不可視な僕らの境界世界・烏
古臭い、埃臭い、それも土埃臭い倉庫の真ん中でテーブルを挟むようにして置かれた二つの向かい合ったソファに僕とその男は座っていた。男の名前は黒崎。僕の命の恩人であり、今最も友人と呼ぶに近い、ただ一人の男。
倉庫の窓からは眩しいまでの朝日が差し込み、まだ夜の空気が漂い篭った倉庫内を照らし出す。遠くからどこかで蝉の鳴く声が夏の日の始まりを告げるようにしみじみと響いていた。
そんな夏のある朝。僕はとある用事を済ませたその足で墓地からの帰りに、この倉庫に寄ったのだった。一体どんな用事だったかって? それは僕の出会った一人の少女との一週間の物語。こんな風に言ってしまえば聞こえはいいが、もっと簡潔に述べるなら高校生活の貴重な夏休みの一週間と引き換えに僕が一人の少女の笑顔を取り戻すという話。ただそれだけの本当にそれだけの話。結果として彼女は成仏と言う形でこの世を去った。そう、僕の会った時点で少女は人間ではなかったのだ。
徹夜に加え自転車のこぎ過ぎで体力を限界を迎えた僕は真っ直ぐに家には帰らずこの場所に立ち寄った。向かいのソファでは黒崎が頬杖をつきながら欠伸をしている。そして、僕はまた溜め息をこぼす。さっきからこの繰り返しなのだ。
「どうしたんだい白鷺君? お嬢ちゃんだってちゃんと成仏したんだろ?」
「あぁ、確かに成仏はしたけど、結果から言えばめぐしは、いや、愛子は本当の意味で救われたって言えるのかなって……」
「そんな訳ないだろ」
「え?」
「昔から死人に口なしって言うだろ? 救われたとか、救われなかったとか、そんなの誰にも分からないさ。そもそも日紫喜愛子ちゃんの人としての人生は既に終わっているんだ。最後にお嬢ちゃんは自ら意思でその命を絶った。それがどんなに不本意や無念であったとしてもお嬢ちゃんにとっての真実に変わりはない。親より先に死んだ子供は賽の河原で石積みをするって話だけどお嬢ちゃんは今頃石積みをしてるのかもしれないし、もしかすると母親と二人もう一度仲良くしているかもしれないね。辛いようかもしれないけど、この先は白鷺君や俺が関わるべきものじゃないのさ。お嬢ちゃんと言う名の『ナニカ』はあるべき場所に帰った。ただそれだけのことなんだから」
「……めぐしがさ、成仏する直前に僕に泣きながら笑顔で大好きって言ってくれたんだ。最後まではよく聞き取れなかったんだけど、めぐしは僕に何を伝えたかったのかな」
「白鷺君。それはね、きっとお嬢ちゃんが求めて止まなかった『愛の言葉』なんだよ。自分がかけて欲しかった言葉を最後の最後に他人にかけてあげるなんて、本当に素敵なお嬢ちゃんじゃないか」
僕はあの日、確かにめぐしに出会った。それは僕にとっての真実。しかし、僕は日紫喜愛子本人には決して一度も出会っていない。それがこの世界の真実。そんな二つの真実は時として人間の僕と『ナニカ』の僕を苦しめるかもしれない。
それでも僕はあの日、めぐしと出会えたことだけはこの先も決して後悔なんてしないだろう。
__僕はもう人間ではないのだから。
真夏の太陽に晒され、照らされ、加熱され、灼熱の牢獄と化した部屋の中。僕はベッドの上で干からびた屍のように、ただ夏休みを費やすように、うつ伏せに、伏していた。
「お兄ちゃん! 朝だよ! いい加減起きる時間だよ! そんなんだからいつまで経っても友達一人もできないだよ! 私は今、とってもアイスが食べたいだよ!」
部屋の外からは相変わらず妹の意味不明な罵声が響いていた。時計に目を向けると時刻は9時半を回っている。
