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田口雪絵:野球名門校へ進学を決めていた少年は、リトルリーグ時代からのライバルに身体を交換される

「昨年夏の甲子園では惜しくも大西義塾に敗れましたものの準優勝となり――」

 校長のその言葉を聞いた瞬間、少女は椅子に座っていられなくなった。

 クラスごとに横一列に並ぶパイプ椅子。その一番端に座っていた少女――田口雪絵は、大きな注目も集めることなく体育館脇のトイレに行くことができた。

 用を足したいわけではない。とにかく誰もいない場所に行きたかった。心の中で荒れ狂っている感情をどうにかして静めなければならなかった。

「くそったれ……」

 さすがは私立でトイレもきれいなものである。公立校なら間違いなく汚れ放題のこんな場所のトイレさえ、美しく装われて清潔に保たれている。

「何で俺がこんなところにいんだよ! 雪絵の野郎! 畜生! 泥棒! ぶっ殺してやる!」

 便所の壁を蹴りながら薄汚い言葉を吐き散らす雪絵だが、その声は鈴を転がすように可愛らしい。幼さを残した色白の顔立ちも保護欲をかきたてる類の魅力に満ちている。

 また一方でその身体はしなやかに引き締まり、彼女が優れた運動選手であることも示していた。

 洗面台の鏡がふと目に留まる。そのせいで雪絵は自分のそんな姿を再確認することになる。

 現実を認めたくなくて雪絵は大きくかぶりを振る。しかしそれで鏡の中の姿が変わるわけもない。背中まで伸ばした長い髪が大きく揺れ、うなじで束ねている二つのリボンにかかった重みが、改めて現実を突きつけた。

「俺は稲葉陽介」

 鏡に向かい、声に出して言う。鏡の中のツインテールの美少女が口を開き、声優のようなソプラノで言葉が語られる。

「何を言っているんだい、雪絵」

 からかうような笑いを含んだ男の声が背後から聞こえてきた。

 五十絡みの白髪痩身の男が立っている。

 雪絵の父、田口純二だった。

「ここは男子トイレだよ。君が入る場所じゃないな」

 ぼさぼさに伸ばした白髪を振り乱し、ばりばりと頭を掻いてふけを撒き散らしている。背広もネクタイも皺くちゃだ。

「…………」

 何も答える気になれず、雪絵は純二を睨みつける。しかし相手は殺気を込めたそんな視線も柳に風と受け流す。

「たった一年の辛抱じゃないか。いや、私なら一年では足りないと思うところなのに」

「俺は、あんたや雪絵みたいな変態じゃない!」

「言葉遣いには気をつけたまえ。元に戻るのが一年後より遅くなるかもしれないよ」

「…………」

 静かで穏やかだが、純二の言葉は雪絵の罵声をぴたりと止めた。

「返事は?」

「……はい」

 不承不承と傍目にもわかる形でだが、雪絵はうなだれて恭順の意を示した。

 雪絵が陽介に戻るためには、この『父親』を怒らせるわけにはいかないのだ。


 十日前の晩。雪絵から会いたいとの電話があった時、陽介は意外に感じはしたものの何となく承知していた。

 陽介と雪絵は、小学校時代からの知り合いだ。と言っても家は離れているし、クラスが一緒だったことも一度しかない。むしろ学校の外でよく会った。

 二人は別々のリトルリーグに所属し、それぞれのチームのエースで四番だったのだ。

 次の日、試合をよくやった河川敷のグラウンドで、雪絵はすでに待っていた。陽介は土手の階段を足早に駆け下りて、雪絵の立つマウンドに近づいていった。

 ――あいつ、あんなに可愛かったんだ。

 グラブを手にしている雪絵の顔は、強い闘志をみなぎらせていた。彼女がどんなつもりで陽介を呼んだかはその姿を見ればとてもよくわかったが、それでも陽介の脳裏にまず浮かんだのは「可愛い」という言葉だった。

