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6-1


 死んだ……。

 今朝、学校に向かう私の足取りは、ここ最近のそれに輪をかけて重かった。

 五月の末日、つまりは昨日一日を使って三年生は実力テストが行われ、昨夜その自己採点をしたのだが。

(ダメ人間になりつつある……)

 受験を目の前にして成績が下がっているなんて、父親に知られたらなんて言われるだろうか。

 このために、どれだけ学校に行きたくなくても授業を聞きに来ていたのに、とは悔しく思うものの、こうして成績が落ちていることが分かった以上、むしろ休むわけにはいかない。


 そう考えて登校した朝、私の下駄箱の中に上履きはなかった。

 ため息をつく。

(暇人かよ)

 杏子とも依然冷戦状態が続いているし、どうすればいいんだか。

 しかし人間は慣れる生き物のようで、こういった嫌がらせにすら心を動かさなくなりつつある自分が少し怖かった。

 周囲に上履きがないかを見回す。無い。

 近くのゴミ箱を覗く。無い。

 グラウンドに投げられていないか確認する。無い。

(んん? どこにあるんだろ?)

 一旦立ち止まって、再びぐるりと周囲を見回した。

 すると階段下の倉庫の鍵が壊れていることが目につく。

 ぺたぺたと靴下のまま、倉庫に歩み寄って、扉を開いた。

 中は暗く、何ヶ月何年も入れ替わってなさそうなカビ臭く埃っぽい空気で満たされて、軽々に足を踏み入れることがためらわれる空間だった。

(これ、中に入って空振りだったら嫌だなあ)

 闇を透かし見ようとすると、奥の方にぽうっと柔らかな光が滲んでいることに気づいた。

 その光を見るとなぜか心がゾワゾワと波立って落ち着かなくなる。

 躊躇っていた足が自然に動き出して、光に誘われるように倉庫に入っていった。

 埃だらけの倉庫の床に落ちていたにも関わらず、光を放つそれはツルツルとした触感を保っていた。手にとって見ると、角ばった鉱物のようで、しかし妙に軽かった。

(なんだろう、これ)

 上になにかがかぶさっていたようで、入り口で見たときよりもずっと明るい光を放っていた。

(こんなもの見るの初めて……)

 電球やLEDなんかとは明らかに違う異質な光だった。

 もしかしたら、私の知る非日常に関わるものかもしれない。

 そう考えて、もう少し観察しようと思ったところで。

 キーンコーンカーンコーン、と朝のホームルームの予鈴が鳴った。

 思いの外、上履き探しに時間を取られていたようだった。

 急いで教室に行こうと鉱物を元に戻し、上にかぶさっていたものも同様に戻そうとしたところで気づく。

「これ、私の上履きだ」


    ***


 無事に上履きが見つかって、私は埃まみれになったまま教室へ向かった。

 そのまま何事もなく、ただ一人であるというだけで、午前中の授業を終えることができた。勉強をしなければならない状況にある私にとって、休み時間を一人で過ごすことができるのは都合がいいと言えるかもしれなかった。 

 最近は私の自衛の成果もあって――教科書がボンド漬けにされるような――本当に面倒な悪戯をされることもなかった。

 そのために、私は自分のかばんをつねに持ち歩く羽目になっていたのだけれど。


 その日の昼休み、給食を食べるために食堂に並んでいたときのこと。

「おい、なんでかばんなんか持ってきてるんだ。置いてきなさい」

 耳元で大きな声が響いて、自然に身体がすくむ。

 話しかけてきたのは、口うるさいことで有名な体育教師。

「ほら、邪魔になるから一回出なさい」

 更には、私が返事をするよりも先に、肩を掴まれて、配膳列から連れ出される。強引に向き合わされて、はるか上から声を浴びせられた。

「なんで、かばんなんか持ってきてるんだ」

「…………」

 体格のいい男性教師が高圧的な態度で迫ってくるというだけで、まともに受け答えなんかできるわけもなく、ただうつむくしかなかった。

(教科書を勝手にいじられないためなのに、どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ)

