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「仄日と彼女と門出」

作者: 青黄 白

 浅瀬を泳ぎながら、ピュールはため息を吐いた。そんな彼女の手には、赤色の靴が収まっている。お世辞にも美しい状態ではないその靴は、少し前に海底に沈んだ大きな船の中で見つけた物だ。たまたまクマノミたちと追いかけっこをして遊んでいた時に入った崩れた船の中には、一緒に沈んでしまった人間の物が残されていた。その中にあった、片方だけの靴。靴底が剥がれてしまっているため機能を失ってしまっているが、人魚であるピュールにはそんなことは関係なかった。彼女にとって重要だったのは、そのフォルムだった。人間と違って足のない自分たちとは無縁のその形は、美しい物のように見えた。

 靴を気に入った様子のピュールに、クマノミがそれを靴と呼ぶことを教える。クマノミがどこで聞いたのかは知らないが、ピュールはその日から靴を探しに海底の船や人間でも来れそうな浜辺付近を探すことにした。


「靴ってなかなか見つからない物ね」


 太陽を見上げながら、ピュールは濡れた髪を腹ビレにかける。人間で言う耳の位置にある腹ビレをパタパタと揺らした拍子に、また髪が頬に貼りついた。腹ビレは他のヒレと同じ色をしていて、ピュールは赤サンゴ色のヒレを持っている。

 結局その日、靴は見つからなかった。


 翌日も、ピュールは靴を探す。休んでいたサンゴ礁から離れ、海から精気を貰い、昨日と違う方向に向かった。

 人気のなさそうな入り江を見つけて、そこの浜に座り込む。木や死んだサンゴが砂浜に流れ着いているが、お目当ての物はなさそうだ。休憩がてら周りを歩くヤドカリを突っついていると、背ビレにカニが突撃してくる。今度はカニを指でピンと突くと、カニは一直線に穴に潜り込んでいった。手元にいたヤドカリもいつの間にかいなくなっている。

 一人になってしまった、と顔をあげると浜に一人の人間が立っていた。慌てて逃げ出そうとすると「待って!」と声がかかる。思わず振り返ると人間が必死な顔でピュールの元に走ってくる。人間を近くで見るのは初めてだったピュールは、どのように対処していいのか分からない。首を傾げて戸惑った様子のピュールに、人間――青年はこう言った。「君を描かせてほしい」と。

 青年は「ルカ」と名乗った。そして自分が画家であること、ピュールを絵のモデルにしたいことを告げる。ピュールにとって人間は「未知な生き物」だったが、自分の欲に負けてしまったことも相まって、危害を加えてくるように見えない人間の言うことを了承してしまった。


「私、美しい靴が欲しいの」

「靴?」

「ええ。絵を描かせてあげてもいいけれど、その代わりに私にピッタリな靴をちょうだい」


 人魚であるピュールにピッタリな靴とは無茶な話だが、ルカは「それくらいなら」と快諾する。

 こうして、消して履くことのできない靴を欲しがる人魚ピュールと、実物の人魚を絵のモデルにしようとする人間ルカの奇妙な取引が成立した。

 ルカはまず、「毎日、昼にここで会おう」と言った。「昼」が太陽が真上にある時のことだと知ったピュールは、それ以外の時間を靴探しに使うことにした。モデルをして靴を貰うことになったが、自分が気に入る靴はいくつあっても構わないと考えた結果だ。わくわくしながら寝床にしようと思った岩場に飛び込み、「しばらくよろしくね」と声をかける。岩にくっついていたイソギンチャクの触手が、サラリとピュールの腕を撫でた。

 次の日、太陽が上に来る時間にあの入り江でルカと再会する。彼は平たい何かを持っていて、おもむろにそれを抱え直す。それは何かと尋ねると、紙の束を薄い木の板に固定した物だと教えてくれる。安定した場所で絵を描くためらしい。いまいちよく理解できなかったピュールだったが、気にせず何をすればいいのか指示を仰ぐ。ルカは海面から顔を出すピュールを見て、昨日のように浜辺に座っていてほしいと言った。それ以外は自由にしていていいらしい。