今は夏休み、それも高校一年の夏休み、一般的に考えれば青春の真っ只中だが、そんなことは僕には関係ない。なぜなら、僕には大凡、友達と呼べる存在がいない。勿論、ガールフレンドなど以ての外だ。それでも僕は人間として生きていること、こうして今の自分がいることに、感謝している。いや、そうでなければいけないような気がする。だって……。
__僕は人間ではない『ナニカ』なのだから。
僕の名前は白鷺周。日本に住むごく普通の高校一年生だ。そんな僕には友達が一人もいない。その理由に関しては割愛させてもらおう。自分に友達がいない理由を自己分析して自分の口から語る以上に辛く虚しいことはないからだ。
もう一つだけ、僕は、僕には、僕だけには普通の人間とは異なる点がある。
それは僕には『ナニカ』が見えるのだ。
姿の見えないもの、姿を持たないもの、存在しないもの、存在するはずのないもの、どこにでもいて、どこにもいない、名前すらないそのモノたちを僕は『ナニカ』と呼んでいる。
何故、僕にだけそんな『ナニカ』が見えるか。それは僕が『ナニカ』に襲われ、その末に人間をやめてでも生き続けることを選んだからだ。今思えば、あれはこれまで真面目に生きてこなかった僕に対する『罰』だったのかもしれない。そして、これから『ナニカ』と、人間ですらなくなった自分と、向き合って生きていくことが僕の贖罪なのかもしれない。いや、それは考え過ぎだ。待て待て余りにも罪が重過ぎる。自分で言っておきながら危なく納得してしまうところだった。僕より遥かに悪行を積んでいる人々はこの世に溢れているはすだ。今更、そんなことを考えても遅いことは僕が一番よく分かっている。
僕は自室を出て、朝食を済ませると、ある場所へ向かうため玄関で靴を履いていた。そんな僕の後ろ姿を見た妹が驚いたように慌てて駆け寄って来る。
「あー! お兄ちゃんお兄ちゃん! 友達のいないお兄ちゃんがこんな猛暑の中、一体全体どうして! ううん、どこへ行こうと言うの! もしかして可愛い妹の私のためにアイスを買って来てくれると言うの! 因みに私は抹茶味が好きなんだよ!」
何ともわざとらしく図々しい妹だ。と僕は思ったが、ここは敢えて何も言わないでおこう。
「分かったよ。ついでに買って来てやるから大人しくしてろ」
「うんうん、流石は私のお兄ちゃんだ! 早く帰って来てね! お兄ち……ううん、抹茶アイスを待ってるからね!」
「お前の頭の中は僕よりアイスなのか!?」
何はともあれ、影をなくした少女、めぐし、いや、日紫喜愛子との一件が終わってから、もう二日が経っていた。僕はまだあの一件が心のどこか片隅に引っかかったまま、何かを引き摺っていた。本当にこれでよかったのだろうか? 彼女は救われたのだろうか? 僕の会っためぐしは人間ではなかった。でも、彼女は僕の前で泣いた。そして、最後には笑って消えていった。なら、人間の僕たちと『ナニカ』の僕たちの間には僕が思うより差なんてないのかもしれない。
もし、そうだったとしたら、人間と『ナニカ』、それら二つの世界の間には一体何があると言うのだろう。その境界は、両者にとっての不可視なものなのかもしれない。そして、その境界に立っている僕は、僕だけは、僕だからこそ、そのことを誰よりも理解しなければいけないと思う。
僕は途中、コンビニに寄ってメロンパンと紙パックのミルクティーを二つずつ買い、目的地に向かった。猛暑の中、僕がさっきから向かっている目的地。それはいつもの倉庫だ。こそにはあの男はいる。黒崎だ。
先日のめぐしの一件は厳密に言えば、めぐし自身が『ナニカ』であり、そのめぐしに取り憑かれたのが僕と言うことになる。つまりこの場合、めぐしを成仏させることによって僕が黒崎に助けられた形になるのだ。それをいいことに黒崎はその報酬として一週間の間、毎日僕にメロンパンと紙パックのミルクティーを買って来ることを要求した。何故、よりによってその二つなのかは分からないが、本人曰くベストマッチらしい。おそらく大好物なのだろう。いい年をして甘いものを好むあたりや、ミルクティーは紙パックにこだわるあたり、黒崎らしいと言えばらしいのかもしれない。
