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「ごめんね。かさね」
保健室をあとにした私たちは荷物を取りにいったん教室に戻った。
帰りのホームルームが終わった教室は閑散としていて、残っている生徒は誰もいない。
荷物を抱えて月曜日の時間割を確認していた私に、杏子は後ろから声をかける。
その声は震えてこそいなかったものの、か細く、今にもかき消えてしまいそうだった。
「どうしたの?」
振り返って見た彼女はうつむいて、目も合わせようとはしなかった。
「杏子……?」
「私、わかってた。今日、かさねがシカトされてるの」
彼女が言ったことなんて予想できてしかるべきだったはずなのに、かたちとして親友の言葉を聞いて、ぎゅっと胸の辺りが締めつけられる。喉の奥から嗚咽が漏れるのをどうにかこらえて私は答えた。
「だ、大丈夫だよ。そんな大げさなものじゃないし、杏子が心配するような――」
杏子は私の虚勢を遮るように続けた。
「昨日の夜ね、あけみから『かさねのことシカトして』って言われたの。それが昨日のうちにクラスに広まったんだと思う」
あけみが、そんな…………。
もちろん、こんな状況になっているのだからそれを始めた誰かがいることは確かなのだけれど、信じられない気持ちでいっぱいだった。
三年生になってからの付き合いだからたった一月半の間であるとはいえ、先週――あるいは、あの怪物に出会った日――までは、毎日この教室でおしゃべりしたりしていたのに。
「私、無理だって言えなくて、今日日直だからって自分に言い訳して一度もかさねとしゃべんなくて……ごめんね」
「どうして……あけみが……」
「あけみは、最近かさねが……その、変だからって言ってたけど」
「変……」
絶望に似た深い喪失感に襲われる。
こんなにも簡単に人は人に嫌われてしまうんだ。
たった数日様子が変だったというだけで、爪弾きにされて、私は彼らの中で誰でもなくなってしまう。
私はなにも悪くなくても、なにもしていなくても、めぐり合わせによってそうなってしまう。
「ねえ、最近何かあったの?」
再び顔を伏せてしばらくもじもじしていた杏子は、意を決したようにこちらをまっすぐに見て問いかけた。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「……だってかさね、最近様子変だから」
目の前が真っ暗になったようだった。
たった今私にあけみの言葉をそう伝えた彼女の口から、同じ言葉が出るなんて。
彼女にだけは――親友である杏子にだけはそんなふうに思われたくなかった。
「変って、杏子もそんなこと言うの?」
勝手に信じて、勝手に幻滅して、そんな身勝手を押し付けているようで、こんな言葉を吐きたくはなかった。
けれど、言わずにはいられなかった。
「でもかさね、実際普通じゃないよ! シカトされていいとは言わないけどそういう風に早とちりするところとか――」
「なにそれ……私、杏子だけは……」
「違う! 私はかさねのためを思っていってるんだよ?」
『私のことなんてなにもわかってないくせに!』とか『知らないからそんなことが言えるんだ!』とかその時私が言うべき返答はもっと他にあっただろう。
それなのに、私が怒りに任せて放った言葉がこうだったのは、それが返答ではなくて叫びだったからなのかもしれない。
「私だって……! 好きでこうなったわけじゃないのに!」
たったひとつだけ吐露した私の叫びを聞いた杏子がどんな顔をするのかを見る前に、涙があふれてきて、私は教室を飛び出していた。
なりふり構わず走り出して、私は学校を出た。通学路の地面だけを眺めながら駆ける。
登り坂を越えて、それ以上走れなくなった私が息を切らして足を緩めたのを見計らったように、夕立が降り出した。
昼間はそんな空模様でもなかったのに、見上げれば暗雲が立ち込め、肌を叩く雨粒が痛いほどの雨が降り出す。
鞄を頭の上にかざして慌てたように走る女の子二人組が、立ち止まった私を後ろから追い抜いて、水煙の中に消えていく。
熱くなっていた頭の芯がすうっと敏感になって、同時に背骨の付け根あたりがくすぐられるような居心地の悪さを感じる。
(私、なんてことを……)
数分前に杏子に投げつけたひどい言葉の数々を思い出して、ぞっとした。
そもそも、彼女があんな風に言ったのも私の状況を慮っていただけで、悪く言うような気持ちはなかったのかもしれない。私の様子がおかしいのは誰がどう見たってそうなのだ。
それを、私はあんな言葉で返してしまった。
状況がそうさせたとしても、そう動くしかなかった自分が腹ただしかった。
だって、もしかしたら一生杏子と口を利くこともできないかもしれない。
もうずっと私にあんな友人はできないのかもしれない。
激しい焦燥感に駆られて、私が走ってきた道を振り返る。
今すぐ戻って謝りに行こうかとも考えたが、たぶん今杏子の顔を見たところで素直に謝ることなんてできないだろう。
クラスメイトからは仲間はずれにされ、居場所を失い、絶対に失いたくなかった親友とも仲違いをした。
あの時、痛みを受けて守った全てが私から逃げていくようだった。
今までのすべてが無駄だったのではないかという思いが頭をよぎって、じわーっとさっきとも違う大きな熱が頭に上る。
冷たい雨が頭から滴るのに混ざって、熱い涙がぼろぼろとこぼれた。
びしょびしょに濡れた服が張り付くのも気にならなかった。
涙はいくらでも流れたけれど、声を上げることはなく、ただ頭の中を「どうすればよかったの」という気持ちがぐるぐると回る。
ザーッとホワイトノイズのような音に包まれ、灰色の水煙のなかで泣きじゃくる私に影が落ちる。
顔をあげると、いつの間にか、目の前には大きな蝙蝠傘をかざすビジネススーツの男が立っていた。
***
「あれ……私、寝ちゃったんだっけ……」
気がつくと、私は自室のベッドで布団に包まっていた。
目をこすりながらリモコンで明かりをつけると床には濡れた制服が脱ぎ散らかされている。それから、身につけた下着も髪の毛も冷たく湿っているところを見ると、どうやら雨の中帰ってきてそのまま服を脱いで寝てしまったようだった。
時間を見ようと携帯を開いて、すぐに閉じる。
(思い出しちゃった…………杏子……)
「はあぁー」と大きなため息も一緒に出た。
同時に今日一日であった嫌なこと辛かったことを思い出して、再びベッドに体を預けて枕を抱える。
(全部夢だったら良かったのになあ)
目が覚めたら、まだゴールデンウィークが開けたばかりで、わけのわからない怪物に襲われることも、みんなにシカトされることも、杏子と喧嘩することもなくて、ただ毎日を過ごせていたら良かったのに。
どうして、私はここにいるんだろう。
(考えても仕方ないか)
最後にもう一度小さくため息をついて、起き上がった。
部屋着に着替えてから、濡れた塊になっているセーラー服を洗濯機に入れるために一階に降りる。
ひょいと、父親がリビングから顔を出した。
「かさね、いたの」
「あ、おかえり」
「ただいま。そんなに降られたの?」
「うん、ちょうど強かった時に帰ってきたから」
「でも傘借りたんじゃないの?」
「傘?」
「玄関にあった黒くて大きい傘。男物だと思うけど、借りたわけじゃないの?」
「え、いや……知らない……」