 ルカも濡れない距離で波打ち際に座り込み、板とピュールを熱心に見ている。交互する真剣な視線に慣れず、波を手で掬ったり自分の鱗を撫でたりして気を逸らす。ルカが居るせいか、昨日のようにカニたちが寄ってくることがないので、一人で時間を潰す。絵を描いている間はこんなにも暇なのかと、ピュールは少しだけ後悔した。靴を貰うためだと自分に言い聞かせて、何とか気持ちを切り替える。どうにかしてこの退屈な時間を過ごさなくてはと思案し、結局いつものように大好きな靴のことを考えることにする。ルカは茶色の靴を履いている。ピュールが持っている赤い靴とは形が違う。ピュールが持っている赤い靴は底の部分がカーブを描いていて、彼の履いている靴は平たい。色も形も自分の持っている靴のほうが好きだ。今のところこの赤い靴とルカの履いている茶色の靴しか知らないが、他にどんな物があるんだろう。黒はあまり好きじゃないから、明るい色がいい。形も平たい物より角度のある物がいい。ところで靴を履くという感覚はどんな感じなんだろう。思わず自分の尾ビレを振ってみる。


「あ」


 ルカが声をあげる。何だろうと顔をむけると、彼は「何でもない」と言った。気にはなったが特に問い詰めることもなくそのままぼんやりと過ごしたピュールは、太陽が傾き始めた頃ようやく解放された。


 次の日は、暇を潰せるように貝殻を持って行った。ピュールは昨日と同様浜辺に座って、貝殻を重ねて遊んだり手をかざして水かきを日光に透かして見たりした。そういえば、ルカの手には水かきがない。ヒレもない。これでは自由に泳ぐことができない。不便だなと鱗を撫でていると、爪に引っかかって鱗が一枚剥がれた。やってしまった、と思ったがどうせその内再生するので気にしない。そのまま鱗を摘まんで遊んでいると、ルカが立ち上がった。


「それ、貰ってもいい?」

「別にいいけれど……剥がれた鱗に使い道なんてあるかしら」

「ああ、綺麗だからね」


 近寄ってきたルカの掌に鱗を乗せると、ピュールの手がルカのもう片方の手で包まれる。水かきはないが、ピュールより大きな手は温かい。同時にルカの視線がピュールを射貫く。ピュールもルカの瞳を見るが、ルカが何を考えているのかは分からなかった。






 その日は、ルカが見える範囲の浅瀬でパチャパチャと水飛沫を楽しんでいた。あの日以来、ルカと近距離で話すことはしていない。昼頃に会って、「今日はこのあたりにいて」と言われて、陽が傾き始めると「また明日」と別れる。

 最近はずっと砂で遊んでいたピュールだったが、今日は気が向かなくて水で遊ぶ。ふと水平線を見ると、クジラが潮を吹いている。「ミャーミャー」と鳥の鳴き声も聞こえてきて、何となく歌を口ずさむ。ここが海の中だったら魚たちがリズムに合わせて踊ってくれるが、ここにはピュールとルカだけだ。口ずさむ程度だった歌にいつの間にか夢中になり、次々と違う音を紡ぐ。


「もう、やめてくれないか」


 遮られて歌が止まる。ムッとして彼を見ると、ルカは手で顔を抑え空を仰いでいた。声に震えが混じっていて、何となく「泣いているのかもしれない」と思ったピュールは、大人しく歌を諦めた。


