八人目、九人目:最後はやはり対決で
自宅の居間にいた悟を、昨日や一昨日と同じ感覚が包む。時刻は三時半。
気がつくと、悟はまたシャーロットの身体になって、見慣れぬ学校の階段下に腰掛けていた。周囲を見回すと、屋上に上がる手前の階段らしい。どうやらシャルが、入れ替わり直後の悟が困らないように、ひと気のないこの場所を選んでくれたようだ。
立ち上がろうとして、スカートの膝上にメモが数枚置かれているのを見つけた。
日本人よりよほど丁寧で上手に思えるシャーロットの字が、悟に今から注意すべき点を伝えてくれる。現在地から昇降口までの位置や、村上美紀たち女子野球部メンバーとの合流場所など、昨夜校舎の地図を見ておいただけでは不安な情報が入念にフォローされ、さらには『シャーロット』に声をかけてきそうな相手やその場合の対処法までも記されていた。
そして最後には『怪我には気をつけて、無理はしないでね』との添え書き。
「……漫画に出てくる、世話焼きなお母さんみたい」
実の母親より母親めいていると思いつつ、シャーロットの声で悟は少しぼやく。
だが、シャルの気遣いはやはりありがたいし、実際に役に立つ。メモをきちんと暗記して、昨夜写真で見た美紀の顔を脳裏で再確認しつつ、悟は階段を降りていった。
真理乃はおどおどと、指定された集合場所に足を運んだ。美紀の他にもう一人、長い髪にウエーブのかかった、品の良さそうな女子が居合わせていた。
近寄るより先に美紀が声をかけてくる。
「二人は初顔合わせだね。一年A組の藤田真理乃に、一年D組の森弥生」
「よ、よろしくお願いします」
「同学年ですから、敬語は不要ですわ」
気品ある容姿にふさわしいお嬢様めいた言葉遣いで、弥生は話しかけてきた。
「ピッチャーとキャッチャーは七人目をゲットするために別行動中って話。で、もう一人二年生がここに来るはずなんだけど……」
説明しながら美紀が腕時計を見て眉をひそめた時。
「お、遅くナリマーシタ。ごめんなさい!」
やけに背の高い女子が、珍妙なアクセントの言葉とともに飛び込んで来た。見れば、金髪に青い瞳の外国人。ショートカットがよく似合う、可愛い女の子だ。
美紀は一瞬怪訝そうな顔をしてその少女を眺めたが、すぐに話し始めた。
「ま、今度からは気をつけておくれ。紹介するよ。あたしのクラスメートでアメリカからの留学生、シャーロット・L・ミラー」
「よ、よろしくお願いシマース」
留学生は大柄な身体を不器用に折り曲げ、ぺこりと挨拶する。しゃべり方は少々胡散臭いが、性格は悪くなさそうだ。
「さて。梓さんたちをただ待つのも時間のロスですし、練習を始めたいと思うのですが。美紀さん、練習場所に心当たりがあるとのことでしたわね?」
自己紹介直後の互いに相手の出方を伺うような空気を打ち破って、弥生が口を開いた。
「ああ。正確には真理乃が知ってる」
「え、ええっ?」
いきなり話題を振られて真理乃がうろたえるところへ、美紀が畳み掛けた。
「この子は理事長の家の親戚でね。あの裏山もよく遊び歩いたって話だ。穴場にも詳しいはずだから、案内してもらっておくれ」
学校裏手に広がる清水家の敷地を指しながら、美紀は地面に置いていた鞄を手に取る。
確かに、理事長の家の親戚というのは間違いでもないし、敷地内で部活の練習ができそうなスペースにも心当たりはあるが、そういう話は事前に真理乃本人にも伝えてほしい。こちらは昨日の晩に野球部に入れとだけ指示されたばかりで、グラブもバットも持たないまま、右も左もわからず付き従っている状態なのだから。
「美紀さんご自身は?」
「部員候補にアタックしてくる。練習は経験者の弥生に仕切ってほしいんだが、どう?」
「……それがベストのようですわね。任せてくださいませ」
テンポよく話をまとめると、美紀は去っていった。そして弥生が真理乃に向き直る。
「では、案内をお願いいたしますわ」
「は……はい……」
昨日会ったばかりとは言え面識のあった美紀がいなくなり、真理乃は緊張してしまう。誠三郎だった時は人見知りしない質だったのに、これも真理乃の性格設定ゆえか。
と、弥生が表情を和らげ、にこやかに微笑んで言った。
「硬くなることはありませんわ。チームメイトなんですもの、仲良くやりましょう」
「リラックス、リラックスね、真理乃さん」
シャーロットも近寄って来て、背中をぽんぽんと叩いてくれる。
――二人とも、いい人みたい。
絵に描いたようなお嬢様に、絵に描いたような外国人。キャラクターの濃さでは美紀をも上回りそうな二人だが、彼女のようなシビアさは感じない。
優しい言葉をかけてもらったことで、真理乃はとりあえず安心できた。
「は、はい。えっと……練習できそうな場所は、こっちです!」
林をしばらく奥に進むと、私有地を示す金網のフェンスに突き当たる。だが生い茂る潅木を掻き分けると、そのフェンスが一部破れて内部に入り込めるようになっている。
そこからほんの少し歩いただけで、開けた場所に出た。雑草は腰くらいまで伸びているが、樹木の類は存在しない。シャーロットが感嘆したように言った。
「広々してマスネ」
一辺が百五十メートルの正方形くらいのエリア。野球のグラウンドよりは広いだろう。
「元は、キヨミズの女子運動部の合宿所兼グラウンドとして開放されていたっていう話です。十年くらい前に学校の敷地を拡充したから、少し遠いこっちは用済みになって建物とかもほとんど壊されちゃいましたけど」
林と境を接するところに用具置き場に使われていたプレハブが、ぽつんと一つ。
ひとまずその中でジャージに着替え、三人は外に出た。
「ど、どうかしら? 森さん」
「弥生で結構ですわ」
真理乃が振り返れば、弥生は腕組みをして空き地を眺め回している。