「黙ってちゃわからないだろ!」

 全校生徒が並ぶ列の横で怒鳴られて、私の居場所は今以上になくなっていくのかもしれない。

 かといって、本当のことを話そうにも、大事になってしまったら結局同じことだ。

 ただ私は、静かに過ごしたいだけなのに。

 どうすればいいの。

「なにが入ってるんだ。貸してみろ」

 そう言って、体育教師は私のかばんに手をかける。

「……えっ、やだ!」

 十五歳の女子のかばんを男性教員が無理やり取り上げるなんてそんなことあっていいの!?

 けれど、周りに他の先生はおらず、私の味方になってくれる生徒は全校に唯一人もいなかった。

「あっ……」

 抵抗むなしく、私のかばんは彼の手に渡る。

 その瞬間、かばんの中から着信音が鳴り響いた。

 体育教師は得意そうな顔になって、

「おい、これはどういうことだ! 携帯電話の持ち込みは禁止されてるはずだぞ!」

(うそっ! 私、絶対電源を切ったはず!)

 携帯は、あいにく今までの私の危機では使う余裕がなかったけれど、父一人娘一人の家だからといざという時のために持たされていたのだ。

 学校では携帯の持ち込みは禁止されているが、私のような生徒も多く、学校にいるうちは電源を切っていれば、よっぽど口うるさい先生でもない限り黙認してくれていた。

 さらに、教師はあろうことかその場でかばんを開いて、中から携帯を取り出した。

「着信は……非通知?」

 教師は画面をスライドして、電話を取ろうとするが、唐突に「痛!」と叫んで携帯を取り落とす。

 落ちていく携帯を床に落ちる前に受け止めて、耳に当てた。

「もしもし?」

 私の呼びかけに応えたのは、落ち着いた男性の声。

「久しぶりですね。『救世主』」

(『救世主』……?)

「あの……誰かと間違ってませんか」

「いえ、あっていますよ。上岡かさねさん、指名されたのはあなただ」

「私?」

 そこで、体育教師が痛みから復活して、私を怒鳴りつける。

「おい! なにをしたんだ!」

(こんなやつ、相手にしてられない!)

 さっと床のかばんを取り上げて、私は食堂の出口に向けて走り出した。今の怒鳴り声を聞きつけて、他の先生も集まって来ていたけれど、全て無視して本校舎へ続く渡り廊下に入る。

 すると、窓の外の光景が視界に入った。

「な、なにこれっ!?」

「気づかれたようですね」

 受話口から声が流れる。

 しかし、そんなことに構っていられない程に、外は凄絶な光景だった。

 かつて、最初に私を襲った怪物。

 蟹のようなはさみ、しわくちゃの脳みそのような頭、ホログラムのような不安定な翼。

 その怪物が、まるで畑を襲う蝗害のように空を埋め尽くして、校舎の周り全体を取り囲んでいた。

 今までのような、ただそこに異様な存在があるというだけではない、この荒唐無稽な光景が世界と溶け合っていることが私には恐ろしくて、信じられなくて、ただ目を奪われていた。

「いかがですか?」

「あ、あなたがこれをしたの?」

「いいえ、私はあなたにお知らせするだけです。この状況を」

「私にそんなこと知らせてどうするのよ」

「あなたにはこれを解決する力がある。そして、ここにはあなたが守るべき同胞がいる」

「……私に、戦えって言うの?」

「私はなにも言いません」

 状況はこうだ。

 学校の周りを大量の怪物が取り巻いていて、そのままでは学校にいる人間が危ない。そして、それを解決できる人間は私しかいない、と。

 

 頭によぎるのは、水煙に煙る通学路。

 身を切るような痛みの虚しさと、どうにもならなかった無力感。

 

「や、やだ……私、行かない」

 気づいたら、私は送話口に言葉をこぼしていた。

「そうですか。もしも気が変わったら」

 そう言って、思いの外あっさりと通話は切れた。



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