⑴思想の壁
それは、叫び声だった。
怒号や雄叫びのようなエネルギーの放出とは違う、忌避すべき全ての感情を凝縮した悍ましい悲鳴であった。
一瞬、和輝の視界は爆発にでも巻き込まれたみたいにぱっと白く染まった。そこからのコンマ数秒、自分が何者であるのかすら喪失してしまった。
頭上では緊急警報が嵐のように鳴り響き、穏やかな昼下がりの回廊は一変して非常時の緊迫感に包まれた。
亡失の後、何処かから嬉々とした笑い声が聞こえた。警報の中、それは夏の夕立のように容赦無く降り注いだ。
気付くと悴んだように指先が冷えて固まっていた。僅かに伸びた爪が掌に食い込み、血を滲ませている。何かを考えていたようにも思うが、それが何だったのか思い出せなかった。
音の波に乗って、慌しく看護師が駆けて行く。和輝は波間に漂う木片のように壁際まで追いやられ、今にも溺れてしまうような恐ろしさに襲われた。
行かなければと思うのに、頭の中に泥でも詰まってしまったかのように思考が纏まらない。自分よりもふた回りも大きな筋骨隆々たる看護師が肩口に衝突し、脇目も振らずに走って行く。危うく尻餅を着きそうになり、寸でのところで壁に手を添えて体を支えた。
廊下には合わせ鏡のように無数の扉が嵌め込まれている。好奇心と恐怖心を綯い交ぜにした人々が覗く様はまるで、モグラ叩きみたいだった。
胸の内で深呼吸をして、和輝は平静を取り繕った。浮き足立つ収監者を諌める為に足を踏み出す。その時、背中を鋭い刃で貫かれたような直感に身体が強張った。全身を軋ませながら目を向けると、琥珀色の眼球がうっとりと此方を見ていた。
「キチガイだ、キチガイだ」
其処にいたのは、昔話に出て来る魔女のような老婆だった。黄ばんだ歯を剥き出しにして、無邪気な子供のように声を弾ませている。胡麻塩に似た髪からは頭垢が雪のように肩に積もり、彼女が小躍りする度に空中へ舞う。生理的な嫌悪感が腹の底から湧き上がり、和輝は眉を顰め、廊下を歩くことだけに集中した。
蜂谷和輝は今年で三年目を迎える若い精神科医の一人だった。生まれは日本で、高校卒業と同時に渡欧し、欧州の医大卒業後は精神病院にて勤務している。この精神病院は首都圏から離れた田舎にあり、最寄駅までは車で一時間以上かかる陸の孤島である。治療や保護という名目で重度の精神病患者を社会から隔離するこの閉鎖的な建物は、謂わば監獄であり、完成された箱庭であった。
傷一つないリノリウムの床は、蛍光灯の光を鈍く反射していた。廊下の隅に置かれた偽物の観葉植物がエアコンの風に微かに揺れ、石膏の壁には両手で抱える程の額縁が飾られている。農夫が田畑の世話をしている美しい風景画だ。絵画に疎い和輝はそれ以上の感想を持ちようもなかった。著者はもちろん、其処に植えられた作物の名称すら知らない。
夜明け前の陽の光に照らされた風景は郷愁に駆られるが、生憎と田舎で生活したことはない。
扉の並ぶ廊下を抜けると、視界は突然開かれた。和輝がロビーに到着すると途端、鼻腔の奥に、覚えのある鉄臭さが漂った。
白い壁、白い天井、白い蛍光灯の明かり。蠢く人の群れから、鼻を抓みたくなる程の血液の臭いがする。言葉にならない罵声や叱責の声の喧騒が、性質の悪い伝染病みたいに広がっている。その中心部にいる人間に、和輝は騒動の大枠を理解した。
患者やスタッフの群れに取り囲まれているのは、美しい青年だった。老いた野良猫のように痩せ細った身体と、モザイクガラスみたいな茫洋とした瞳。髪は夜空から抜け出して来たようなブルネットで、蛍光灯の明かりを反射して艶を放っている。風が吹けば消えてしまいそうな儚い雰囲気が、どうしようもなく庇護欲を駆り立てる。
収容された患者はある程度治療が進むと、他者との交流が許される。このロビーは彼等の小さな世界だった。彼等の作る世界はいつも排他的で、他者の介入を許さない。異分子を排除しろと、遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。
和輝はそっと息を呑み込んで、他者を刺激しないよう努めて平静を装って、その名を呼んだ。
「昴」