「広さは充分ですけれど、この雑草が問題ですわね。整地しないうちはキャッチボールと素振りとランニング……後はせいぜいフライの捕球練習に……」
しばらく呟き、それから我に返ったように真理乃とシャーロットへ視線を向ける。
「お二人、野球はほとんど未経験ということでしたわね?」
問われて肯くと、弥生は「用心に持って来ておいてよかったですわ」などと呟きつつ、バッグからグラブをいくつか取り出して、見繕ったものを二人に手渡す。
「なら、今日はこの使い古しで勘弁してくださいな。いずれは自前で手に合ったグラブを持っていただきたいところですけれど」
真理乃に与えられたのはシャーロットに渡されたものよりも古ぼけたグラブ。『吉田』と名前が入っている。
「吉田さんって、誰デスカ?」
シャーロットが自分の手にはめたグラブを見ながら弥生に訊ねた。
「友人ですわ。今は野球から一時遠ざかってますの」
自分は新品みたいなグラブをはめながら質問に答えると、弥生は二人に言った。
「まずはキャッチボールから始めましょう」
真新しい硬球を手に取ると、一辺が五メートルほどの三角形を三人で形作る。
「投げながら、少しずつ距離を広げて行ってくださいません? お二人の遠投の能力なども測りたいですし」
そして、弥生は真理乃の胸元に柔らかくボールを投げてきた。
グラブで捕球し、右手に持ち替えてシャーロットの胸元に投げる。それをシャーロットが捕って、弥生に投げる。弥生は数歩後ろに下がると、また真理乃に投げてくる。真理乃もそれにならって距離を広げてからシャーロットに投げる。
何球かそんなことを繰り返していると、心地好い感覚が心を包むような気がしてきた。
相手のボールを受ける。相手にボールを投げる。
その他愛ない行為が、やけに楽しい。ボールをやり取りするたびに、全身がくすぐったくなるような気分。
会話のキャッチボールという言葉があるけれど、実際のキャッチボールは下手な言葉を費やすよりもよっぽど気持ちよく相手と会話しているように、真理乃には感じられた。
と、三角形が一辺二十メートルほどになった頃、どこか場違いな電子音が鳴り響いた。
「すみません、わたくしの携帯ですわね」
弥生が駆け寄ってバッグから携帯を出す。画面を眺めると、小さく拳を握りしめた。
「どうしたんですか、弥生さん?」
「優さん――キャッチャーをやってる子からの連絡が入りましたの。もう一人部員を獲得できたようですわ」
そしてたどたどしい手つきでメールを打つと、手を軽く合わせる。
「顔を知ってるわたくしが迎えに行かなければならないので、すみませんけれどお二人でキャッチボールを続けてくださいません?」
「わかりマシタ。イッテラッシャーイ」
「弥生さん、道わかる?」
「ご心配いりませんわ。方向感覚は悪くない方ですから」
言いながら、弥生は道を引き返して行く。
「……人手が少ないのも大変デスネ」
シャーロットが真理乃に話しかけてきた。
「そうですね……。わたしなんて、野球はしたことないのに、村上先輩に引っぱってこられたくらいだし」
思わず愚痴をこぼすと、シャーロットは苦笑した。
「シャルも同じネ。あんまりスポーツとかは好きじゃないんだけど」
「でも、今のキャッチボールはずいぶん楽しそうでしたよ」
「……そうネ。真理乃さん、キャッチボール続けマショ。今度はもっと離れてみて」
「は、はい」
三十メートルほど離れてやってみる。自分もシャーロットも余裕で投げ合える。
ではもう少し。まだまだ問題なし。さらに遠ざかって。
真理乃は自分の新たな身体の持つ能力に驚きつつ、どんどん距離を広げていった。
「弥生さんが迎えに来るって」
「じゃ、出発しよ」
「…………」
雪絵は前を歩く宇野と小笠原について行きながら、まだ半ば呆然としていた。
――なんだ、こいつら。
最初に見せられたのが、自分が陽介だった時に苦労して覚えた球を落差で大きく上回るフォーク。愕然とした表情を隠す間もなく小笠原に見られてしまい、追い打ちとばかりに宇野が繰り出すカーブやシュートやスライダーを見てしまうと、もはやどんな強がりも言えなくなった。そして駄目を押すように放たれた、ナックル。
正直、『陽介』の身体であっても打ち砕けそうにない変化球の数々だった。
またそれをきっちりと捕球する小笠原も、女子とは思えない反応の良さ。少なくともこのバッテリーが男子野球部に挑むのはまったく不自然な話ではないと思われた。
もしかしたら、この二人はキヨミズの男子野球部を完封してしまうかもしれない。そうなれば本当に女子野球部は甲子園に出場できてしまうかもしれない。大西義塾と試合をすることになって、雪絵が陽介と対戦することさえ可能かもしれない。そこで勝てさえすれば、十日前のあの敗北の雪辱を果たしたことになるかもしれない。
だが、そんな想像を広げる一方で、雪絵は居心地の悪さに近い感覚も覚えていた。
――こいつら、俺よりセンスがあるんだよな。
請われる形で女子野球部への入部に同意したものの、その期待に応えるほどの働きができる自信を、今の雪絵は持てずにいた。
この『雪絵』の身体を使いこなせる気がしない。『陽介』の投げる速球にきりきり舞いしたように、男子野球部のピッチャーにも手玉に取られてしまうかもしれない。塁に出ても走塁に失敗するかもしれない。守備で足を引っぱるかもしれない。
これまで――雪絵と対戦せずに済むようになった中学以降は特に――自信過剰気味に過ごしてきた元陽介の雪絵は、十日前のショックからいまだに回復していなかった。
「あ、弥生ちゃん」
朝雪絵に話しかけてきた、気取った容姿の女がこちらに寄って来た。森とか言ったか。
「ようこそ、女子野球部へ。歓迎いたしますわ」