僕が倉庫の入り口、大扉の前に到着すると、そこには一人の長い黒髪の少女が立っていた。その手には白杖が握られている。どうやら、視覚障がい者のようだ。扉の前に立ち尽くしているところを見る限り、中に入るのを躊躇っているのか? 少なくとも困っている様子のその少女に僕は声をかけた。
__こうして、夏休み後半は幕を開ける。
「あの、ここに何か用ですか?」
「あら? どちら様ですか?」
「僕は白鷺と言います。困っているようなので声をかけたんですけど、邪魔でしたか?」
「……あなたが白鷺周さん?」
僕の名前を知ってる? どうして? 少なくとも知り合いではないはずだ。なら、一体……。
「どうして、僕の名前を?」
「これは失礼いたしました。私は胡桃沢千歳と言います」
千歳と名乗る少女は僕のいる方向とは別の方向に向かって頭を下げた。徐に頭を上げると少女は奇妙な話を僕に話し始めた。
「私がここへ来ることも、白鷺周さんのお名前も、私たちがここで会うことも、全て夢で見た上で私はここへ参りました。私は白鷺さんと黒崎様のお二人に私の未来を変えて欲しいのです」
「未来を変える?」
間違いない、これは『ナニカ』が関係している。すぐに自分の手には負えないと理解した僕は迷うことなく倉庫の中へ盲目の少女を手を引くように案内した。
僕は何の躊躇いも、ノックもなく倉庫の大扉を開けた。中ではソファに横たわるようにして男が眠っている。顔の汗を拭うと僕はコンビニの袋をテーブルの上に置いた。
「起きろよ黒崎! 約束通り今日も買って来てやったぞ! あと僕とお前に客人が来てる」
「だから、寝てないってば……客人? はぁ〜」
欠伸をしながら黒崎がその大きな体をソファの上に起こす。その向かいのソファには見覚えのないであろう盲目の少女が腰を下ろしている。黒崎は背もたれに寄りかかると不敵な笑みを浮かべた。
「白鷺君、また女の子かい? 君もなかなか見た目によらず罪な男なんだね」
「別にそんなんじゃねぇよ!」
「まぁ、それは冗談として、お嬢ちゃんはどちら様かな?」
「私は胡桃沢千歳と言います。今日はお二人にお話があってここへ参りました。どうか、私をお二人のお力でお救いいただきたいのです」
盲目の少女は黒崎の座っている隣に向かって深々と頭を下げた。
「まずは顔を上げなお嬢ちゃん、話なら聞くさ。白鷺君が客人って言うだ。きっと、それなりの問題なんだろう。全く白鷺君といると退屈しないね」
「どういう意味だよ?」
「別に悪い意味じゃないさ。お嬢ちゃんの問題って言うのは『ナニカ』のことなんだろ? 察するにその『目』が関係してるんじゃないかな?」
黒崎の言葉を聞いた盲目の少女は口元に手を添え微笑みを浮かべた。
「流石は黒崎様、お察しが早くて助かりますわ」
「それでお嬢ちゃんの話ってのは?」
「単刀直入に申し上げると、お二人に私の未来を変えて欲しいのです。言い換えるなら、私を死なぬように守って欲しいのです。信じられないかもしれませんが、私は夢で未来を見ることが出来ます。そして、私はその夢で私自身の死を予知してしまった」
「そんな訳……」
「あるよ。それは未来を見せる『ナニカ』だ。つまり、『夢惑烏』だね。お嬢ちゃんが視力を失っているところを見るとまず間違いない。それは鳥の見せた夢なんだ」
「夢見鳥? それって蝶のことじゃないのか?」