騒ぎの中心にいた青年が、嬉しそうに振り返った。花が咲くように美しい微笑みだった。和輝は肩を落とし、手招きをする。
子犬のように駆けて来る昴を、周囲の人間は忌々しげに睨んでいた。辺りは不穏な空気に支配され、酷く息苦しかった。
昴の左手には血塗れのボールペンが握られていた。そして、床には血液が飛び散っている。腹を押さえて蹲る者を介抱する看護師は、眉根を寄せて、何かを懸命に堪えるようにして口を真一文字に結んでいた。
和輝は昴の血塗れの手を握り、辺りを視線で牽制しながら声を潜めた。
「何があったんだ」
興奮冷めやらぬ凄惨な状況で、看護師は喘ぐようにして耳打ちした。
「昴が刺した」
その物騒な言葉は、垂れ流されたテレビの無害な音声に、呆気なく呑み込まれて消えた。
和輝は背中へ目配せする。昴は何処か得意げな表情であった。まるで褒められることを期待する幼子のようであった。
和輝は昴の手を引き、ロビーを後にする。純真な目を向けて追い掛ける彼に、胸の内に苦い思いが込み上げる。背中には幾つもの視線が突き刺さっていた。そこに質量があったのなら、今頃は血塗れなのではないだろうか。
「キチガイだ、キチガイだ」
何処かで笑い声が聞こえる。
事態の収拾に動き出す看護師の気配を背中に感じながらも、和輝は決して振り向かなかった。
1.予定調和の檻
⑴思想の壁
ロビーから離れた隔離病棟まで到達し、周囲に人気がないことを確認すると、漸く和輝は昴を振り返った。
「何があったんだ」
問い掛けには、隠し切れない緊張感が滲み、和輝は自身の余裕の無さに酷く焦った。けれど、その決意とは裏腹に、昴は平然として答えた。
「何もなかったよ」
息を呑んだ和輝は、そのまま呼吸すら見失ってしまうような転落感に襲われた。
昴にとっては、何も無かったのだろう。例え、彼の存在が周囲に緊張感を齎しても、その言動が不興を買っても、彼にとっては普通のことなのだ。閉鎖されたこの精神病棟で生きる彼は他に比べるものを持たず、その異常性に気付かない。
質問を変える必要がある。
和輝は仕切り直すようにして、再び問い掛けた。
「どうして、あの人を刺したんだ?」
すると、昴は合点がいったように頷いて、小鳥のような円らな瞳をきょとんと丸めた。
「死にたいと言っていたから」
至極当然のことを言い放つように、昴は堂々と答えた。そこに害意や悪意の類はない。それは彼にとって、親切だったのだ。和輝はその答えを予期していた筈なのに、苦い後悔と共に顳顬を貫くような頭痛に苛まれた。
この精神病棟には、自傷行為を繰り返し、自殺願望を抱く者もいる。だから、昴は死にたいと言った患者の願いを聞いて、額面通りに叶えてやろうとしたのだ。
何かが和輝の琴線に触れ、不安を駆り立てる。薄氷の上を裸足で歩いているような、喉元に刃を突き付けられているような、覗き込めば二度と戻れない闇の深淵にいるような恐ろしさが肌を粟立たせる。
奈落の底に落ちてしまいそうな思考を繋ぎ止めるつもりで、和輝は口を開いた。
「それは、いけないことなんだ」
昴の両手を握り、和輝は祈るように言った。けれど、昴は隔絶された水槽の向こうにいるかのように小首を傾げている。
踠いても踠いても這い上がれない泥濘の中にいるみたいで、酷く息苦しい。
「どうして?」
価値観の壁が、目の前に立ち塞がっている。
和輝は諭すように、一言一句を間違えないように、ゆっくりと言った。
「人の命は一つしかないんだよ。それを奪ってしまったら、二度と取り戻せない」
「でも、死にたいって」
「今は死にたいと願っていても、明日は生きたいと思えるかも知れない。君がしたことは、その人の未来を奪うことなんだ」
昴は、親に叱られた子供のように、泣き出しそうに顔を歪めた。
「解らないよ」
どんな言葉を紡げば、伝わるのだろう。
糠に釘を打つような虚しさに苛まれながらも、和輝は伝えなければならなかった。
「俺が嫌だから、駄目なんだ」
祈るように、何度でも言い聞かせる。
昴は口元を綻ばせて快活な返事をした。その微笑みは許容でありながら、理解とは程遠い。越えることの敵わない境界線の存在を嫌という程に感じさせた。