 子供の頃は負けず嫌いな性格や口の悪さばかりが目についたものなのに、我ながらずいぶんものの見方が変わったものである。

 ――ま、あいつも女だもんな……。

 この『勝負』につきあったらその後は喫茶店にでも誘ってみようか、と陽介は考えた。

「待った?」

 久しぶり、と言いたい気分だったが前日の晩に電話で話したばかりでそれもおかしいかと思い、陽介はそんな風に声をかけた。

「そうね。……三年ぐらい」

 雪絵は陽介を見据えると、そう言った。

「……え?」

「稲葉、リトルリーグやめる時にあたしと勝負して負けたよね」

 そこまで教えられて、ようやく思い出す。

「あたしに三振くらってホームラン打たれた後、言ったよね。『今度こそ負かしてやるからな!』って」

 そこでつと目を逸らすと、やや声を落として言った。

「あたし、あれからずっと待ってたんだけどな」

「あ……それは……」

 最初から、無視するつもりだったわけじゃない。

 しかし中学に入ってから陽介はどんどん背が伸び、筋力もついてきた。今目の前にいる雪絵とは――雪絵も女子にしてはそれなりに身長の高い方だと思うが――もはや十五センチの差が生じている。

 陽介にとって、雪絵はもはや戦うべき相手とは思えなくなり……そしていつしか約束を忘れてしまったのだ。

「ま、済んだことはどうでもいいよ。けど今は、三年前と同じつもりで相手して」

「あ、ああ」

 陽介はバットを手に、バッターボックスに向かおうとした。

 ともにエースで四番の二人である。投手と打者として一打席勝負した後、次は立場を入れ替えて打者と投手として一打席勝負、という方法で三年前は戦ったものであった。

「ところでさ」

「ん?」

「あたしがもし勝つか引き分けかしたら……あたしの言うこと一つ聞いてもらえない?」

 後にして思えば、雪絵のこの提案を断ればよかったのだ。

 しかし陽介は、雪絵が『引き分け』と自分から譲歩したことにある種のショックを受けた。小学校時代の、傲慢とさえ言えた彼女からは考えづらい台詞だったからだ。

「わかったよ」

 陽介はあっさり契約を交わしてしまった。今の自分なら雪絵に負けはおろか引き分けることすらありえないという自負が後押ししていた。

「でも金くれとかはなしだぞ。俺にできること言えよな」

 左バッターボックスに立ちながら、陽介は言った。

「あ、それは絶対大丈夫だから」

 雪絵はにっこりと微笑んだ。


 雪絵の投げた二球目のボールを、陽介のフルスイングしたバットが捉えた。

 ボールは高々と打ち上げられると、長い長い滞空時間の後にセンター方面奥の木立の向こうに消えた。

「ホームラン、だね」

 雪絵が自分から負けを認めた。

「今の……手元で微妙に変化してなかったか? 打つ瞬間まで直球としか思ってなかったから、芯で捉え損ねた」

 雪絵を慰めるためと言うよりは、完全勝利といかなかった悔しさが言わせた言葉だ。上空の風向き次第ではセンターフライとなってもまったくおかしくない打球だったのだ。

「うん、ツーシーム。独学で覚えてみたんだけど……。でもやっぱり稲葉すごいパワーだよ。芯外してもあそこまで持っていけるんだから」

 雪絵はさばさばと答えると、マウンドを降りてきた。

「ほら稲葉、早くマウンド行ってよ」

「……ああ」

 相手の技巧を力と運で捩じ伏せたような勝ち方を誇る気にはなれず、陽介は少し沈んだ気分になる。

 だがマウンドへの十八メートルを歩くうちに陽介は気持ちを切り換えた。

 自分は男で雪絵は女だ。力に差があるのは勝負する前からはっきりしていた。雪絵はそれを補おうとして変化球を使ったが、自分のスイングがさらに上回っていた。

 それだけのことだ。

 マウンドに立ち、雪絵に向き直る。雪絵は左バッターボックスですでに構えている。陽介も雪絵も右利きだが、過去の大打者たちを真似て小さい頃から左打ちだった。

「行くぞ」

「うん!」

 陽介は全力のストレートを投げ込んだ。百五十キロは超えそうなスピードボールだ。

 雪絵はバットをぴくりとも動かさなかったが、それは手が出なかったからではない。

「ボールね。あたしのストライクゾーンよりボール一個高い」

 キャッチャーも審判もいないため、捕球されることなく通過したボールはバックネットに当たって地面に転がる。だがそれよりも雪絵の断言は早かった。

「ああ」

 三年前とは比較にならない球速にも雪絵はまるで臆さずに、持ち前の選球眼を発揮している。そのことに内心感心しつつ、陽介は雪絵の判定に同意した。

「二球目、行くぞ」

「どうぞ」

 今度はど真ん中に投げた。前よりもさらに速い球だった。

 チッ!