「人魚の……」

「え?」

「人魚の歌には、何か特別な力でもあるの?」


 ピュールは「まさか」と肩を竦める。


「人間にどう思われているか知らないけれど、人魚って特別な力のある生き物じゃないのよ」

「……」


 ルカからの返事はない。しばらく無言が続き、ルカは夕方になる前に帰っていった。

 次の日、ルカは何も話さなかった。それを寂しく感じて、話しかける代わりにじっとルカを観察してみる。

 いつも真剣な瞳は、ピュールを隅々まで見られているような感覚に陥らせる。あの日以来彼に触れたことはないが、あの手のぬくもりは海の中では感じられないものだ。またあの温かさに触れたい、ピュールはそう思うようになっていた。けれど、理由がない。また鱗を剥がしてみようか。いや、また欲しがるとは限らない。もやもやとした気持ちになったピュールは、首を振ってそれらを振り払おうとしたが上手くいかなかった。こんな気持ちから早く逃れたいが、その術を知らない。ルカのせいだ。あの時、ルカに触れなければこんな気持ちにならなかったはずだと、心の中で責任を押し付ける。

 一日中無言だったルカは、やはり一言も話さず帰っていく。赤くなる海を見つめながら、ピュールはその場から動けなかった。ようやくピュールが海に帰ったのは、すっかり暗くなった頃だった。


 翌日いつもより早く入り江に行ったピュールだったが、太陽が頭上から少しずれた位置になっても、ルカは来ない。


「どうして?」


 ピュールの声は波音にかき消される。

 そんなに歌ったことが気に入らなかったのか、それともそれを謝らなかったせいなのか。

 俯く彼女を慰めるように、カニが手元を歩き回った。カニが穴に戻っていった時、空には星が瞬いていた。星は美しいから好きだったはずだが、ちっとも綺麗に見えなかった。


 翌日は、少し遅れて入り江に向かった。今日もルカが来なかったらどうしよう。何故か息苦しさを感じて、反射的に首を押さえる。海の中で息がしにくいなんてあるはずがない。遠目で様子を覗って、誰もいなかったら帰ろう。ピュールは誤魔化すように深呼吸をした。

 入り江から少し離れたところで、ピュールは海面から顔を出す。すると、昨日は会えなかった彼の姿が目に入った。しかし、ルカは浜辺ではなくザバザバと波をかき分け、首をキョロキョロさせながら海の中を進んでいる。水位はルカの腰あたりまであり、このまま進んでしまえばルカが流されてしまう。慌ててルカに向かって泳ぐとむこうもピュールに気付き、そのまま進んでくる。ピュールは速度を上げ、一気にルカの元へ距離を詰める。目前になったルカは胸あたりまで海に浸かっていて、早く浜に戻ろうとするピュールだったが、強い力で腕を引かれた。気付けばピュールは温かい温度に包まれていた。腕が背中に回され、彼の髪が顔に当たっている。


「昨日はごめん」


 温かい。ピュールは何だか泣きたいような気持ちになって、そっと腕をルカの背中に添えた。

 どのくらいそうしていたか分からないが、段々温度が下がった気がしたピュールは浜までルカの手を引いた。陸に戻ったルカは服を絞りながらピュールをチラチラ見ている。


「ルカ」


 ピュールはおそらく初めてルカの名前を呼んだ。ルカも少し驚いたような表情をしている。本当は、昨日来なかった理由を聞くつもりでいた。けれど。


「私の名前、ピュールって言うのよ」


 ルカは、とても驚いた顔をしていた。




「ピュール」

「リン、どうしたの?」


 朝早く、仲のいい人魚の一人リンがピュールのところに訪れた。リンはいつもの笑顔ではなく、少し難しい顔をしている。


「最近、あなたが人間に恋をしてるって噂になってるわ」

「恋?」


 リンは言った。

 昔、人間に恋をした人魚が海底の魔女に頼んで人間にしてもらったこと。その恋に破れて泡になって消えてしまったこと。


「ピュールが本当に恋をしているのか知らないけれど、ずっと一緒には居られないわ。人間と私たちでは寿命が違いすぎるもの」


 どうせすぐに人間は死んでしまう。リンは悲しそうに目を伏せた。人間は百年も生きることができない。比べて人魚は千年以上生きる。いや、そもそも「死」という概念がない。海の精気を受け取れなくなった人魚は海に「還る」のだ。そこに悲しみや寂しさはない。