「そうだね、夢見鳥は白鷺君の言う通り蝶の異名だ。でも今回のお嬢ちゃんに取り憑いているのは夢見鳥じゃなくて夢惑烏さ。夢を惑わす、夢で惑わす鳥。風見鶏ってあるだろ? 風向計のやつさ。ノアの方舟でオリーブを持って来たのも鳩、つまり鳥。鳥は人に何かを知らせる、人を導く動物なんだよ。夢惑烏の場合は鳥ではく烏と書いて烏と読む訳だ。烏は八咫烏、案内する烏を意味する。何が言いたいかって、お嬢ちゃんに取り憑いた夢惑烏は未来を見せる、そして、その未来へ導く。代価として視力を奪うことでね。そう言う『ナニカ』なんだよ」
黒崎の得意げな話に僕と千歳がきょとんとした顔を向けると黒崎は呆れたように溜め息を吐いた。
「ごめん、何言ってるのかさっぱりだった」
「つまり、私はその鳥に死へ導かれていると言うことですの?」
「白鷺君はともあれ、お嬢ちゃんの認識はそれで十分さ。でも、まさか夢惑烏に会った人間が助けを求めに来るとは正直、珍しいこともあるものだね。お嬢ちゃんは気付けた訳だ、烏の魔力に」
「烏の魔力?」
「だって白鷺君、考えてもみなよ。未来が見える人間がどんな生き方を送って来たか。いくら両目の視力を失うことになろうとも、未来が見える力が手に入るなら、きっと喜んでその力に縋り付く人間がいるだろうに。お嬢ちゃんも最初は喜んでその力を使ったことだろう。でも、そんなことを続ければ人間はどんな風になるか?」
「確かに、私はこの力に気付いて以来、ずっと力に頼りっぱなしでしたわ。お陰様で何不自由なく今日まで生きて参りました。でも、私は私の死を予知してからその死を受け入れるまでの間、自らの人生を振り返ったのです。そして、そこには何も、何一つ見えませんでしたの」
「そう、だから生きたいと思った。そして、ここへ来たんだね? お嬢ちゃんは偉いよ」
「いいえ、私はただ死の前に夢でここへ来ることを見たためにここへ来たに過ぎないのかもしれません」
「おい、何二人だけで話を進めてるんだ?」
「まだ気付かないのかい白鷺君? 烏の未来に頼って生きて来た人間はね、レールの上の人生なのさ。自分で何かを考えることもなく、自分で何かを成すこともない、それはつまり動く人形、機械と同じことだろ? 普通の人間なら、何の疑問も持たずにそのまま自らの死すら受け入れてレールの上の人生を全うしただろう。でも、お嬢ちゃんは違った。そんな中でも『生きたい』と必死に願ったんだ。白鷺君に死を受け入れることが難しいように、お嬢ちゃんにとっては生きたいと願うことが同じくらい難しいことだったってことさ」
黒崎の言葉に僕は盲目の少女に対して、千歳に対して、そして、未来を見せる烏、夢惑烏に対して、何かを大きな勘違いをしていたような、そんな、衝撃を覚えた。
「でも、未来を変えるなんて僕たちに出来ることなのか?」
黒崎は僕の言葉を鼻で笑うといつもの不敵な笑みを向けた。
「それは簡単な話さ。烏が夢を見せるから、その未来は作られる。なら、その烏を退治してしまえば、お嬢ちゃんはお嬢ちゃんの力でまだ見ぬ未来を切り開くしかなくなるだろ? そうなれば、両目の視力も元に戻る。未来を見据える力と引き換えに現実を見つめる視力を取り戻す訳だ」
「ちょっと待ってくれ、千歳はもう既に自分の死を見てるんだろ? それって、つまり見てしまったその未来は変えられないってことなんじゃないのか?」
「それは白鷺君の頑張り次第かな。今日、いや、日を跨いで明日までには解決するさ」
黒崎が僕に向けていた不敵な笑みを今度は千歳に向ける。
「ところでお嬢ちゃんはこれから起こることをどこまで見てるんだい?」
そうだ、千歳が本当に未来を見ているのなら。これから起こる事態をある程度知っていてもおかしくはない。