 鋭く振り抜かれたバットがボールをかすめる。ボールは擦過音を立て真後ろへ飛んだ。

「…………」

 陽介は、夏以来――全国大会の準決勝で敗れて以来――しばらく忘れていた感覚を思い起こす羽目になった。

「花持たせてくれるつもり? でもそんな気遣いは願い下げよ」

 真後ろへのファウルは、タイミングが完璧に合っている証拠だ。一歩間違えればボールはきれいに弾き返されていた。

 雪絵は力押しだけで勝てる相手ではない。三年経った今でも、紛れもない強敵だった。

「三球目、行くぞ」

「いいわよ!」

 陽介は振りかぶり、投げる。

 前の二球より速度の遅いそれは、しかし、ホームベースの手前で角度をつけて落ちた。まっすぐ来ていればジャストミートしたはずの雪絵のバットはものの見事に空を切った。

「……フォーク?!」

 呆然とした雪絵に、陽介は答える。

「推薦の内定出た時に挨拶に行ってさ、その時監督に教わったんだ。まだ無闇に投げるなって言われてたけど、お前相手じゃ使うしかねーだろ」

 そう言った瞬間、雪絵の顔が目に見えて輝いた。

「ワンボールツーストライク、だな。四球目、行くぞ」

「……うん」

 一球遊ぶ手もあったが、陽介はこれで決着をつけようと心に決めた。

 フォークはまだ会得できたわけではない。落ち損ねればただの棒球だ。何より、自分の本分は速球にある。

 最も自信のある内角低目へのストレート。何人もの強打者を打ち取ってきた決め球で勝負することにした。

 陽介の手を離れたボールは、狙い通りのコースへ最高のスピードで走る。

 しかし。

 雪絵は的確にバットをコントロールして、陽介の速球を完璧に捉えた。

 金属バットの甲高い音が響き、打ち返された球が速いゴロとなって陽介に迫る。

「く……!」

 グラブを差し出すより一瞬速く、打球は陽介の股間を抜けていった。

「……センター前ヒット、か。バックがよほどの名手でない限り」

「うん。……引き分けで、いいかな?」

 不安そうに訊ねる雪絵に、陽介は答える。

「そりゃそーだ。ヒットもホームランも打たれたことには変わりないんだから。……で、俺は何すればいいんだ?」

「……あたしんち来て、お茶飲んで」

 雪絵はにこやかにそう言うと、後片づけを始めた。


「うちの裏庭で栽培してるハーブ使ってるんだ」

 そう言って雪絵が差し出したお茶は渋く、薬臭い味がした。しかし一口で飲むのをやめたらまずいと言っているも同然だ。陽介は無理矢理カップの中身を飲み干した。

 少し頭がくらくらした。

 いくらか楽になるかと考えて天井を仰ぎ、その動作にふさわしい会話を始める。

「何か、意外だな。田口っていいとこのお嬢様だったんだ」

 雪絵の家は屋敷と呼ぶにふさわしい豪華な代物だった。天井は高く、調度は優雅な作りの年代もの。何気なく出されたティーカップにも、風格とか気品みたいなものがあった。

「祖父さんだか曽祖父さんだかの遺産食い潰してるだけよ。母さんなんかあっさり愛想尽かしてあたしを産んだら実家に帰っちゃったしね」

「…………」

 触れてはいけない話題に首を突っ込んだかと一瞬後悔したが、陽介の言葉は呼び水に過ぎなかったようで雪絵は自分から色々しゃべり出した。

 医者になったものの変な研究にはまって病院を辞めてしまった父親のこと(母親はその病院の院長の娘だったそうだ)、放任主義で育てられた雪絵自身の子供の頃のこと、それなりに残っている資産やかつての田口家の威光に群がっていた有象無象のこと、そうした連中や自分を取り巻く環境への反発から、己のプレーだけが問われる野球にのめり込んでいったこと。

「だから別に野球じゃなくてもよかったんだろうね。けど一番身近だったのはあのグラウンドで練習してるリトルリーグだったから」

 雪絵の家は、最前二人が勝負したグラウンドから歩いて三分ほどのところにあった。この屋敷の二階辺りから眺めれば、野球に取り組む選手たちの姿はよく見えたことだろう。

「なるほど」

 一方的にまくし立てる雪絵に押され、陽介はただ相槌を打つばかりになっていた。

「誰にも負けないって思ってた。いずれ甲子園に行ってプロになるもんだって思ってた」

「うん」

 なぜかあくびをしそうになり、陽介は必死に耐えた。

「でも男と女の差ってものがあるんだよね。単なる体力の問題じゃない、イメージとか決めつけとか偏見の問題」

「うん」

「そういう世界だってもっと早く知ってたらさっさと見切りもつけたんだけどね。一番身近な大人はあの通りの放任主義だったし」

「うん」

 ソファの柔らかさが妙に心地よかった。

「で、まあ、何となくふんぎりのつかないまま一人で練習は続けてたわけよ。でも最近起きた二つの出来事がなければ、そろそろ野球もやめるはずだったんだけどね」

「二つ?」

「一つは、親父が変な装置を発明したこと。もっとも、人体実験はまだしてないからほんとにそんなことができるのやら実は疑わしいもんなんだけど」

 陽介は何が『そんなこと』なのか訊こうとしたが、口から言葉は出なかった。

「もう一つは、あたしよりそれほど巧いとも思えない奴が、大西義塾の野球特待生なんかになったこと」

 ――大西義塾? 野球特待生?

