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九回表

「死ぬ気で三点、奪い取りますわよ」

 弥生の発破を聞きながら、啓子は打席に向かった。

 確かに、死んでもいいから打ちたい、アウトにしたい、塁に出たい、そんな局面というものはあるものだ。

 ちょうど今のように。

 打席に入り、ピッチャー大久保と対峙。

 三塁コーチャーズボックスから見ていた通りの、力のこもった球が襲い来る。振るのも覚束なくて、ワンナッシング。

 二球目、当てに行ったがボテボテのファウル。ツーナッシング。

 ――アウトにはなれないよな。

 一番の弥生以降が期待できないわけではないが、ここで自分があっさりアウトになったら、八回裏に梓の三連続三振でどうにか引き戻しかけた流れを再び手放す気がする。

 三球目を、啓子はうまいことカットしてファウルした。

 四球目、五球目、六球目。続けるうちに、大久保の顔色が変わっていく。

 七球目、初めてのボールを得た。カウントはこれでワンツー。

 八球目、またもファウル。

 ――みっともなくても何でもいいさ。ヒットは難しくても、フォアボールでいいから塁に出て、後ろにつなげれば……。

 そう思った矢先の九球目。

 大久保の速球が、啓子の頭に直撃した。


 ヘルメットに当たって明後日の方向に大きく飛んで行ったボール。ふらふらとその場に倒れ込む啓子。

 三塁コーチに入っていた悟が光景の意味を理解しきれずにいるうちに、ベンチから梓や優たちナイン全員が飛び出して来た。マネージャーの修平も矢野先生も後に続き、ベンチは眠ってる監督を残して空になる。もちろんその頃には悟も啓子の元に駆け寄っていた。

「触らないで! 脳を刺激しちゃ駄目!」

 抱え起こそうとした弥生に、矢野先生の聞いたこともないような鋭い叱責が飛ぶ。手を止めた弥生をどけて、容態を診ようと彼女がしゃがみ込んだ時。

「まだ生きているよ。心配は……少しだけでいい」

 目を開いた啓子が言った。しかし起き上がろうとして力が入らないのか、その場にまた横たわる。

 審判に自分がデッドボールになったことを確認すると、悟に目を移して言った。

「シャーロット」

「な、何ですか?」

「特別代走よろしく。九回裏の守備までにはどうにか復調しておくから」

「と、特別代走って?」

「怪我人が出て治療に時間がかかるけど交代はさせたくない。あるいは交代するわけにいかない。そんな時に使う制度ですわ。基本的に一つ前の打順の選手が代走になりますの」

 弥生が解説し、修平が抱えてきた担架で運ばれそうになる啓子に言った。

「ですけれど、もう少し早く復帰してくれないと困りますわ。この回もう一度啓子さんには打席に立ってもらうつもりですもの」

「……努力はするよ」

「努力って! そんなことでどうにかなるようなものじゃないですよ! おとなしくしててください!」

 矢野先生が叱りつけながら担架上の啓子に付き従い、ベンチへと戻って行った。

「さ、シャーロットさん、お願いしますわ」

 いつの間にか弥生が悟のヘルメットを持って来て差し出す。悟は朱色に輝くそれを受け取り、しっかりと頭にかぶる。

 何もできないまま終わるかと思っていた自分に与えられた、特別の役割。

「啓子さんの代わりにホームを踏みマス。弥生さん、返してくださいネ?」

「上位打線を信頼してくださいな」

 悟は一塁ベースに向かった。


 ――頭に来た球はよけてくれよ。いくら塁に出るチャンスだからって……。

 弥生はネクストバッターズサークルで啓子が倒れるまでの一部始終を見ていた。

 自分の頭目がけて力んだボールが飛んで来た時、啓子はよけようとした。そのまま当たりに行ったりしたらデッドボールでも無効扱いされるし、それは当然の行動なのだが。

 啓子は、そのまま頭を後ろに引いた。正面から車が来た時に真後ろへ飛び退るような、よけようという意志は見せつつも当たることはほぼ確定なよけ方だったのだ。

 彼女が取り乱していたとは思えない。ファウル連発を強いられて追い詰められていた状況打破のため、出塁の絶好の機会とばかりにうまいこと当たりに行ったのだろう。ボールは気持ちいいくらい跳ね返っていたし、もしかしたら当たる時に衝撃をヘルメットで弾くような当たり方をしたのかも、とすら疑いたくなる。まあ、それならベンチに担ぎ込まれる羽目にもならないだろうが。