「眠っている私に白鷺さんが何かしているところまでは見えるのですが、その先何が起きているのか、それが私には分からないのです」
「おい! 急に変なこと言うなよ! 僕がそんなことする訳ないだろ!」
「いや、それで正しいよ。烏は夢を見せるからね。お嬢ちゃんが寝ている間に動くことは間違いないさ。きっとお嬢ちゃんには白鷺君みたいに『ナニカ』が見えていないんだろう」
そうか、『ナニカ』が見えるのは僕だけなんだった。
「一体、これから何をするつもりなんだ?」
「今夜、白鷺君はお嬢ちゃんが寝ている間に烏をお嬢ちゃんの中から引き離すのさ。今はそのことだけを考えていれば大丈夫だよ」
僕には理解出来ないが黒崎が大丈夫と言うのなら、きっと、それなりの策があるのだろう。僕たちは一通りの手順を確認すると、夜までの間、待つこととなった。ソファの上で黒崎は満足そうに僕の買って来たメロンパンとミルクティーを堪能している。一方、千歳は何か思うことがあるのだろう、神妙な面持ちで微動だにしない。僕は自分のメロンパンを千歳の手に持たせた。
「これは?」
「メロンパンだよ。美味しいから食ってみろって」
「メロンパンですか。私はここでこれを食べません。それが私の見た夢です……」
僕は千歳の手からメロンパンを奪い取ると彼女の口に向かって強引に押し付けた。
「ほら、食った。烏の未来なんて簡単に変えられるだろ? だから、食えよメロンパン」
「白鷺さんは無礼な方なんですね」
「はっはー、白鷺君もなかなか面白いことするようになったね」
黒崎の笑い声に千歳ははにかむようにしてメロンパンを頬張った。
「美味いだろ?」
「美味です……メロンパン」
それから、僕たちは三人で深夜になるのを待って黒崎の計画通りの行動を始めた。千歳は倉庫に残りソファで眠りに入る、僕と黒崎は千歳が眠ったのを確認するまでの間、倉庫の外に待機していた。
夜の風が草木を揺らす中、黒崎は夜空に浮かぶ星を眺めながら口を開いた。
「白鷺君、ちょっといいかな?」
「なんだよ?」
「もし、お嬢ちゃんが夢惑烏に従って烏と一緒に死ぬことを受け入れたら、白鷺君はそれでもお嬢ちゃんを助けようとするかい? それがお嬢ちゃんの望まぬことだったとしても? それでも白鷺君はお嬢ちゃんを助けるのかい?」
僕には黒崎の言っている言葉の意味が分からなかった。でも、たとえ黒崎の言っていることが現実になったとしても、僕は千歳を助けようとするだろう。彼女がそれを望まなかったとしても、僕は彼女が生きることを望むだろう。それが彼女にとっての苦しみだったとしても。いや、僕はもしかしたら本当の意味で千歳を助けたいのではなく、ただ単に死んでほしくないだけなのかもしれない。僕は自分勝手な子供なのかもしれない。それでも……。
「黒崎……僕は僕に助けを求めるなら、人間でも『ナニカ』でも関係ない。迷わずに助けるよ。たとえ本人がそれを拒むことになっても」
「そう言うと思ってたよ。それでこそ白鷺君さ」
そうか、今頃分かったよ黒崎。僕はめぐしを助けてよかったんだ。あれは間違いなんかじゃなかったんだ。僕は僕の助けたいものを助けた。それは日紫喜愛子であって、僕の出会っためぐしだ。僕は『ナニカ』の彼女を助けたんだ。
黒崎は最初から、それを分からせるために……。
「ありがとな、黒崎」
「何のことかな? お礼ならもうメロンパンで払ってもらっているはずだよ。それより白鷺君、今の時刻は?」
「0時5分前だ」
「うん、そろそろだね。じゃあ、行こうか白鷺君。君はまた一人の女の子を助けるんだろ?」
「あぁ」
倉庫の大扉を開けるとソファの上で千歳が眠りについている。
「行くんだ白鷺君」
「行くって何をするんだ?」
「いいからいいから」
黒崎に言われ僕が千歳に歩み寄ろうとしたその時、少女の背中が激しい光に包まれた。
