京都幽玄譚-黄昏時のハローウィン
生まれて初めて京都を訪れたわたしは、前々から興味を持っていた仏閣を訪れて、京都という空間を楽しんでいた。
十月も終わりを告げようという寒い季節の京都は、目に鮮やかな紅葉が景色に映えて、何枚でもカメラに風景を収めたいという気持ちに駆られてしまう。ただの町並みにすら風情を感じ、通りすがる地元の人達の視線も気にせずにデジタルカメラのシャッターを押した。
八坂通にある建仁寺の風神雷神図屏風、天井を舞う二匹の龍、パノラマに広がる整然美とした白洲の庭、打って変わり紅葉舞い散り苔むすしっとりとした風情の庭、寺内のふすまにすら美と荘厳な迫力が籠められていて、ただただ陶然とした心持ちで堪能して回った。建仁寺をあとにし、今度は松原通を越え、六波羅蜜寺に向かった。
わたしにとって、京都東山は特に六波羅蜜寺が見所で、そこの重要文化財でもある十一面観音立像は実にたおやかで優しい顔つきが心を癒やしてくれる。他にも傑作と思える彫刻が納められていて、一つ一つの彫像を丹念に見て回った。平安時代から始まり、鎌倉時代へと続くいくつもの彫像の繊細かつ薄皮の奥底をも見通した秀美に、取り憑かれたように見入り、時が過ぎるのも忘れてしまう。満足しきって寺を出ると茜色に染まった空が、朱墨を刷き飛ばしたように広がっていた。
観光ツアーが予定している夕食の時間まで一時間ほどしかなかったが、心穏やかな時間に終りを告げるのが名残惜しく、わたしはゆっくりと六条通へ向かった。古い建築と新しい建築の家とが混じり合い、どことなく現実味のない町並みを眺めながらそぞろ歩いた。時々、濃い橙色をしたかぼちゃの顔を模したプラスチック製の、ユーモラスな飾りを施した家がある。
そうか、今日はハローウィンなのだ、とわたしは思い当たった。
幽玄な町並みとハローウィンの飾りはあまりにもそぐわない気もしたが、飾り付けられた家々を黄昏時に眺めていると、それもあり得るんじゃないかと思えてくる。
多分、先程までの夢心地を今も引き摺っているのだろう。ふわふわとした気分が酩酊したときのように、わたしの認識を緩ませている気がした。手にしたカメラを構え、わたしはその飾りも京都の一部だと受け入れてシャッターを押した。
と、つんつんと裾を引くものがいる。わたしは振り返り、誰もいないはずの通りを見回した。しかし、またも裾を引かれた。視線を下げるとそこに白い着物姿の五歳くらいに見える男の子がいた。額に幽霊の漫画でよく見る三角の布を巻き、着物は浴衣のような布地で五歳の男の子に着せるには小さすぎて、つんつるてんだった。
外灯が点くほどでもなく、かといってはっきりとものが見えるわけでもない。こんな薄暗闇に小さな子供が一人いるのも珍しく感じる。
「どうしたの?」
比較的優しい声音で、話し掛けてみた。すると、男の子が右手を差し出して、小さな声で言った。
「飴ちょうだい」
「飴?」
わたしは背後の家に飾られたかぼちゃのおもちゃを振り返った。ああ、トリックオアトリートお菓子をくれなきゃいたずらするぞ、そういうわけか。一人納得し、肩掛け鞄の中を見てみる。飴はいつも持ち歩いていた。のど飴だが、たまに舐めたくなるときがあるからだ。わたしは一粒取り出して、男の子の差し出した手のひらに載せた。
「これでいたずらはしないでね」
わたしの言葉に、男の子がにっこりと笑顔を見せ、「ありがとう」というと、包みを破り飴を口に含んだ。他の家に立ち寄るのだと思い込んでいたわたしの考えを裏切るように、わたしが辿ってきた建仁寺に通じる道へと走っていき、突如として消えた。
驚いたわたしは夕闇に消えた男の子を探してみたが、杳として知れず、消えた場所に駆け寄ったとき、示し合わせたかの如く、外灯がぱちりと点った。隠れる場所もない通りで霞のように消えてしまった男の子を追って、来た道を戻る。
松原通まで戻り、わたしはいきなり現実に引き戻され、我に返った。
道を抜けた先、松原通を挟んだ真向かいに『幽霊飴』という幟を見つけた。わたしは道を渡り、店に入った。店先に飴の由来が書かれたチラシがあり、幽霊飴というラベルの貼られたベッコウ飴が売られている。
わたしが男の子にあげたのど飴は、ベッコウ飴ほどには甘くない。さぞかし甘くないのをもらった、と不満の思いで消えてしまったのかも知れぬと感じ、わたしは店主から幽霊飴を一袋買い上げて、黄昏が深まる京都の町へと再び戻っていった。
これを読むあなたがわたしの話を嘘だと思うのならば、あの通りに赴いてみるといいだろう。あなたもあの男の子に出会えるかも知れない。幽玄の都、京都ではなにが起きても不思議はないのだから。
了