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一人目、二人目、三人目:鉄火お嬢が気迫を示し、ちっちゃな名投手が鮮烈デビュー、オカルト少女は絵図を描く

 入学式の翌日、森弥生は早朝に目を覚ましてしまった。

 大きく、柔らかく、暖かなベッド。天井が高く、広々として、豪華な調度品で飾られた『弥生』の――『自分』の――部屋。吉田家における乱雑な四畳半の自室や、敷きっぱなしのせんべい布団とは、何もかもが雲泥の差である。

 それなのに。

 ――落ち着かねえ。

 ちょうど六年前の四月、修平と身体が入れ替わった直後はあんなに戻りたいと願っていたこの部屋は、今ではまるっきり他人の部屋のようだ。居心地の悪さしか感じない。

 そして部屋以上に落ち着かないのが、今現在の自分の身体。

 女子としては平均的な身体のはずだが、男子に比べるとどうにも小さくて華奢で手足は細い。そのくせ胸と尻は妙にでかい。

 六年前に入れ替わった時、そしてそれからしばらくのうちは、『修平』の身体より背が高かったくらいなのに、長い歳月は『弥生』の身体をすっかり『女』に作り変えていた。

 入れ替わりによって両方の性別を経験した弥生である。男女差別的な発想に囚われるわけはない。それでも今の肉体の非力さは、元に戻れた喜びよりも、力を奪われたという理不尽な苛立ちをもたらしそうになっている。

「ま、あいつはあいつで大変なんだろうけど……」

 天井を見上げながら、弥生は昨日の修平との会話を思い返した。


 昨日、保健室から入学式後の教室へ向かいクラスメートと合流した後(二人は同じクラスで、もちろん大した怪我はしてないとわかると同時に教室中の笑いを誘った)。学校を出てから人目を避けて本屋で修平と再会した弥生は、彼を引き連れてカラオケボックスへ向かい、個室に入った。

 飲み物を持ってきた店員が出て行き扉が閉まると、弥生は立ち上がってしゃべり出す。

「おかえりなさいませ、お父様。わたくしも今日から高校生。勉学や部活動に一層励むことにいたします。お母様、お手伝いいたしますわ。弥生は女の子ですもの、これくらい当然ですわ。……いかがかしら? 修平君」

 魅惑的な笑みを浮かべつつ優雅に一礼し、修平に問いかける。

 修平は、途方に暮れた表情である。怖れのようなものもそこには混じっているようだ。

「…………弥生ちゃん……もう、すっかり元に戻っちゃったの?」

「んなわけねーだろ。演技だ演技。昔の暮らし思い出して、適当に味付けしただけさ」

 大股広げてソファに座る。すると修平は安堵したようにため息をついた。

「ちょっとだけほっとした……。弥生ちゃんが女の子らしくなって、あたしだけ男の子らしい性格に戻らなかったらどうしようって、今すっごく怖かった……」

 今朝まで自分のものだった少年の肉体が、いかにも少女めいた口調で少女めいた感慨を漏らす。弥生の趣味には合わないが、それは言っても詮ないことと我慢する。

「そこまで思わせたってことは、俺の演技力もまんざらじゃないってこったな」

「うん、ちょっと気取りすぎかもしれないけど……家の中でお父様やお母様相手に言う台詞ならそれほど違和感ないかな。でも学校じゃもう少し砕けた言い方にしないと変だよ」

「そこら辺は追々修正かけてくさ。六年前までしゃべってた言葉だ、どうにかやっていけるだろうよ」

「うん、六年前のあたしよりはずっと簡単だと思う」

「修平のお墨付きもらえれば心強いや。それで、修平。お前は今のところ無理に家で会話しなくていいからな」

「え、どうして?」

「俺、一週間ぐらい前おふくろと喧嘩したんだよ。最近のうちの親子喧嘩、半月ぐらい口きかないのが普通だから、今日話しかけたりしたら却って不審がられるぜ」

「そ、そうなんだ……でも、喧嘩の原因って何?」

「……何だったかな……部屋が散らかってるから掃除しろとか、高校入ったんだから小遣い上げろとか、予備校通えとか……それらの複合要因によるもんだな」

 弥生の答申に修平はため息。

「……つまりは深刻な問題じゃないってことね。あ、でも、お父さんは?」

「おやじはリストラ生き残った代わりに残業地獄。最近は俺が起き出す前に会社行って、俺が寝ついてから帰ってくる。けど、おふくろよりは注意した方がいいな。なかなか会わない分、逆に変化が目につくかもしれない」