 ――なるべくなら、こういう局面で対戦したくなかったんだが。

 弥生は左打席に入り、大久保と二ヶ月ぶりに向かい合った。

 女子を見下したあの頃の嫌らしい目つきではない。同じグラウンドに立つ対等な敵と認識した、錐のように尖った視線が弥生を射抜かんとする。

 ――ふん、けっこういい目してやがら。

 デッドボールの直後、マウンド上で帽子を脱いで頭を下げていた大久保の顔は、蒼白になっていた。ファウルの連発後にコントロールをやや乱していたこともあるし、メンタル面の弱さは変わらずかと思っていたのだが、今大久保の目を見て、そうでもなかったらしいと悟る。

 そして初球。打てるものなら打ってみろとばかりに、ど真ん中にストレートが決まる。弥生だって二ヶ月練習してあの時よりは上達したはずだが、それでも速さと球威を増したこの球を打つのは至難の技に思えた。

 と、球を捕ったキャッチャーの白石が、一塁へ牽制球を投げた。


 悟は頭から滑り込んで、一塁にどうにか帰った。一塁手の渡辺がお尻の辺りにグラブでタッチする。

 危うくアウトにならずに済んだことを安堵するよりも、シャルの身体を触られた不快感の方がわずかに上回る。悟は渡辺を睨みつけると、さっきよりは浅く、だがやはりできる限り遠くへリードを取った。

 ――みんなどうしてああいう嫌らしい言葉や態度に我慢できるんだろ。高校生だと、大人だから気にならないのかな。

 塁に出た時の、ファーストのセクハラ紛いの言動は、悟以外にも及んでいた。しかし男の幼稚な振る舞いとばかりに、弥生や一美など他のみんなは軽くあしらっている。

 状況が状況だから、個人的な不快感などは耐えるにしくはない。しかし悟に一つのアイデアがひらめいた。

 ――盗塁すれば、あんなスケベなファーストなんか無視できるよね。ダブルプレーになる危険性も減るし、もしかしたらあのすごいピッチャーを動揺させられるかも……。

 シャーロットの足は、それほど遅いわけではない。悟は次第に決意を固めてピッチャーの投球を待った。


 ――あの牽制受けて、まだ大きなリード取ってるよ。

 弥生は危なっかしいものを見る思いで、塁上のシャーロットを眺める。

 二点差の最終回、無死一塁。ランナーはアウトになったら元も子もない以上、暴走などは厳に慎むべきだと弥生は思うのだが。

 いや、今考えるべきはピッチャーとの勝負だ。弥生がヒットを打ちさえすれば、何も問題ない。

 投球動作に入った大久保が二球目を投げるのを待つ、わずかな時間。

 その時シャーロットが二塁へ走り出した。

 ――嘘!

 焦りながらも必死に頭を回転させる。あのタイミングでは白石の送球で刺される危険性はかなり高い。空振り程度で援護になるか。

 大久保の球を打つしかない。

 弥生は即座に判断を固めると、力を込めて速球に挑んだ。

 悲しいくらいボテボテのゴロ。最悪だ。

 それでももちろん、弥生は懸命に一塁へ走る。あきらめない限り、何かが起きるかもしれない。


 優がネクストバッターズサークルから見守る中、弥生の打球は力なく転がった。

 だが、大久保はその弱い打球をじっくりと待って捕った。そしておもむろに二塁に投げようとして、すでに二塁に駆け込みかけているシャーロットを見て、驚いたように動きが一瞬止まる。