気取った女は物言いまで気取ってる。雪絵は差し出された手におざなりな握手をした。
「弥生ちゃん、今はどうなってるの?」
「美紀さんと新入部員二人と合流いたしましたわ。美紀さんは次の候補の勧誘に向かい、わたくしたち三人は独自の練習場所に行ったところでしたの」
「その二人は、どんな具合かしら?」
小笠原の質問に、森は小首を傾げる。
「まだ何とも言えませんわね。自前の道具も持ってない素人さん二人ですから。ひとまずはキャッチボールを始めたところで優さんの連絡が入って……」
茂みの隙間に隠れたフェンスの切れ目から私有地らしき敷地に入りつつ、森はそんなことを言った。
話す内容を聞いて、雪絵は少しばかり安堵する。
全員が全員男子顔負けの女ばかりではないようだ。いくら何でも、野球をしたことのない素人なんかは目じゃない。この気取った女にも、きっと勝てるだろう。
「あそこが、藤田真理乃さん提供の練習場所ですわ。もっとも、草むしりして設備も整えないことには、専門的な練習は――」
後ろを行く三人に目的地らしき開けた場所を手で示しつつ正面に向き直った森が、ぽかんと口を開ける。
そしてそれは、雪絵も同じだった。
やけに背の高い外人の女が、右手に握ったボールを投げる。
はるか、はるか彼方、百メートルはないにせよ、八十メートル以上は向こうにいる人影が、グラブを上げてボールを捕る。そして投げ返す。
再び八十メートル以上の距離を越え、ボールはノーバウンドでこちら側に戻ってきた。
「あ、オカエリナサーイ」
イントネーションのおかしい挨拶をしながら、外人女が手を振った。向こう側の人影も雪絵たちに気づいたか駆け寄って来る。
「……強肩自慢のライトとレフトが互いの定位置に立ったままキャッチボールをすることが、たまにありますわね。プロ野球での話ですけれど」
「……私も、それ思い出した」
森と小笠原のそんな会話を雪絵はぼんやりと聞いていた。
「どうしてあたしを女子野球部に入れようなんて考えるのかな? 帰宅部の女子なら他にいくらでもいるでしょ」
昇降口を出たところで村上美紀と名乗る二年の女子に捕まった鮎川一美は、とりあえずそう訊いてみた。
「二月の球技大会、ソフトボールの部、二年D組対一年A組の第一打席。あのホームランを目にしたらなかなか忘れられませんよ」
言われて、あの時の相手チームに三つ編み眼鏡の子がいたことをぼんやり思い出す。
「適当に振り回してたら飛んだだけだって。あれ以外にホームラン打ってないじゃん。凡退もしてたし」
本気を出したら目立ちすぎると思い、ホームランは一試合一本で自粛していた。
「その凡退は、チームがリードしていた時の話ですよね。追い上げる局面で二度ほど狙い澄ましたようなヒットを放って、同点や逆転の起点になったのを、あたしは覚えてます」
「……ずいぶん記憶力がいいんだねえ」
「数少ない取り柄なもんで」
お褒めに預かり恐縮、とばかりに美紀は優雅な礼をする。慇懃無礼半歩手前みたいな挙措だが、性根の卑しさは感じられないので、一美はそれほど気分を害したりはしない。
「あなたの打棒が加われば盾と矛が揃ったようなもの。男子野球部にも、きっと勝てる」
「……盾はもう確保してるんだ。ピッチャーのこと? 鉄壁の守備ってこと?」
「前者です」
「ふうん……」
一度大きく伸びをすると、一美は美紀に提案した。
「その子と勝負させてくれない? 方式は、――」
一美の説明をじっと聞くと、美紀は問いかけた。
「その意図は?」
「昔入ってたチームが割とレベル高かったんでね。あんまり程度が低いんじゃ、どうにもやる気になれないってこと。もしあたしが七割打てちゃったりしたら、この話はなかったことにして」
「……そうですね。そんなに打たれるようじゃ、梓もまだまだだ」
決然と肯くと、美紀は携帯を出してどこかにかける。事情説明を簡潔にまとめ、相手の了承をすぐさま取りつけたようだ。通話を切ると一美に向き直った。
「OKはさせましたけど、部員が九人揃ってるわけじゃないんで、形式的には不完全なことになりそうです」
「それはいいよ、あまり微妙なところへは打たないように気をつけるし」
「それと、グラブも持ってない素人が私を含めて数人いるので、今日のところは勘弁してください。勝負は……明日の放課後ということで」
「了解」
「では明日、この時間にこの場所で待ち合わせましょうかね」
そう言うと美紀は昇降口から校舎へ上がろうとする。思わず一美は訊いた。
「あれ? 部活行くんじゃないの?」
「もう一人、誘いたい人がいるんです。図書室に」
「どうして誘われるのか、その理由がわからない」
図書室で物理の問題集に取り組んでいた青田啓子は、突然隣に腰掛けて女子野球部に入らないかと言い出した村上美紀と名乗る二年生の女子に、そう訊ねた。
腹を立てているわけではないが、この三年間、人に言えない秘密を抱えて生きてきたせいか、警戒する相手への声音は自然と冷たく尖る。それに若い子の相手をするのは、やはりしんどい。特に本来異性であった女子の相手となれば、なおさらだ。
「こっちが事故の後遺症で身体弱いのって、けっこう知られていることだと思っていたけれど? 体育だってかなり見学してるし」
あれから三年、いまだに啓子は『あたし』や『わたし』などの一人称を使えずにいる。その人称は、本来の自分に似合わないし、本来の啓子に対して失礼な気もするから。かと言って『僕』や『俺』を使う度胸もなくて、『こっち』などを代用し続けている。
「先刻承知の上で、誘います」
美紀は眼鏡を軽く押し上げ、答えた。
「球技大会の時、二年A組のソフトボールチームの指揮を執って優勝した姿を拝見しまして。選手としてよりは、むしろ監督的な能力に期待してるんです」