 どこかで聞いたフレーズだ、と回転の鈍くなった頭で考える。

「だから勝負申し込んだのよ。そいつがこの三年間であたしよりはっきり強くなっていたら、笑って送り出してやろうって思ってた」

 陽介は瞼が重くなっていくのを感じた。

 ――いかんいかん、こんなところで眠ってる場合じゃ……。

 まだ昼にもなっていないが、ここらで切り上げよう。家に帰って支度をしなければ。明日には家を出て、関西へ向かい、寮に入るのだから。

「ところが引き分け。そこで稲葉、目が覚めたらもう一度テストさせてもらうわよ」

 ――テストって何だよ? 俺は推薦で大西義塾に入ったのに……。

「あたしとあんた、どっちがその身体を使うのにふさわしいかをね」

 その言葉を聞くと同時に、陽介の意識は深く沈んでいった。


「わ、ほんとに成功した」

 同い年くらいの、少年の声が耳に届いた。

 目は覚めたが、まだ眠い。目をつぶったまま、まどろんだような状態だ。

 硬い寝台に寝そべっている。病院のような匂いが鼻につく。

「ほんとにとはご挨拶だね雪絵。日本医科学界の鬼才であるこの僕の言葉を信じていなかったのかい?」

 やや甲高い男の声が応じる。陽介の父親と同じくらいの年齢だろうか。

「べらべらしゃべんないでよ。ちょっと頭痛い……」

「それは大変だ。どんな痛みだい?」

 年輩の男が心配そうに声をかける。

「んー、前にウイスキー飲んでみた時の翌朝の痛み、に似てるかな」

「……そうか。陽介君には睡眠薬を多めに飲ませたからな。それがまだ体内で処理できていないのだろう」

「そっか……。稲葉の奴、お茶なんてもう少し遠慮して飲みなさいよね。おかげであたしが苦労するなんて……」

 少年はまるで女の子のようなしゃべり方をする。なかなか気持ち悪い。

 と、どちらかがこちらへ近づいてきた。

「へえ、あたしってこうして見るとけっこう可愛いわね」

 さっきよりも近い距離から、少年は相変わらずの口調で何だか意味不明なことを言う。

 そこでふと、その口調に聞き覚えがあるのに気がついた。同時に、その声にも。

 だがその口調とその声は、別々の人間のものであるはずなのだが。

 そんなことを漠然と考え始めると同時に、さっきからの会話を頭の中で反芻する。

「おや、雪絵。もう女の子に興味を持つようになったのかい?」

「気持ち悪いこと言わないでよ。元の自分の身体だから気になるだけ」

 目を開けた。

 自分を見下ろしていた少年と目が合った。

 会話から立てていた馬鹿げた仮説は、視覚情報によって万全の補強を受けた。

「おはよう、稲葉」

 稲葉陽介の姿をした少年が、稲葉陽介であるはずの自分に笑いかける。

