばかり吹いた。
俺もこいつも意外な冷たさにぶるりと震えた。なんだか俺たちの今の心境みたいな風だ。しんみりとした風は俺たちに何かを、こいつと俺の至上命題の回答を教えてくれるような気もしたが、そんなのはただの妄想に過ぎなかった。俺の過去、こいつの現在、そんな難しくて、めんどくさくて、精神の奥底にどっしりと根付いている問題は肌寒い秋風では解決してくれないらしい。
「そんじゃあ、どうすんだよ結局。こんだけうだうだ話しててもしょうがねえだろうから。お前のファイナルアンサーを聞かせてくれよ」
俺はこいつの、こいつの問題の回答をどうしても聞きたかった。
そいつが俺の問題の答えにもなる気がしたからよ。
消せない過ちの回答になる気がしたからさ。世の中に絶望した恋人と一緒に鎌倉の海に心中した、けれど、俺だけ助かっちまった、事件の回答になる気がしたんだ。だって、俺とこいつは一緒だからさ。過去の亡霊に取りつかれているな。
「私は、やっぱり死にたいわ。でも、死ぬのは止める」
背伸びをして、間延びした声でこいつはそう言った。死にたいけど死ぬことを止めるらしい。そいつが答えか……。
「理由はどうしてだ?」
寂寥の念に駆られている俺は似合わねえ語気で尋ねた。
「だってあの人の代わりが見つかったもの」
俺とは真反対の期待を、今後に対する希望に満ちた言葉でこいつは短めに答えた。そいつが何だか眩しくて、こいつの顔を見ることが出来ず居る。ずっとひび割れたコンクリートを見てる。灰色で、汚らしい、俺みたいなコンクリートを。
それでも俺は、この僅かなやり取りの間にこいつの希望となった人間の名前を聞いてみたくなった。もしかしたらそれはこいつの機嫌を尋常じゃなく悪くさせるかもしれねえが、それでも俺は聞きたい。
「代わりって誰のことだよ?」
幾ばくは不安の入った声で俺は言った。
「貴方よ。我彦星春!」
名も知らねえ女は俺の名を堂々と叫んだ。
答えは意外だった。
回答を聞くや否や俺は途端に呆けてしまった。
「俺か……?」
間抜けた声を漏らすと、俺は顔を上げて、こいつの顔を見た。そこにはさっきまでの悲壮感漂う表情から一変して、満開の向日葵のような笑顔を浮かべた、美しい女が居た。
「ええ、そうよ。貴方があの人の代わり。貴方は私をあの人と同じように真実の目で見てくれた。それに、貴方と私が持つ罪はほとんど同じでしょ? どっちも古い思い出にすがり続けている罪を背負っているんですもの。だから一緒に背負いましょ? 貴方は私を、彼女に見立てて、私は貴方をあの人に見立てて生きていくの。そうすれば十分よ。私も貴方もずっと一緒に過去の亡霊と共に生きられる。一生の罪を共に背負っていけるじゃないの」
なるほど。妥協って訳か……。でも、こいつの言っていることは健全な関係じゃねえ。こいつが言ってるのは過去に対する依存だ。それは考えることの放棄だ。過去は乗り越えていかなきゃならねえのにさ。
でも、それでも、俺はこいつの言葉を飲み込みたい。そいつが俺の払拭できない苦しい過去を和らげてくれるからさ。
俺は……。
「随分と傲慢なご提案じゃねえか。でも、そいつは確かに良い考えだ。俺も納得したよ。だからその提案に乗らせてもらうぜ。過去を払拭するんじゃねえ。過去と付き合い続ける罪科を一緒に背負って行こうぜ」
二カッと笑いながら、明るく答えた。
俺はこいつと一緒にこのクソッタレな人生を歩んでいくさ。もう、想い人とは現世では一生会えねえ。だったら向こうに行くまでは、偽物でもいい、虚栄の愛情をこいつと紡いでいこう。決心さ。
「ありがとう。貴方ならそう言ってくれると思ったわ。そう言えば、まだ私の名前を言ってなかったわね。私は織村姫乃よ。これからずっとよろしく」
誓いの手を差し出してきた。
もちろん握ったさ。
「ああ、よろしく頼むぜ。俺が死ぬその時までな」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
秋風がまた吹いた。
そして、俺たちはここで新たなる生活を紡いでいくことを遥かな未来まで約束した。
ご覧いただきありがとうございます。