 ――ああ、盗塁に気づいてなかったのか。

 弥生との対決に集中する余り、ランナーに注意を払っていなかったらしい。

 ためらった後、大久保は一塁へ送球する。

 だがその球は、一塁手の頭上を越えた。

 ライトの高橋が隙なく一塁後方のバックアップに入っていたために、二三塁とは行かなかったが、それでも無死一二塁。

 ――続かなくっちゃ。

 優はバットを軽く素振りした。

 この局面の課題としては、二人のランナーを進塁させること。ワンナウトになっても、当たっている美紀と一美ならランナーを返してくれる。

 ――送りバントで行こう。

 心に決めて、ベンチを見る。きっと啓子だって、同じように考えるだろう。

 二人のランナーに簡単なサインを送り、打席に入る。

 相手にも警戒はされているだろう。それでもランナーを二人抱えている以上、極端な前進守備などはできない。うまいところに転がせば、オールセーフさえ狙えるかも……。

 だが、そんな目論見は打ち砕かれた。

 真上に上がった小フライ。白石が簡単に捕り、アウトとなった。


「ほら、あんまり辛気臭い顔するもんじゃないよ。裏でしっかり梓の球捕ってくれりゃ、それで充分なんだから」

 美紀の身体で耕作が声をかけると、しょんぼりしていた優は少しだけ笑ってくれた。

「そうですね……後の攻撃、お願いします」

「任せときなって」

 言うと、ぶらりと打席に入る。負けられない試合で二点のリードを許し、九回表、一死一二塁。そこそこシビアな局面ではあるが、これ以上の修羅場だって何度となく潜って来た身だ。いちいち震えたり緊張したりする歳でもない。

(球は重くて速いときてるけど、どうするんだい?)

 頭の中で美紀の心が耕作に訊いてくる。

(向こうにしてみりゃ、三振や内野フライ以上にゲッツーがありがたいはずだ)

(次を考えればね)

 ネクストバッターズサークルでは一美がバットを振っている。ここまで四打数三安打、長打の恐れもある四番には、あまり回したくないだろう。

(このキャッチャー、三振を取ることに関心があるわけじゃねえ。追い込んでから打たせて取るようなボールを要求してくる、その可能性は低くないと思うぜ)

(そこで期待通りにゲッツー打ったら目も当てられないね)

(そん時ゃ思う存分罵ってくれや)