 恋とは、「死」を辛いものにしてしまうのだろうか。別れることに涙を流してしまうのだろうか。

 ピュールは「私は靴が欲しいのよ」と言った。そうだ、自分は靴を貰う目的だったのだ、と。靴さえ貰えれば終わりなのだ。別に靴が履きたいわけでもない、人間は不便だから。ただ、自分たちにはないものを美しく感じているだけだ。そう言って笑ってみせるピュールを、リンは不安そうに見つめた。

 いつの間に靴のことを考えなくなったんだろう。以前はどんな靴が貰えるかということばかり考えていたのに。波打ち際に寝転がったピュールは、太陽を見ながら考える。波の感触を感じながらただただ何もしないでいると、「ピュール!?」と焦った声が聞こえた。身を起こすとルカが慌てていた。動かないピュールを見て体調でも悪いのかと思ったようだ。残念ながら人魚に体調というものはない。


「ねぇルカ」


 ――絵は、いつ完成するの?


 そう聞こうか迷う。ルカはずっと絵を描いているが、まだ完成したとは言わない。いつまでこうして顔を合わせられるのか知りたいが、もうすぐ終わると言われてしまったらどう反応すればいいのか分からない。もちろん靴が手に入ることを喜べばいいだけだが、何故だか喜べない。

 呼んでおきながら続きを話さないピュールに、「どうかしたの」と声がかかる。


「靴、楽しみにしてるわ」


 私にピッタリの靴ね。ルカに向かって笑ってみせると、彼は少し考えて「楽しみにしててよ」と胸を張った。絵が完成したらもう会えなくなるのに楽しそうに答えたルカに、ピュールは悲しくなった。彼にとって優先するべきことは「絵の完成」だ。靴が欲しいピュールと絵を描きたいルカ、それで始まった関係なのに、今はそれが嫌だった。胸がギュッと締め付けられたような感覚に、ピュールは手を握り締める。

 ルカが帰った後、ピュールはまた座り込んで太陽を眺めた。赤い太陽は青い海も白い肌も赤く染めながら沈んでいく。


「リン、どうしよう……」


 この場にいない友人に問うても返事はない。皮肉にも、リンの忠告で気付いてしまった。泡になって消えたいかと聞かれたら答えは否だ。ルカと過ごすために人間になりたいかと聞かれたら、よく分からないとしか答えられない。けれど先ほど別れたばかりの彼に「会いたい」と思う気持ちは、「ずっと一緒にいたい」と思う気持ちは。






 差し出されたそれに、思考がついていかない。そんなピュールに気付いたルカは、焦ったように言い募る。


「絵はまだ完成してないんだけど、ピュールに似合うと思って……気に入らない?」


 ルカの手には靴が二つ乗せられている。白い靴はピュールの好きな形で、「踵」と呼ばれるところから下に向かっていくつか花飾りが付いている。花飾りは、ピュールのヒレと同じ赤サンゴ色だ。

 驚きはしたが、その靴はとても美しくピュールはすぐに気に入った。受け取った靴を抱きしめて、心からの感謝を述べる。


「すごく素敵! ありがとう、ルカ」


 ルカが嬉しそうな表情になったのを確認し、ピュールは靴を見つめる。海の中にある人間の物は形が崩れていることが多い。水の中にあると劣化してしまうことを知っているので、地上で十分に楽しんでおく。