美紀に言われて、二ヶ月前のことを思い出す。クラスでは他の競技に力を入れていた関係で、あぶれ者の寄せ集めじみた編成になっていたチーム。そんな中一人だけソフトボールを第一希望にしていた成り行きから久しぶりにキャプテンなんて肩書きを授けられ、少しばかりがんばってみたあの数日間。
三年前までの本来の自分をいくぶんか取り戻した気になれた、あの数日間。
美紀の誘いをいつしか魅力的に感じ出し、しかし、啓子は冷静に聞くべきことを聞く。
「それで? 肝心のチームは完成しているの?」
「……まだ七人ですね。あなたが入れば八人目」
「プレイング・マネージャーとしても、一人足りないね。そういうのは九人、せめて八人揃えてから声をかけてほしいものだけど」
「それは、八人いれば考えないでもないって受け止めていいんですかね」
美紀が目を光らせると、啓子に反論する暇も与えず続けた。
「なら、明日の放課後少しつきあってもらえませんか? うちのエースが四番候補と対戦する名勝負が見られますし、その場で八人目も獲得しますから」
*
呪いのようなものだ、と父親はかつて切り出した。
今から八年ほど前。鮎川一美が小学四年生の時のこと。テストの名前欄にはやっと漢字で書けるようになった「篠原一実」と書いていた時のこと。リトルリーグで四番の座を不動のものにしようとしていた時のこと。将来自分の性別が男から女に変わるかもしれないなんて、夢にも思っていなかった時のこと。
何百年前からか、一美の家には奇妙な病気が発症するようになっていたという。十三歳の誕生日から十七歳の誕生日の間に、性別が変わってしまうという症状。ただし誰もがというわけでもなく、確率はおよそ四割。現代の医学では、元に戻ることも予防することも不可能。性別変化をするかしないか事前に判定することさえできない。
先祖伝来の口伝においては戦国時代に端を発する。地方の豪族だった先祖がある日旅の僧侶を虐げて、その数年後、三人の娘の性別が一晩のうちに変わってしまったというものだ。それぞれ有力な家柄との婚礼を間近に控えてのこの椿事。一族郎党は対処する術もなく、散を乱して逃げ惑い、以後二度と家運は栄えなかったとのこと。しかし『呪い』は執拗につきまとって現在に至る。
対象となるのは、宗家の子供。宗家が子に恵まれず廃れれば、最も近い分家の子供が次の標的となる。家名が問題なのかと、宗家の子供が一斉に嫁や婿養子になったこともあるが、その際は一番年上の子供が嫁いだ先で同じことが起きた。それが今に続く篠原の家。
性別の変化に伴うのは、体格・筋力・容姿の劇的な変化。性格の変化は緩やかに起こる上に個人差が大きいので、これは本人次第というものだろう。記憶や知識などはまったく変化しない。
だからお前も野球よりは勉強を、と言われて、当時の一実はひどく回りくどい説教だと判断した。後は適当に聞き流して、その場をやり過ごした。
だがその後もことあるごとに繰り返され、中学を卒業する頃には真剣に受け止めるようになっていた。けれど対策も何も取りようがないため、せいぜい今の生活を失うことがありうると、覚悟を決めるだけだったが。
そして去年の十二月。十七歳の誕生日を数日後に控えた朝。一晩のうちに変わり果てた自分の身体を見下ろして一実は深くため息をつくと、メールで両親に報告した。そして用心に買ってあった女物の服の中でサイズの合うものを着込むと、大阪支社勤めの父親と二人暮らしだったマンションを出て、東へ向かう新幹線に乗り、母親と弟妹が暮らす実家に帰り着いた。
通い慣れた高校にもう一度行くことも、ともに戦ってきたチームメイトたちに最後に顔を見せることも、無論できない相談だった。
「あら珍しい。この前もう野球はしないとか言ってなかった?」
村上美紀との会話の後に帰宅した一美は、ほぼ四ヶ月ぶりに素振りをしていた。さらに後から帰宅した母親がそれを見て、軽い口調で言った。
「うるさいよ、伯母さん」
「お腹を痛めて産んだ親に向かって何て口を利くのかしらねえ、この子は」
ハンカチを取り出してさめざめと泣くふりをする。実に苛立たしい。
「もう戸籍上はおばさんだろ。しかもにんべんの方」
篠原家の子供は『呪い』が発症した場合に備え、生まれると同時に田舎の役場に手を回して、親戚である鮎川家の戸籍も入手しておいてある。詳しいことはよく知らないが、病弱なので転地療養しているという理屈で義務教育などの問題はやり過ごしたらしい。
そんなわけで鮎川一美は、元の自分――篠原一実――の、従姉妹ということになっている。戸籍上の両親は、父親の妹である叔母夫妻。ほとんど逢ったこともない。
「はいはい。伯母さんは引っ込むことにしますよ」
すねたように言って姿を消した。と思ったら、またひょっこりと顔を出す。
「あなたはやっぱりバット振ってる姿が一番似合うわよ。可愛い女の子になってもね」
「どうしたの、優ちゃん。元気ないね?」
グループの先陣を切って歩いていたはずの梓が、いつの間にか最後尾の優の隣にいた。
「人数的には、九人揃ったわけだけど……これで男子に勝てるのかなって、ちょっと不安になって……」
今日の勝負に、昨日見つけた雑草だらけの敷地は不適だ。そこで学校から少し歩いたところにある河川敷のグラウンド目指して、放課後を迎えた今、グラブやバットを手にした主にジャージ姿の女子が九人、そぞろ歩いているわけである。
その一団を眺め渡して、優は頼もしさよりは不安の方を覚えてしまっていた。
昨日女子としては並外れた強肩を示したシャーロットは、帰りに全員で立ち寄ったスポーツ用品店で買った新品のグラブを、小学生みたいに飽かず眺めていじり回している。
その隣、同じく高い身体能力を披露した真理乃は、しかし内気で気弱な性格。誰かに何か話しかけられるたびにどこかおどおどした態度で応じている。