 幸い、耕作が罵られることはなかった。

 ツーツーからの五球目、セカンドゴロになってくれと言わんばかりのカーブを、バットコントロールを利かせてライト前へ。

 飛び出し気味だったシャーロットが二塁から駆けに駆けてホームへ突入、クロスプレーをかいくぐって六対七。

 しかし三塁を狙った弥生がホームからの素早い送球に刺され、ツーアウトとなった。


 二死一塁、バッターボックスに向かうは四番の一美。

 ――バッテリーの隙を突くしかないよね。

 歩きつつ、バットを手に伸びをしながら、この打席ですべきことを思う。

 ――「本気でかかれば抑えられるはずだ」っていう隙を。

 打席に立ってバットを構え、投手と向かい合う。警戒心に満ちた、まったく相手を舐めてかかってはいない態度。

 しかしながら、捕手は立ち上がったりはしていない。一点差、ランナーあり、当たっている四番。普通の相手なら敬遠の選択肢が浮かんでもおかしくはない場面にも関わらず。

 そこを利用する。

 一球勝負。チャンスは初球のみ。

 セットポジションから、大久保が剛球を投じる。

 即座にその軌道と速度を見極め、いつもよりバットの振りかぶりを大きく取る。いつもより強く踏み込み、いつもより速く鋭く力強く振る。

 真芯で捉え、思いきり引っぱった打球は、高々とレフトへ飛んで行った。

 飛距離は充分、残るは方向性。滞空時間の長い打球は、レフト線に近いフェアグラウンドの上空を、ゆっくりと遠ざかって行く。

 マウンド上の大久保を始め、男子野球部の面々は呆然と打球の行方を見送っていた。

 一美は祈る思いでレフトポールと打球を見比べる。

 ――入ってくれないと、ちょっときついことになるんだよ。入っておくれよ。

 今の筋力でできる最高のパフォーマンス。もう一度同じことをやれと言われても、そうそうできるものではない。

 それにまた、もう一度球を打てるチャンスがあるかもわからない。

 しかし、打球はポールのほんのわずか外側を通過して、彼方へ消えて行った。

 白石がマウンドに向かう。彼が何かを言うと大久保が激昂するが、それでも折れた様子もなく、粘り強く言い聞かせている。

 戻ってきた白石は、腰を落とすことなく、立ったままグラブを高く掲げた。

 ボール。

 観客席から野次が飛んだ。しかしその程度でこのキャッチャーが逆転弾の危険性を無視して勝負してくれるとは、とても思えない。

 ボール。

 投げる大久保は不満そうだ。まぐれ当たりだと思っているのか、一美の実力を認めた上で勝負したいと思っているのか。

 ボール。

 これにてスリーワン。もう一球ボール球が来れば一美は塁へ出る。逆転のランナーだ。しかし、ツーアウトで続くバッターは今日ノーヒットの雪絵。

 大久保が五球目を投げた時、一美は露骨に下手くそっぽい空振りをしてみせた。さらに大久保にバカっぽく笑いかけてみる。背後の白石が、高い位置から声をかけてくる。

「小細工しても無駄だ。もう、こんな状況であんたと勝負はしない」

「今日のこの機を逃したら、二度とあたしと勝負なんてできないよ?」

「……甲子園に行けなくなるよりはマシだ」

 六球目も、絶対に一美のバットが届かないようなはるか彼方へのクソボールだった。


 一美が敬遠される様を見ながら、雪絵は鼓動が急激に速くなっていくのを感じていた。

 怒りや興奮でなら歓迎もできただろう。しかしそれをもたらす感情は、恐怖の一言に集約できるものだった。

 自分が打てなければ、少なくとも塁に出られなければ、さもなければアウトになる前にランナーにホームを踏ませなければ、ここで試合は終わる。

 そして雪絵には、打てる自信はおろか塁に出る見込みさえ、もう想像できなかった。

 陽介だった頃、自分の前の打者が敬遠されることなんてなかった。敬遠され、勝負を避けられるのは自分だった。対戦するどのチームも陽介のことを恐れていた。

 しかし『稲葉陽介』の身体と立場を失った今、雪絵はあまりに無力だった。

 男子野球部のほとんどの人間にとって田口雪絵など無名の存在。知っている人間にしても、リトルリーグ時代すごかったからと言って高校生になった今もすごいなどと考えてくれはしない。

 ここまで四打席、雪絵はノーヒット。そのうち三度はランナーを置いての凡退。いいように相手バッテリーにあしらわれた。

 ピッチャーの球が打てない。それだけでも充分に怖い。だがそれ以上に、打てなかった時のチームメイトに会わせる顔がない。肝心な場面で打てなかった自分を、自分自身が受け入れていけそうにない。

 ミスをあげつらうような物言いは、このチームで自分以外誰もしない。例えば一美はいつもの眠そうな顔で平然と、弥生は毅然とした姿勢を崩さないまま、「しかたがない」と雪絵の肩を叩くだろう。

 しかし、だからこそ、その優しさにもたれかかるような真似はしたくなかった。

 来年の春に元に戻ると『陽介』は言っている。それを信じれば残り一年弱の辛抱だ。学校で男子野球部の連中とすれ違えばせせら笑われるくらいのことはあるだろうが、期間限定と思えば大したことはない。すでに雪絵はクラスの中でも変わり者のポジションを獲得していることだし。

 でも、『雪絵』の身体や立場からは逃れられても、自分が自分であることからは逃れられない。打てないみじめな自分を抱えてこれからずっと生きていかなければならない。そんな状態には耐えられない。

 それもこれも、打ってしまえれば簡単な話なのに……打てそうにない。

 自分が壊れてしまいそうな恐怖が、雪絵の全身を締めつけた。

 震えが走る。全身から力が抜けていく。嫌な汗が流れる。まともに立っていられない。

 ――これって病気じゃないか……?

 そう思いついた瞬間、雪絵は少しだけ気楽になった。

 病気なら、しょうがない。突然のアクシデントなんだから、打席に立てなくてもしょうがない。

 一美が六球目を見送って一塁に歩き出した時、雪絵は逆にベンチへ歩き出した。

「雪絵ちゃん、どうしたの?」

 ベンチから出て来た梓に訊ねられた時、雪絵は不意に我に返った。

 進行方向のダッグアウトには、アウトになった自分を責め続けている弥生と優。泣きそうな顔で、でも一生懸命声援を送っているシャーロットと真理乃。目の前の梓にしても、まだ腹が痛むのか、軽く手を当てている。塁上から自分の行動を不審な気持ちで眺めているであろう、一美と美紀。そしてベンチに横たわり、保険医の矢野の手で頭に各種検査用のコードを貼り付けられ、体調を調べられている啓子。