 ふとルカを見ると、その場で立ち尽くしていた。いつものように絵を描いていると思ったが、苦しそうな表情でただピュールを見ている。


「ルカ?」

「……もの」

「え?」

「海の魔物……人間たちには人魚はそう呼ばれているんだ」


 話の脈絡がないが、さすがにピュールもルカの様子がおかしいことには気が付く。


「その姿や歌声で船を惑わし、人間を殺す恐ろしい怪物ってね」


 人間を殺す。そんなことを考えたこともないピュールは、咄嗟に「そんなことしないわ」と反論した。しかし突然肩を押され、波打ち際に押し倒される。抱えていた靴は投げ出され、ピュールの視界から消えてしまう。代わりに顔を歪めたルカが、鋭い銀色の何かをピュールの首に突き付けている様子が飛び込んでくる。その瞳には強い感情が宿っていた。それはとてもじゃないが良い感情ではなくて、初めてそんな感情をぶつけられたピュールは、動くことができなくなってしまった。


「僕の婚約者は、人魚に殺されたんだ」


 彼女を乗せた留学先から帰りの船は、人魚のせいで沈んだ。船員たちが人魚の歌声に魅入られて、海に飛び込んでしまった。舵を取る人間がいなくなった船は、海流に逆えずそのまま……。ルカはそう言ってピュールを見下ろす。

 ピュールからすれば、それは人魚の仕業ではないと言える。仮にそうだったとしても、ピュールがやったわけでもない。それなのに何故憎しみのこもった目で見られなくはいけないのか分からない。そしてそれ以上に、ルカに嫌われていた事実がピュールの胸に刺さった。ピュールが悪いわけではないのに、理不尽な憎しみがピュールの心を踏みにじった。


「君はいつでも無防備だったね。簡単過ぎて、いつ殺そうかとこっちが悩んだよ」


 見たことのないルカの笑み。絵を描きたいと言ったのは嘘だったのだろうか。あの時ピュールを探していたことも、抱きしめたことも、全部嘘だったのだろうか。


「人魚って首を掻っ切ったら死ぬのかな、それとも水のないところに連れて行ったら干からびて死ぬのかな」


 どちらの答えも、ピュールは持っていない。それでも一つだけ分かったことがある。


「……ルカ、悲しいの?」


 ルカの涙はピュールの顔を濡らしていた。話しながら泣いていたルカは、指摘されて初めて気付いたようだ。彼が驚いて起き上がった隙にピュールも上半身を起こす。

 ルカは両手で顔を覆っていた。刃物は彼の傍らに落ちている。


「君はどうして、そんなに無防備なんだ」


 泣きながらそう言ったルカに「人魚は海に還るだけ」とは教えなかった。「死」と何が違うのか聞かれても困るからだ。泣いているルカをそっとして「ルカ、今日は帰るね」と残して海に潜る。目的地は海底の魔女のところだった。


 次の日の昼、ルカは浜辺に座り込んでいた。ピュールが近づいても声をかけても、脚に顔を埋めたまま動かなかった。

 その次の日も、ルカは浜辺に座っていた。太陽が沈んで真っ暗になっても、ルカは帰らない。ピュールもそんなルカを波打ち際から見ていて、帰らなかった。

 そのまま太陽が昇ってもルカは動かない。


「ルカ、帰ったほうがいいわ。人間ってご飯を食べないと死んでしまうんでしょう?」


 ルカは静かにピュールを見た。それでも動く気配はない。


「ルカ。私ね、ルカのことが好きなのよ。ずっと一緒にいたいと思うくらいに」


 目を見開いた彼に、安心する。


「だから死なないで。私のこと嫌いでもいいから」


 ピュールは人間になるつもりはなかった。海底の魔女から「婚約者」が人間にとって将来の伴侶のことを示すことを教えてもらったピュールは、自分の恋が叶わないことを知っていた。人間になっても泡になって一瞬で消えてしまうだけだ。人魚のままだったら、この恋が実らなくとも消えたりしない。それなら、彼がここに来なくなるまでは見守ろうと決めた。だから死んでもらっては困る。嫌われていることは悲しくて苦しいけれど、ルカが死ぬよりずっといい。