雪絵は他のみんなから、やや距離を置いたところを一人で歩いている。昨日の朝から見慣れた仏頂面は今日も健在。
先頭を行く弥生と美紀は、今日新たに仲間となるかもしれない二人と会話していた。
弥生はさっぱりした性格で積極的。高飛車と思われかねない口調だが、優としては男子並につきあいやすい。しかし優は、弥生の野球の実力をまだきちんと見ていない。大久保の百四十五キロをファウルで何度も粘り最後にはヒットを打ってみせた、とは梓から聞いているが、守備や走塁もそれなりのものでなければ困る。
美紀は頭が良い。今日の休み時間、梓は優との雑談の折に「美紀姉ちゃんは頭が切れるけれど詰めが甘い」などと寸評していたが、この二年生は人を見る目があるし、その人材を束ねる行動力もある。ただし、野球の実力は未知数だ。
そして新顔の三年生二人。今日の勝負を提案してきた鮎川一美と、その勝負を観戦に来た青田啓子。
一美は飄々としていて、奥二重の目が眠そうで、どこにでもいそうな愛嬌のある可愛い女子高生にしか見えない。
長身の啓子は、観戦ということで一人だけ制服姿だ。どこか人を寄せつけない雰囲気。雪絵のように周囲を威嚇するような感じではなく、あえて他人に近づくまい他人を近づけさせまいとしているような、印象。身体の線が細く、野球どころかそもそもスポーツに向いているように見えないのも気になる。
それにまた優は、自分の能力にも疑問符をつけざるを得ない。ピッチャーの球を捕る、そのキャッチャーとして最低限の技術は今も保たれているが、盗塁を防ぐ肩の力はどれほどあるか。バッティングはどうなることか。
それらを口に出したわけではないが、梓は優の考えを追うように言った。
「試合まではひと月以上あるからね。練習すれば、穴を見つけて埋めるのも、長所を見つけて伸ばすのも、きっと間に合うよ」
「練習は、男子もするわよ」
「それはそうだけどさ。まずはその前に、今日のことに集中しようよ」
「今日のことって、七割打てるか打てないかの件?」
優はのんびり歩いている一美に目をやり、肩をすくめた。
「まさか梓さん、打たれるかもしれないなんて考えてるの?」
優としては軽口のつもりだったが、梓は真面目に肯いた。
「油断してたら」
「ちょっと待って。いくら何でもあなたの球が女子にそうポンポン打たれるわけ――」
「男子野球部の人たちも、僕のことを甘く見て油断してたよ。優ちゃんも雪絵ちゃんも、最初は似たようなものだったでしょ?」
言われ、優は口を噤んだ。
「じゃ、ルールの再確認するよ」
河川敷のグラウンド。そのバッターボックスの周囲に、啓子を除く優たち八人が集まると、一美がのんびりした口調で口火を切る。啓子は少し離れたベンチに腰掛けている。
「あたしが打つ。そちらのエース――梓ちゃんだっけ?――が投げる。十打席勝負。そのうちあたしが七本ヒットを打ったら、あたしの勝ち。言い換えれば、梓ちゃんがあたしを四回アウトにできれば、その時点で梓ちゃんの勝ち。フォアボールになったら、打数に数えないでやり直し」
「つまり打率七割に達するかどうかがポイントなわけですわね。その基準はどこから?」
弥生が手を挙げて一美に訊ねる。
「あんまり深い意味はないけどさ。昔いたチームで、あたしトータルだと七割打ってたから。そんな平均的なピッチャーじゃ、つきあっても面白くないと思ってね」
「そのチームってのは、リトルリーグか草野球だろ? 図に乗ってんじゃねーよ」
隅で雪絵が吐き捨てるように言った。
「雪絵さん! 無礼な物言いはおやめなさい!」
「きゃんきゃんうるせーっての、お嬢様。ほれ、今のは俺の独り言だから、話続けろよ」
雪絵と弥生はどうも反りが合わないらしくて、昨日から何度となく衝突している。優としてはそのたびにうろたえてしまうし、シャーロットや真理乃も落ち着かない様子だが、この場の中心人物たる梓と一美、それに美紀は平然としていた。
そんな美紀が一美に言う。
「三振じゃなくて凡打でもアウトですよね」
「当然でしょ? そっちの人数が足りないのはわかってるから、空いてるポジションに微妙な打球が飛んだらフォアボール同様ノーカウントということで」
「よかったね、梓。こないだの九連続三振よりは条件が楽だ」
美紀が言う。言わでもがななことをあえて口にしたのは相手にプレッシャーをかけるためかと優は推測したが、一美は面白そうに目を輝かせただけ。そして梓に向かって言う。
「それともう一つ。昨日提案した時は言い忘れてたけど、どの打席もツーストライクから始めることにしようよ。時間の短縮にもなるでしょ?」
場が静まり返る。
「えーと、一球空振りするたびに一つアウトになるってこと、です、ヨネ?」
シャーロットが語尾だけ珍妙にして周囲に訊ねる。どうもこのアメリカ人、素の日本語は達者らしい。自らを不利にしすぎる一美の案に驚いて、思わず地が出たようだが。
もっとも、驚いたのは優も同じだ。この人はマゾか何かか、それとも内心では女子野球部に入りたくてしかたないのか、などと色々考えてしまい、半ばフリーズ状態。
だが梓もとんでもないことを言い出した。
「なら、スリーボールツーストライクからにしませんか? そうすれば一打席一打席がお互い逃げも隠れもできない一球勝負ってことになります。ただそれだけだと僕の方がまだ有利過ぎるから、フォアボールはヒット扱いということで」
「その意気やよし……と応じたいところだけど、キャッチャーさんと相談してみたら?」
と一美が振るのとほぼ同時に、優は梓をグラウンドの隅に引っぱっていった。
「鮎川さんも鮎川さんだけど、梓さんも何言ってるの? そんな変なことしなくても普通にやれば――」