「なんだよ、これ……」
「俺には何も見えないよ。白鷺君には見えてるんだね?」
「嘘だろ?」
そう、『ナニカ』は僕以外の人間は見えていない。それは当然、黒崎や千歳自身も例外ではないのだ。
次の瞬間、突如少女の背中から現れた天使のような純白の大翼が羽ばたいた。
「これが……」
「白鷺君、君には何が見える?」
「巨大な翼が見える! 黒崎! 一体、僕はどうすればいいんだ?」
「その翼をお嬢ちゃんの体から引き抜くんだ白鷺君!」
「引き抜く?」
恐る恐る、翼に手をかかると僕は力一杯に翼を引いた。しかし、それと同時に少女の悲痛な悲鳴が倉庫中に響き渡る。
「え……」
「白鷺君! 手を止めるな! お嬢ちゃんを助けるんだろ!」
「分かってる!」
僕が千歳の背中から翼を引き抜いたその時、僕と千歳の体が刺すような激しい光に包まれた。
目を開くと僕は倉庫の床に仰向けに倒れていた。頭上では顔を覗き込むように不敵な笑みを浮かべた黒崎が僕を見ている。
「大丈夫かい? 白鷺君」
「何が……あったんだ?」
「それは自分の目で見てごらんよ。折角、君にしか見えないものなんだから」
僕が体を起こし千歳に目を向けると、少女の傍らには全長2メートルを超える巨大な、それも純白の烏が立っていた。烏はただ真っ赤に輝いた目をこちらに向け佇んでいる。
「これが夢惑烏……」
僕は人間と『ナニカ』との境界を超えられる、そんな幻想を抱いてしまっていた。でも、それは錯覚だったんだ。今、僕の目の前にいる『ナニカ』はめぐしとは全く違う。こんなのただの化け物じゃないか……。
目の前の圧倒的な恐怖に竦んだ僕の肩に黒崎が手をかけた。
「よくやった白鷺君。大丈夫だよ。夢惑烏はこちらを襲ったりはしない。だから、お嬢ちゃんを早く起こしてあげるんだ。それで白鷺君の仕事はお終いさ。あとはお嬢ちゃんと烏の問題だ」
「待ってくれよ! 烏を退治するんじゃなかったのか!」
「だから、それはお嬢ちゃんの役目なんだよ」
黒崎が一体何を考えているのか、やはり僕には全く理解出来なかったが、今の僕に出来ることは千歳に駆け寄り彼女を起こすことだけだった。
「起きろ! 千歳! おい、起きろよ!」
「うぅ……私は……」
目を覚ました千歳は平然とソファに体を起こし、口に手を当て欠伸をしている。そうだ、彼女にも何も見えてはいない。僕が勝手に一人で騒いでいるようにしか見えていないのだ。
「お嬢ちゃん、白鷺君のお陰で今お嬢ちゃんの中から烏を引きずり出すことに成功したところだよ。烏はお嬢ちゃんの隣にいる。あとはどうすればいいのか、お嬢ちゃんには分かっているはずだろ?」
「そうですか……」
盲目の少女は烏に背を向けるとコンクリートの地面に跪き、両手をついて、その頭を下げた。つまり、土下座をしたのだ。
「ごめんなさい!」
ごめんなさい、それが少女の第一声だった。烏の姿も、場所も、分からないにも関わらず少女は必死にその場で頭を下げ続けた。僕には何が起きているのか、理解が出来なかったがすぐにその意味が分かった。
「私がいけなかったんです。私があの時、目の前の現実から逃げたから、お母さんのいない現実から逃げたから、失うことを恐れて未来すら捨てて逃げ出してしまったから、全部私がいけなかったんです。私はもう逃げませんから、ちゃんと一人でも辛い現実を乗り越えてみせますから、迷っても、傷付いても、立ち止まっても、私は私の未来を進みたい。私は私の未来を生きたい。だから私の未来を、どうか私に返してください。お母さんのいなくなってしまった世界を私に返してください。お願いします」