 上半身を起こして自分の身体を見下ろす。その胸に豊かに膨らんだ乳房が存在していることが、シャツの上からはっきりわかった。

 突発的に叫ぼうとした瞬間。

 年輩の男が腕に注射をし、すぐさま意識はブラックアウトした。


「海野十三は読んだことがあるかね?」

 再び意識を取り戻した時、身体には拘束衣が着せられていた。

 暴れ、叫び、もがいたが、座らされていた椅子から転げ落ちることしかできなかった。あくまで冷静さを崩さない『陽介』と年輩の男性に対し、床に這いつくばっている自分がいかにもみじめに見えた。

 取りあえず年輩の男――雪絵の父である純二――の話を聞くことにした。

「いや」

 答える声はれっきとした少女の美声。拘束衣の中では腕が柔らかい乳房に触っている。

 今の自分はまぎれもない少女であった。

「戦前の作家だがね、彼の作品の中に面白い理論が提示されている」

 知らないことは予想済みだったのか、純二は嬉々として解説を始めた。

「脳髄からは電波が放出されている。ゆえに強力な装置でAの電波をBの脳に吸い寄せれば、Aの人格をBに移植させられるのではないか、という話だ」

「……はあ?」

 大して賢いわけではないが、その理屈が何かおかしいことぐらいはわかる。

「もちろんこれは与太話の域を出ない。この発想がまかり通るなら、ラジオを強力にすれば放送局を乗っ取れることになるからね」

 それはその通りだ。

 ……しかし。

 それなら、今自分の身に起こっている現象はどう解釈すればいいのだろう?

「ただし、人間の身体から電波が発散されているのは事実だ。そして私はこれを、電波の発信ではなく受信した電波の一部が漏出したものだと仮定して、ある仮説を立てた」

 純二の身振り手振りが激しくなってきた。

「脳髄はものを考える器官にあらず。人格を構成する電波を受信し、それを肉体の各所に伝達する電話局なり、という発想だ」

「……な、何言ってんだかわかんねえよ」

「雪絵も最初はそう言ったよ。例え話をしてみよう。君はラジコンをやったことがあるかね?」

「あ、ああ」

「我々人間の肉体とはラジコンカーのようなものなのだ。意識・記憶・感情といった人格はどこか離れたところにいる」

「…………」

「我々はラジコンカーに取り付けられたカメラやマイクから情報を得ている。そしてコントローラーを通じて電波を送り、それに応じて肉体が動くという寸法だ」

 純二は突拍子もないことを平然と言った。

「あるいは、ネットゲームに例えてもいいだろう。我々の肉体はコンピューターの中にいるキャラクターであり、意識は外の世界からキーボードを通じて操作している。ただし見聞きできる情報はコンピューター内部のものだけだから、自分たちが本当は外の世界にいることを認識できないでいる状態なのだ」