 次にピュールが入り江に来た時、ルカの姿はなかった。ようやく帰ってくれたと一息吐く。その次の日も、その次の日も、ルカは来なかった。

 人魚にとって、人間の寿命なんてあっという間だ。その間くらいならここに来てもいい。もしルカがこの場所に来た時に、会えるように。

 ――なんてピュールの思いを裏切るように、ルカは数十日後に姿を現した。あまりにあっさり現れて拍子抜けしてしまった。

 ルカはまた平たい何かをたくさん抱えている。それが何か尋ねると「完成したんだ」と大きなそれをひっくり返した。

 そこには青色の中を舞っているかのような赤サンゴ色の人魚が描かれていた。次の絵はそれより半分以下の大きさの絵で、泡に包まれた人魚がこちらを見て笑っている様子だ。最後に見せられた絵は、一人の女性が白いドレスを着て立っている絵だ。彼女は赤い花飾りがついた白い靴を履いている。


「ピュール。謝っても許されることじゃないと分かっているけど、謝らせてほしい」


 それからルカは本当にずっと謝っていた。人魚を憎んでいたことは事実だったが、ピュールがあまりにも美しかったので声をかけてしまったことも教えてくれた。その後は悩んでいたらしい。人を惑わす憎き人魚と、隙だらけの靴好き人魚が結びつかなかったとも言った。


「信じてもらえないだろうけど、君のことが好きなんだ」


 それにはさすがに驚く。ずっと嫌われていたんだと思っていたと言えば、この気持ちを否定しなければ自分が壊れるような気がしたんだと返ってくる。大切に思っていた婚約者を奪った人魚に自分まで魅入られてしまうなんて、これも人魚のせいだと思い込むことで罪悪感から逃れようとしたそうだ。

 ルカの言っていることがたまに難しいと感じるピュールだったが、とりあえず自分もルカのことが好きだと告げてみる。ルカは「参ったなぁ」と泣きそうな顔をした。


「……人間と人魚がずっと一緒にいる方法ってないのかな」

「あるわよ」


 ぎょっとしたルカに、思わず笑ってしまう。


「人魚の肉を食べると、不老不死になれるんですって」


 簡単に人間を捨てるなんて、なかなかできることではない。分かっていながら教えてみる。海底の魔女はどうしてそんなことを知っているのか、ピュールには考えても分からない。

 呆気にとられたルカを見ながら、自分の決意を思い出す。自分はルカという人間を好きになり、恋が叶わなくても彼がこの世からいなくなるまでは見守ろうと決めたのだ。どんな結果になっても、白い靴もルカを想う気持ちも忘れないつもりだ。






 *****






 新進気鋭の新人画家と騒がれたルサールカの絵には、画家が必ず絵につけるであろう題名がなかった。理由は未だに知られていない。

 彼の絵は、初期の頃は鋭さを感じる絵が多かった。濃い色合いと繊細な表現が相まって、美しい刃物のような印象を受ける絵ばかりだった。中期は繊細さが全面に出た作品に変化する。この頃から、人魚や天使のような人に非ざる者ばかりを描くようになる。後期は抽象画を描くようになった。パキッとした色だったり、淡い色だったり様々な絵は、見た者を切ないような苦しいような気持ちにさせる絵が多い。

 そんなルサールカの最後の作品は、唯一題名がつけられていた。この絵を最後に画家・ルサールカは失踪したと噂されているが、真相は定かではない。その絵は斜めに差す夕日の光の中の絵だった。男性のものと思われる黒いシルエットが浜辺に立っていて、夕日が映る海からは女性の肩から上のシルエットが出ている。彼女が男性を見ているのか、夕日を見ているのかは塗り潰されたシルエットのせいで分からない。ただ、立っているだけの男性の影はまるで今にも海に足を踏み出しそうだった。

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