「あれは、たぶん一美さんなりのバランスの取り方だよ」
「え?」
「普通に十打席僕の球を見続ければ、必ず打てるから勝負にならない。だから各打席ツーストライクはハンデとしてプレゼント……って考えたんだと思う」
「嘘でしょ? そんなの自信過剰にも程がある……」
「一美さん本人がそう思ってることは間違いないよ。実際の実力は知らないけど」
「だからって、それに乗っかるの?」
「十球で済むならそれもいいでしょ? それとも優ちゃんは、ボール球で遊んだりしてリードを楽しみたい? 僕はそれより一刻も早くメンバーを九人揃えたいんだけど」
「……それ言われちゃうと、反論しようがないじゃない」
「重要なのはもちろん内野ね。外野までそうそう打球が飛ぶとも思えないし」
「センターラインのセカンドとショートは、初心者には荷が重いでしょう。わたくしと雪絵さんがやるということで異存はありませんわね?」
「誰がやるにしろファーストは素人かよ。なら外人さんがやって。一番背が高い」
しばしの打ち合わせの末、ファーストにはシャーロット、セカンドに弥生、ショートに雪絵、サードに真理乃という配置にした。美紀が外野でひとまずセンターの位置に立つ。
優が定位置に腰を落とし、梓がマウンドに登る。そしてバットをかついだ一美が悠々と右バッターボックスに入った。第一打席。
「じゃあ……お願いします」
「いつでもどうぞ」
優のサインに応じて梓がサイドスローから繰り出した第一球は、ナックル。
打ちに行った一美は盛大に空振りし、派手に一回転すると尻餅をついた。
「これで第一打席はこちらの勝ち……なんですよね?」
思わず優が確認すると、膝をついて立ち上がろうとしていた一美が肯く。
「面白い球投げるね。こりゃいいピッチャーだわ」
「……そう思うなら、勝負はやめにしてチームに入ってくれません?」
「一度始めたことを途中で放り出すのは好きじゃなくてね。それに、こんな楽しい対決はなかなかできないし」
大きく伸びをして軽く素振りをすると、一美はバッターボックスに入る。第二打席。
――緊張するほどでもなかったかな。
優は軽く息をつく。スイングの鋭さは女子離れしていたけれど、これなら残り九打席で三つのアウトを取るのは簡単そうだ。
――一打席くらい花を持たせるか。
二球目、優は内角高めにストレートを要求した。梓は怪訝そうな顔をしたが、肯く。
指先から放たれる球。球速としては百二十キロに届かないくらいだろうか。
一美はタイミングを計るように軽く左足を踏み出すと、バットを振り抜いた。
甲高い金属音を後に残し、白いボールがライナーとなって右中間を突き破る。センターの美紀には捕れない。ライトに選手がいてもよほど異常な守備位置についていない限り捕れるわけがない。そんな完璧な長打だった。
律儀に一塁まで走って行った一美が、戻って来ると優に言った。
「いい流れを自分から捨てると、あんまりいいことないよ」
梓がマウンドから降りて、優をグラウンドの隅へ連れて行く。引っぱる腕が少し痛い。
「内角高めが一美さんの弱点だと見抜いたとか、そういうわけではなかったの、かな?」
いつもは無邪気に明るい笑顔が、今は露骨なまでに強張っている。
「え、ええと、一球空振りさせただけじゃ、そんなことまではわからないです」
思わず敬語を使ってしまう。
「じゃあサービス? 哀れみ? それって一美さんにすごく失礼だよ」
「で、でも、仲間になってくれる人なんだから、完膚なきまでにやっつけちゃうのも、その、向こうのプライドとか……」
「そんな程度で砕けるようなプライドなら、粉微塵にしちゃえばいいんだよ」
梓はきっぱりと言ってのけた。
「だいたい、手を抜いたらこっちが粉々にされかねないんだから」
一美の言葉も梓の言葉も、見事に正鵠を射ていた。
第三打席。優が提案したのはスライダー。マウンドの梓もすぐに肯く。
右打者の内角から横滑りに滑って最終的には外角に達する、梓の数ある変化球の中でも最大の横変化を誇るボール。
一美は打てるバッターであり、口先だけではないことがはっきりした。それでも当たらなければ関係ない。
そんな優の思惑は、しかし、あっさり打ち破られる。
一美は体勢を泳がせながらもスライダーの変化に対応し、バットを強振。打球は矢のようなライナーになり、ジャンプしてグラブを伸ばしたショート・雪絵の十センチほど上空を通過すると背後の地面で勢いよく弾んだ。
「まあ、こんなもんかな」
上機嫌で一美が一塁から引き上げてくる。と、静まり返っていたグラウンドの中、雪絵のこぼす言葉がやけにはっきり聞こえた。
「ただのショートライナーで調子乗んなよ。俺が普通の背丈の男なら捕れてた球だろが」
一美のそばにいた優は焦るが、一美は眠そうな表情を崩さなかった。
そして第四打席。今度はシュート。
しかし一美は急激に内角に切れ込んでいくシュートにも臆さない。肘を上手く畳んで、弾き返す。
打球はさっきを上回る速度で、ショートのちょうど真上、頭上五十センチの地点を通過した。雪絵は今度は何も反応できなかった。
一塁に目を移せば、一美が雪絵に向かってにやりと笑いかけていた。
狙って打ったのは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
第五打席。一美は梓がオーバースローから繰り出したフォークをきれいにすくい上げ、センター前にぽとりと落とした。
これで五打数四安打。残り五回のうち、三回打ち取らなければならない。
「ここまでずっと横手だったのに上手で来るからね。上手でないと投げられないか投げづらい球かな、くらいは読めたよ」