 自分以外の全員が、それこそ「死ぬ気」で戦っている。戦おうとしている。

 今のこの体調不良は急病なんかのせいじゃない。単に自分がプレッシャーに潰されそうになっているだけだ。

 そう悟った途端、雪絵はいたたまれなくなった。

 逃げ道を求め、ベンチの中に突っ込むと、そのまま奥へ抜けて行った。

 校舎側へ逃げようとして、ユニフォーム姿であることを意識してしまい、結局袋小路のトイレの個室に立てこもった。

「雪絵ちゃん!」

 少し遅れて、梓が一人で駆け込んで来た。


「あれ? あの……ほんとにトイレ? だったらごめんなさいだけど……」

「…………」

「雪絵ちゃん?」

「出てけよ!!」

 雪絵は叫んだ。八つ当たり以外の何物でもないと知りながら、叫んだ。

「打てねーよ! どうせ俺がアウトになって試合終了なんて決まりきってんだから、わざわざ打席に立つ必要なんざねーだろーが! ほっとけよ!!」

 トイレの壁にわんわんと響き渡るような大声で叫ぶ。それなのに、梓は逃げる様子もなく待ち続け、雪絵が叫び終わるタイミングを見計らったように、静かに声をかけてきた。

 それは母親が小さい子供にかけるような、優しい声だった。

「やってみなくちゃ、わかんないよ」

「わかるって言ってるだろ!!」

 自分がまるっきり駄々をこねていることは明らかだったけど、雪絵には他に言うべきことなど思いつかなかった。

「考えすぎて熱くなっちゃってるだけだと思うんだけどなあ。雪絵ちゃん、僕らの中で一番野球センスあるのに」

「……ふざけんなっ!!」

 自分にセンスなんか、あるわけない。一美のようなバッティングもできなければ、梓や真理乃のようにホームランを打つこともできない。優のような足の速さもなければ、美紀のような守備の判断の良さも欠いている。啓子のように賢くもなければ、シャーロットのように強い肩も持ってない。

「弥生のように、がむしゃらに、やる、気力も……ないし…………」

 ドアの向こうの梓に、他のメンバーと比較した時の自分の情けなさを縷々並べているうちに、泣けてきた。

 身体を交換されて以来、怒ることで自分を守ってきた。自分は本来は男なんだから、泣くなんてみっともないとも思っていた。

 けれどそれはごまかしだ。男として生まれた体格の良さに頼って野球をしていただけの自分。そんな自分が、男子と必死に戦っているチームメイトの女子たちに比べてどれほどご立派なものか。

 打てない悔しさ、侮られる惨めさ、自分の弱さを痛感した悲しさ。

 一旦堰を切った感情は留まるところを知らず、雪絵は小さい子供のように狭い個室の中で泣きじゃくった。


 ずいぶん長い間泣いていたように思う。

 けれど梓はドアの外でじっと立っていた。

「雪絵ちゃんは、さ」

 噛んで含めるように、雪絵に語りかける。

「一美さんの次に打つのが巧いし、真理乃ちゃんの次に飛距離があるし、美紀姉ちゃんの次に守備がしっかりしてるし、優ちゃんの次に足が速いよ」

「……中途半端だって、ことだろ」

「違うよ。総合的なことを言ったら、間違いなく僕らの中で一番いいプレイヤーだと思う。雪絵ちゃんが絶対に打てないなんてことは、それこそ絶対にありえないよ」

 梓はきっぱりと言い切った。

「でも……そんなの……練習の話で……今日の本番じゃ全然……」

 ネガティブな意識に囚われて、梓の言葉を素直に受け取れない。それに泣きすぎたせいで、口を開いても言葉に詰まってしまう。

「だから、考えすぎだよ。そりゃ百パーセントの保証なんてできないけど。せっかく野球できるんだし、どんな結果に終わっても、楽しくやろうよ」

「………………楽しく?」

 それは、雪絵が長らく聞いていなかった言葉だった。勝てばうれしいし楽しいが、野球すること自体が楽しいという感覚は、久しく忘れていた。

 梓は静かに語りかける。ドア越しに、言葉で雪絵を抱きしめようとするかのように。

「どっちかが勝ってどっちかが負ける。それは決まっていることだけど、でも、どっちも楽しくプレイすることはできるんじゃないかな? そりゃ負ければ悔しいけれど……それも込みで、楽しく」