「……じゃあ、外の世界ってどこだよ?」

「それはわからん」

 肝心な点についての考察を、純二はこれまた平然と切り捨てた。

「宇宙の果てか四次元か別世界か……それを『こちら側』から確認する術までは、さすがの私もまだ見つけていない。私が可能にしたのは、ラジコンカーの例えで言えば、別のマシンを動かす方法だけなのだ。今日の実験でそれは証明された」

「だから……俺が田口になって、田口が俺になったってのかよ!」

 『雪絵』は叫んだ。

「その通り。脳内のある個所に刺激を与えて電波の受信設定を白紙にした。君と雪絵、二人同時にその処理を行なった上で、雪絵の身体に送られる電波を君の身体へ、君の身体に送られるはずの電波を雪絵の身体へと流し込み、その状態を維持できるように受信設定を新しく書き込む。医学・工学・物理学・化学に通じた私でなければ、この人格交換機を作ることも操作することもままならなかっただろう」

 陶然となっている純二に、『雪絵』はがなり立てる。

「てめえ、なんでこんなくだらねえ真似しやがった!」

「くだらないとは失敬な。理論を証明するための貴重な実験だ。そしてこれからは金持ちに話を持ちかけて、この機械を高額の料金で利用してもらうのだ」

 純二はくだらない願望を、夢見るように語る。

「稲葉、おねむの前にあたしが言ったこと聞いてなかった?」

 純二の横で『雪絵』を落ち着いて見つめていた『陽介』が、その時口を開いた。

「この入れ替わった状態で勝負してよ。それであんたが勝つか引き分けるかしたら、すぐに元に戻してやるわ」

「……元に戻れるのか?」

「私を誰だと思っているのかね。元に戻せる見込みもなしにこんなものを作るような物騒な真似はせんよ」

「じゃ……じゃあ……今すぐ勝負だ! 早くこの服脱がせろ!」


 意外と時間は経っていなかった。まだ午後の三時半である。

 先ほどのグラウンドに引き返した『雪絵』と『陽介』は、入念に準備運動をしていた。

 ――ボール、大きいんだな。

 『雪絵』は今の自分の身体になかなか慣れることができなかった。

 ついさっきまでより身長は十五センチ低くなっている。手も足も小さくなり、筋肉も薄い。まるで二年間ほど時間を巻き戻されてしまったかのようである。

 だが、この身体で戦うしかない。

「勝つか引き分けって言ったよな?」

 気持ちよさそうにバットを振る『陽介』に訊いた。

「うん。引き分けでOK。稲葉があたしと互角以上の実力を持っているなら、大西義塾に行く資格はあると思うから」

「実力って何だよ……」

「何だって訊かれても困るけどさ、あたしはさっきその身体であんたからヒットを打てたでしょ。あんたに野球のセンスがあるなら、同じくらいのことはできるんじゃない?」

 そう言われると反論は難しいが、『雪絵』の心は不安に満たされていく。

「もし、俺が負けたら……」

「あたしが代わりに活躍してあげるわ。この身体でね」

 『陽介』はあっさり言ってのけると、激昂しそうな『雪絵』を遮って付け加えた。

「ま、あたしも一生『稲葉陽介』やってたいわけじゃないから。あんたも甲子園行きたいだろうしね」

 ふてぶてしく『陽介』は笑う。

「夏と春の甲子園に出れば満足だから。一年で返してあげるわよ」

 甲子園出場を遠足か何かのように気軽に言う。もっともその言は、大西義塾にさえ入学すればほぼ決定事項となるだろう。

 左バッターボックスに入った『陽介』を、『雪絵』は制した。

「ちょっと待った。少し投球練習させろよ」

「それもそうだね。じゃあ気が済むまでどうぞ」