戻って来た一美の言葉を聞いて、優は恥ずかしさに顔を赤くした。相手は数少ない情報を元に的確な読みを働かせたのに、自分は梓の球種に頼ってばかりの芸のない配球をしてしまったことに気づかされたから。
しかし、そんな風に一度悩み出すと、何を投げさせても打たれるような気がしてきた。
こんな気持ちになったのは、去年の夏以来二度目のことだ。大西義塾との甲子園決勝戦で向こうの四番だった二年生・篠原一実。高校本塁打の記録を塗り替えそうな勢いだった巨漢(去年の冬、難病を患ったとかで姿を消してしまったそうだが)。けどその本質は、ピッチャー渾身のボールを軽々スタンドに運ぶパワーでなく、あらゆるボールに即応できる目と反射神経、それを打撃に反映する天才的なバットコントロールにあったと思う。
今バッターボックスに立っている鮎川一美は、その篠原からごつい身体とパワーだけを抜き取った存在であるような、そんな錯覚を覚える。
そして今の優は、猛だったあの時と同じように、迷い始めてしまった。二本目のホームランを打たせてキヨミズの反撃機運を根こそぎ奪ってしまったあの時と同じように。
迷いは決して何も産まない。第六打席、成功の記憶にすがって梓に投げさせたナックルは、ボテボテながらも一二塁間を巧みに抜けるヒットとなった。
「魔球とは違うしね。消えはしないから、一度見れば当てるぐらいはどうにか」
一美のコメントに応じる余裕もない。
残り四打席のうち、三回を打ち取る。今の優には、それはもはや途方もない難事業に思われてならなかった。
「梓さんが、リードして」
マウンドの梓に駆け寄って優は言った。言って、自分はキャッチャー失格だと思った。
こんなすごいピッチャーと組んでいるのにむざむざヒットを打たせてしまう。このままだと自分のせいで投手を、チームを、壊してしまう。
それはどうしても耐えられなかった。だから、誰に言われるより先に自分で判断して、サインを梓に出してもらおうと考えた。
自分にはこのチームの頭脳なんて務まらない。ただ梓の球を受ける壁になる。それが自分にはお似合いだ。本当はきっと、去年の夏だってそうだった。決勝まで進めたのは単に運が良かったからで、それを勘違いして下手なリードをしたせいで、大西義塾にああまでみじめな惨敗を喫することになって……。
「優ちゃん、泣かないで」
うつむいていた優の顎を軽く指で持ち上げて、突然梓はそんなことを言った。
「な、泣いてなんかないよ!」
ちょっと目が潤みそうになっていたのは事実だが、涙をこぼしたりはしていない。優は躍起になって反論した。
「うん。その負けん気があればまだ大丈夫」
梓は優ににっこりと笑いかけた。
「気弱は勝負に禁物だよ。まだ一打席分余裕はあるんだし、がんばろ」
「き、気弱とかそういうんじゃなくて、本当に、梓さんがリードした方がよっぽど……」
「それは無理。僕のリードって目も当てられないくらいひどいもん」
言って、梓は首を横に振る。
「キャッチャー初心者の弥生さんと組んだ時は、男子野球部を九人連続三振させたのに?」
「互角の相手と渡り合えるほどじゃないよ。実際、前に若いキャッチャーのリードがあんまりだからって自分でやってみたら散々な目に……」
「若い?」
この子はどんな状況で投げたのか。
「と、とにかく、ここはやっぱり本職の優ちゃんに――」
「ふと思ったんだけど」
「うわ!」
優と梓が話す横に、見物人のはずの青田啓子がいつの間にか立っていた。
「緩急つけたらどう?」
「か、緩急って、でも、梓さんは見ての通りあまり速い球が投げられるタイプじゃ……」
「緩急は球の速い遅いだけじゃないよ」
「え……? ああ!」
優と梓が同時に叫んだ時、弥生や美紀たちも集まって来た。そして美紀が啓子に笑う。
「青田さん、観客が選手にアドバイスするのは筋違いだよ?」
「選手なら問題ないね?」
「もちろん」
「……久しぶりに血が騒いできたよ、柄にもなく」
「あなたは元々そういう人だったんじゃないの?」
「……かもね」
美紀とのそんな会話を済ませると、啓子は居並んだ他の六人に向かって言った。
「三年A組、青田啓子。これからよろしく」
「それにしても、どうしてうちの部員には、野球に詳しい割にグラブも持っていないような人が何人もいるんでしょう?」
バックネット近くにまとめておいたバッグの中から予備のグラブを出しながら、弥生が近くで梓と打ち合わせをしていた優にぼやいた。昨日買うまで小笠原優としてのミットは持っていなかった優としては、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
「ぐ、偶然の一致ってやつじゃない? あ、あれ? この吉田って誰?」
「……幼なじみですわ」
「え? 男の子? 女の子?」
自分のバッグから飲み物を取り出して飲んでいた梓が、反応よく食いついてくる。
「男ですけれど、それが何か?」
「どんな関係?」
「どんなも何も、まだ変なことにはなっていませんわ」
「ふーん。『まだ』かあ」
「梓さん! 言葉尻を捉えるのはおよしなさい! 優さんも妙な顔をしない!」
「私は変な顔なんかしてないよ!」
「グラブ一つ引っぱり出すのにいつまでかかってんだてめーら!!」
雪絵に怒鳴られ、三人は慌ててグラウンドに戻る。
「わがまま言って悪いけど、走り回るのは苦手なんでファースト希望」
制服姿にグラブをはめた啓子が言う。
「ならシャルが外野に行きますネ」
守備位置を変更し、八人がグラウンドに散る。そして迎える第七打席。
「いい感じになってきたね。すごく楽しそうだな」
一同の様子をのんびり眺めていた一美が打席に入り、戻って来た優に言った。
「だから、そう思うならさっさと終わらせましょうよ。空振り三回でいいんですから」
優が応じると、一美は目を細める。