「だって、みんな、『死ぬ気で』って……」

「雪絵ちゃん、今まで本気で野球やってこなかったね?」

 からかうようにそう言うと、梓は笑った。

「楽しいから、必死になってみんながんばってるんだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、雪絵の中で何かがほどけた。


 ベンチに戻ると、みんなの視線が痛い。単にこちらが痛がっているだけで、真理乃などを筆頭に、みんな真剣に気遣っているだけなのだが。

「おかえり」

 ベンチに上半身を起き上がらせていた啓子が、まず口を開いた。すでにコードは外れている。

「けっこうな時間稼ぎありがとさん。おかげで九回裏の守備には間に合いそうだよ」

 鷹揚に言ってご苦労とばかりに手を振る。そのおどけた仕草で、場がほぐれていく。

「さ、きっちり仕事して来てくださいな」

 バットを突き出して弥生が言った。

 受け取って、しばし雪絵はためらい、口ごもる。心構えはできたけど、でも何かを言わなければ悪いような気がして。

「凡退したら罰ゲーム、だっけ?」

 すると横から優が言葉を挟んだ。「ええ」と弥生がオーバーなまでに肯く。

「負けたら夏休みにはアフリカにでも野球しに行きますわ。つきあってもらいますわよ」

「……何、わけわかんねえこと言ってやがるんだよ。だいたいそんなの、九人全員で行くんなら罰ゲームになんてなんないだろーが」

「負けの責任を負う者だけは、自腹で参加してもらいますの。他の方はわたくしがお小遣いで招待いたしますけれど」

「ふざけんな!」

 怒鳴りつけると、弥生が目を細めた。

「その攻撃的な面構えがあなたにはお似合いですわ。普段通りにしていれば、それでいいんですのよ」

 そしてバッターボックスを指し示す。

「さ、行ってらっしゃい、あなたの立つべき場所へ」

「てめーに芝居がかった口調で言われなくても、行くさ」


 守備陣や観客席からの、罵声と嘲弄。耳には入るが受け流す。

 打席に入り、バットを構え、対戦するピッチャーを見据える。

 初球、内角ぎりぎりへの速球。見送った。

 速い。

 二球目、同じコースへの速球。バットを振ったが後ろへファウル。手に痺れが走る。

 重い。

 けれど、それは想像の範囲内に収まっている球だった。

 ツーアウト、ノーボールツーストライク。それでも雪絵は、わくわくするものを感じていた。どんな球が来るのか、それをどう打ち崩すのか、意識がすんなりとそこに集中していくのを、明瞭に自覚していた。

 そして放たれた三球目。今度は外角ぎりぎりのいいコースを突いた速球。

 ――でも、打てる!

 雪絵は外に踏み込むと、思いきりよくバットを振り抜いた。

 球を遠くへ弾き返す、しばらくぶりの心地いい感触。もちろん打球の行方を見定める余裕などなく、すぐさま一塁に走り出す。

 一塁直前でちらりと目をやれば、右中間に飛んだボールは転々とグラウンドを転がっている。フェンスに当たったクッションボールの弾み方を見誤ったのか、ライトもセンターもボールからは遠い。一塁を蹴り、二塁へ。

 二塁に到達する寸前、ホームの方から歓声が上がる。美紀のホームインなら同点、一美も生還したのなら逆転。守備陣の混乱。まだボールは外野から返って来ない。雪絵は二塁も蹴って、三塁へと走った。

 三塁ではコーチのシャーロットがぐるぐる腕を回している。

 ――ほんとかよ。

 一瞬思ったが、全力疾走の快さに身を委ねて、三塁ベースを蹴る。ホームでは、仁王立ちしたキャッチャーが鬼のような形相。

 しかし、本塁突入二メートルというところで、返球がキャッチャーのミットに収まってしまった。かいくぐってホームにタッチしようとしたが及ばず、アウト。

 ホームベース横に大の字になり、しばらく雪絵は天を仰いでいた。

 そこに、梓と弥生が覗き込みに来る。

「ランナーが二人いて、ツーアウトで、俺が本塁突入でアウトになったってことは、二点が入ったと考えて……いいんだよな?」

「簡単な計算ですわね」

「立てる?」

 梓が差し伸べた手を、強く握って立った。

「立たなきゃならないだろ? 九回裏があるんだから」

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