少女の光を失った瞳から輝いた雫がこぼれ落ちた。彼女の言葉を聞いた烏は優しく、ただ優しく少女の頭を嘴の先で撫でた。その姿はまるで子供を思う母親、そのものだった。
これは僕が後から聞いた話だが、ここからは少々、彼女の、盲目の少女の、胡桃沢千歳の、話をしよう。
彼女がまだ四歳だった頃、元々体が弱く入退院を繰り返していた彼女の母親が亡くなったと言う。まだ幼く母親を亡くした現実を彼女は受け入れることが出来なかった。いや、出来なかったのではない、しなかったのだ。彼女は母親のいない現実から逃げた。目の前の現実から目をそらしたのだ。
そして、そんな時に彼女は一羽の烏に出会い願った。
もう二度と辛い現実を目の当たりにせずに済むことを、未来すら見据えることでどんな現実ですら受け入れられる力を、そうして千歳は光を失った、未来を失った、全てを失った。
斯くして、今の今まで烏の映し出す偽りの未来を生きて来たのだ。
そして、僕たちの前で今、千歳は烏に自らの未来を願った。つまり、彼女は自らの意思で作る未来を望んだ、自らの意思でその手を伸ばしたのだ。
黒崎は最初から全てを知っていたのだろう。夢惑烏を退治しても、千歳が彼女自身の死を予知した以上、その事実は変わらない。烏が消えたとしても彼女は死を迎えることになっていただろう。
しかし、彼女は彼女自身で烏に新たな未来を望んだ。このことにより、烏の見せた未来は彼女の意思に背いた。不要になったのだ。烏の導きは今この瞬間をもって完了したのだ。
これから先の未来を彼女は取り戻した。彼女自身が自らの未来を背負うことによって。逃げ続けて来た現実を受け入れ、彼女は闇の中を傷付きながらでも手探りで進むことを選んだのだ。それが彼女にとって、母親を失った少女にとって、どれだけの恐怖と立ち向かうことになるのか、僕には到底理解出来ないものがあっただろう。
涙の雨が去った後の晴れ晴れとした顔を千歳が上げた時には、そこに既に烏の姿はなかった。きっと、この先の未来へ自らの足で進むことを選んだ彼女の姿に安堵した烏は役目を終え飛び去ったのだろう。もしかすると、烏は母親を失った少女と共に生きてきた娘を守る母親のような存在だったのかもしれない。
__一人の少女の瞳には『未来』と言う名の光が宿っていた。
少女は立ち上がると僕と黒崎にゆっくりと頭を下げた。
「本当にありがとうございました。白鷺さん、黒崎様」
「いや、僕は何もしてないよ」
「そうさ、お嬢ちゃんはお嬢ちゃんの力で自分だけの未来を掴んだ。だから、もう二度とそれを離しちゃいけないよ」
「はい! 私の未来は私が決めます!」
どうやら、全て解決したようだ。僕と黒崎は顔を合わせるとソファに腰を下ろした。涙を拭いた千歳が僕の隣へ座る。
「あの、白鷺さん……」
「ん? お礼なら別にいいよ」
「私、好きになりました……メロンパン! 今度、是非一緒に買いに行ってくれませんか?」
「おぉ? なら、俺の分も頼んだよ白鷺君」
「おいおい、またメロンパンかよ……」
「あと白鷺さん……」
「ん?」
「白鷺さんって夢で見るより実物の方が何倍も素敵ですね」
希望に溢れた少女の微笑みは僕には少しだけ眩し過ぎた。
こうして、僕の夏休み後半は波乱の幕開けを飾ったのだった。
そして、夏休みという名の高校生活は続く。
本作品を最後までご覧いただき本当にありがとうございます!
この作品は『不可視な僕らの境界世界・蛛』の続編となっております。前作をまだご覧になっていない方がおりましたら、是非そちらの方もご覧いただけると幸いです。
思いつきのあらすじを趣味で文章に起こした作品ですが、好評ならまだまだ続編を制作する予定です。
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