「元気になったようで何より。まあ、今は勝負のことだけ考えようよ。投げて、打って、捕って、走る、それだけをさ」
「……はい!」
優が腰を落とし、ミットを構える。梓が投球体勢に入る。いつもなら、そこから左足をしっかり踏み出して右腕を力強く振り抜く。球種に関わらず常に一定のタイミング・一定のモーションを保つのが、梓のピッチング。
だが、今の梓は左足をちょんと踏み出し、そのまま右腕を小さく振った。
ランナーが出た際に盗塁を警戒して投球動作を短縮するのがクイックモーション。だがこれは、クイックモーションというにもあまりに速く、しかし代償として球威はまったく期待できない。
打席の一美があわててタイミングを取り直そうとしているのが感じられる。本来盗塁を抑止するのがクイックモーションであり、もちろんその球速は維持するものだから。
――ところがこれは、球速まで犠牲にしてるんだな。
優のリード通り、梓の指から放たれたボールは、奇跡のようにゆっくりと宙を漂った。球速六十キロもなさそうに見えてしまうほどの、紛う方なきスローボール。
一美もそれは目で捉えているが、クイックモーションに応じるべく切り換えた体勢は、脳の再度の切り換え要求にまでは反応できない。早過ぎるスイングの始動。
バットが空を切り、その後をゆるゆるとボールが通過して優のミットに収まった。
「……いっそのこと一回転すればよかったかな?」
バットをこつんと額に当てながら、一美が言った。
「二段構えはやられたよ、ナイスリード」
その言葉は、今の優にとって最高の勲章であった。
――偉そうにアドバイスしたけれど、必要なかったかな。
一塁ベース近くで身構えていた啓子は、一美を空振りに切って取ったバッテリーを見ながらそんなことを考えた。あそこで口を挟まなくてもすぐに自力で思いついただろうし、実際に投げた球には啓子のアドバイスには抜けていた工夫も盛り込まれていた。
さて、これで七打数五安打。もう二回抑えれば、一美を仲間にする条件は達成される。
本来なら守備位置を調整して一美シフトでも作り、打たせて取るピッチングを徹底したいところ。しかし一美は、先刻のショートを狙った打球を見るに、どこへでも自在に打ち分けられる模様。梓の球威のなさが災いしていると言えよう。
もっともそれは、梓のレベルが低いからというわけではない。変化球のキレと制球力が生命線の梓のピッチングが、動体視力と反射神経を主武器とする一美のバッティングに対して徹底的に相性が悪いからという話に過ぎない。今快音を飛ばしている一美にしても、球威のある重い球を擁するピッチャーを相手にした場合にどこまで力を発揮できることか。
――って、何考えてんだか。ここはベンチでも試合前のミーティングルームでもなくてグラウンドだってのに。
気を取り直して意識を第八打席のマウンドに向けると、今度の梓はサイドスローでもオーバースローでもなく、アンダースローで投げていた。
――どこまで器用なんだろね、この子。
それは打席の一美も同意見だったようで、「今度は下手かいっ!」などと叫んでいる。
それでも初見の球を打ち返してしまうその技術はさすがだが、流し打った打球は地を噛むような鋭いゴロながら、啓子の真っ正面に転がって来た。捕って一塁を踏めばアウト。
なのに、腰を落とし、捕球しようとして、強烈な打球はグラブの拘束を逃れんとばかりに跳ねる。一度は収まったはずのボールが、地面にこぼれた。
ボールを日常的に扱うそれまでの生活が失われて三年。それは同時に大手術の代償として激しい運動を控えてきた三年間。その不利は、さっきフェアグラウンド内に足を踏み入れた瞬間から自分自身が誰より強く意識してしまっている。
ボールを掴もうとする手が滑る。
心が焦りに囚われそうになった時、傍らを飛び跳ねるように駆けていく影。
梓が一塁のカバーに入ろうとしていた。
ベースを踏み、啓子の方を向いてグラブを伸ばしながら、瞳が明るい光を放つ。
勝利へと一直線に突き進む、力強い眼光。この勝負の間、ずっと失われなかった輝き。啓子の決意を最後に後押ししたその光に導かれるように、啓子はボールをトスしていた。それは一秒前までとは別人のように、実に自然でスムーズな動きだった。
駆け込んで来た一美。梓のグラブに吸い込まれるボール。
「アウト、ですわね」
ベース後方でバックアップに入っていたセカンドの子が口を開くと、一美も肯いた。
「ちょっと間に合ってなかったね。ここからあたしが勝つには二打席連続ヒットかあ」
そんなやり取りを聞きながら、啓子は深く安堵の息を吐いた。
「次にちょっと投げてみたい球があるんだけど……いい?」
第九打席に入る前に、優をマウンドに呼んで梓が言った。
「いいけど……どんな球?」
梓の答えに、優は耳を疑った。
「そんなの打たれるに決まってるじゃない! 梓さん、どうかしちゃったの?」
「それが本当に打たれるかどうかを試してみたくって。まだ一打席余裕がある今だから、やってみたいんだけど……駄目?」
小首を傾げて少しばかり背の高い優を見上げてくる梓。ポニーテールを弾ませたその姿は妙に可愛くて、優はいささか冷静でいられなくなる。
「う、打たれても私は知らないからね!」
「ありがと! じゃ、コースの指定はよろしくね」
やたらとうれしそうな梓の声を背に、優は自分のポジションに戻った。
「あのおチビさん、今度は何をしてくるのかな?」
「私にもよくわかりません」
一美とそんな会話をしていると、梓がとある行動に出た。
そして梓が球を投げる。
一美のバットはものの見事にボールの下を空振りした。
「一美さん、これからよろしく!!」
その場にいた梓以外の全員が驚愕からいまだ覚めやらぬ中、梓の明るい声がグラウンドに響き渡った。