 打席を外し、こちらを眺める。

「……見るなよ」

「はいはい」

 相手が後ろを向いてから、『雪絵』はふりかぶって直球を投げた。

 ――全然駄目だ。

 体格の差はいかんともしがたく、陽介の時とは比較にならない力のない球だった。それどころか、雪絵本人が投げていた球にもはるかに劣っている。

 野球センス、という『陽介』の言った言葉が頭を過ぎる。

 首を振り、その考えを打ち消した。

 この身体には慣れていないんだから仕方がない。それは『陽介』も同じじゃないか。

 そう思い込むことにした。何より、勝つか引き分ければいいということは、この第一の勝負はまだ気楽にできる。

 さっきだって、バッターとして雪絵を打ち崩したんだ。ここは負けたって構わないじゃないか。とにかく気楽に、気楽に。

「……もういいぜ」

「意外に早いね」

 バッターボックスで『陽介』が構える。

 外角低目を突いた直球を投げた。

 敵は完璧にボールを捉えた。

 その瞬間にわかっていたことだったが、未練がましく『雪絵』は振り返った。

 打球はあっという間に視界から消える、文句なしのホームランだった。


 チッ!

 バットを掠めたボールはふわりと斜め後ろへ飛んで行った。

「巧いキャッチャーだったら飛びついてたかもしれないね。ま、いいや。ツーストライクってことにしとこ」

 自分のものだった『陽介』の声。その余裕たっぷりなしゃべりに憤る暇もなかった。

 あと一球。あと一球ストライクを取られたら、『雪絵』は一年間陽介に戻れなくなる。

 それなのに『陽介』の球を打てる見込みはまったくなかった。

 バットが重い。小柄な身体が思うように動かない。振り遅れる。今だって、ちょっとしたファウルチップなのに手が痺れてしまっている。

「タ、タイム」

「はいはい」

 小さくて柔らかい手を揉みほぐす。それは死刑執行をいたずらに引き伸ばすような空しい行為に思われた。

 うつむいた視線が胸の膨らみに留まる。意外と大きいバストも、今の『雪絵』にとってはスイングの邪魔でしかない。

 こんな身体じゃまともなバッティングにならない。

 どんどん思考が暗くなっていく。

 当てることはできても、ヒットにはできそうにない。

 ――!

「お待たせ」

 恐る恐る、『雪絵』はバッターボックスに入った。

「行くよ!」

 大きくふりかぶった『陽介』。

 そして豪速球がその手から放たれた直後、『雪絵』はバットを横に倒して構えた。

 当てて転がすセーフティバントを狙ったのだ。

 今も『雪絵』は鈍足ではないはず。この足なら成功率は低くないだろう。一対一の勝負で判定の難しいこんな手を使うのは卑劣な気もしたが、もはや『雪絵』はなりふり構っていられなかった。

 バットがボールに当たる。

 しかし。

 ボールは小さいフライとなって、ファウルグラウンドに点々と転がっていった。

 スリーバント――ツーストライクからのバント失敗によるアウト。

 雪絵はがくりと膝を突いた。


「誰かが来たらいけない。早く戻ろう」

 純二に促され、雪絵は体育館に戻る。

「大丈夫?」

 隣に座っていた女子が小声で話しかけてくる。ポニーテールの快活そうな少女だ。

「…………」

 しかし雪絵は無言のまま、乱暴に腰を下ろした。

 ――俺はこんなところにいるはずじゃなかったんだ!

 暗い怒りが雪絵の心の中に渦巻いていた。

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