「……わかったわ」

 打ち合わせは順調に進んでいったが、ある時、流れは不意に変わった。

「ところで、部活だが」

「わかってる。野球なんてやるのは六年ぶりだけど、がんばるから」

 修平が気負ったように宣言する。

 数秒の沈黙の後、弥生は言った。

「……何を言っとるんだ貴様」

「え? あたしが弥生ちゃんの代わりに野球部入るんでしょ?」

 リトルリーグから中学の野球部までの六年間、弥生は『修平』として野球をし続けてきた。最初は入れ替わりがばれないための演技のつもりだったが次第にのめり込み、今ではいっぱしの球児である。もちろんこんなアクシデントがなければ今日にも野球部に入るつもりでいた。

 対照的に『弥生』として六年間暮らすうちにすっかりおしとやかになっていった修平に向かって、弥生は言った。

「お前が今でも野球やりたかったのならもちろん止めはしねえけど……俺の代わりに野球をやるという言い草が気になるぞ」

 漫画なら頭上に疑問符を浮かべそうな顔をしていた修平は、その言葉に眉をひそめた。

「……弥生ちゃん、もしかして、その身体で野球するの?」

「して悪いか」

 弥生はソファにふんぞり返って問い返す。

「わ、悪くはないけど……あたし、中学の時はずっと文化系の部活だったし……」

「知ってるよ。でもこの身体、体育の成績はけっこういい方だろ? 道場通いもまだ続けてるんだし」

「う、うん……」

「野球はパワーだけでやるもんじゃない。そりゃ慣れるまで少し手間取るかもしれねーけど、やってやれないことはないさ」

 弥生としては既定事実を口にしただけのつもりだったが、修平は食い下がってきた。

「でも……女の子が野球部に入れるの?」

「お前いつから差別論者になったんだよ」

「そんなつもりじゃないけど、そういう風に考える人は実際にいるでしょ」

「レギュラー獲れるかどうかまではわからんが、性別理由に入部自体を断るような真似はしないだろ。仮にもキヨミズの野球部だぜ。そんな器の小さいことするかよ」

 去年の夏、部活と受験勉強の合間に観ていた国営放送の実況中継を弥生は思い出す。清水共栄のベンチには明るく闊達な雰囲気が漂い、それはとても素敵な空間に見えた。自分よりほんの二歳や三歳年上の彼らが、すごく大人の立派な人々に見えた。

 あの人たちと同じ場所に立ちたい。子供っぽい憧れではあるが、それがキヨミズを受験する大きな要因であったのは間違いない。

「でも、女の子は生理があるんだよ。だから激しい運動なんかは控えて、身体を大切にしなくちゃ……」

「んな理屈言い出したら女の運動選手はみんな間違ってるって結論になるぞ」

 答えながらも弥生は、修平が小学五年の頃から急におとなしくなっていったことを思い出す。あれはつまり、初潮を迎えて弥生の母親辺りに諭されでもしたのかと、今になって思い至った。

「でも……」

「お前さっきから『でも』『でも』ばっかりだな。俺がまどろっこしいこと大嫌いなのはお前だって知ってるだろ」

 弥生が言うと修平は困ったような顔になるが、やがて口を開くときっぱり言った。

「野球とか、そういう運動部に入るのはやめて欲しいの。『弥生』が乱暴なことすると、お母様やお父様がすごく心配しちゃうから」

「お前が言うか?!」

「あたしだから言えるの!」

 六年前に入れ替わった直後は演技ができずに散々暴れ回って弥生を嘆かせていた修平は今、弥生の叫びにそう応じた。

「あたしが六年前『お転婆』になった時、お母様もお父様もすごく気に病んじゃったの」

「森グループの社長令嬢が男子と取っ組み合いの喧嘩してちゃ外聞が悪かったからだろ。あるいは由緒正しい侯爵家の後を継ぐ一人娘にもしものことがあったら大変だ、とかさ」

 由緒正しい平民の家系である吉田家で清く貧しく成長した弥生は、近年本来の生家に対して批判的な意見を抱くようになっていた。

「それだけじゃないもん!」

 修平は頬を膨らませて憤る。『弥生』がやれば様になる可愛い仕草と台詞だが、修平の顔にはそぐわない。

「お母様もお父様も優しい人だから、試合とか競争とか戦いとかが嫌いなの。本当なら道場通いだってやめさせたいって思ってるわ」

「でも続けてるよな。爺さんの顔色窺ってるから」

 弥生の祖父・権兵衛は入り婿だ。没落傾向にあった森家を再建した立役者で、北陸の故郷に隠居した今でも、弥生の教育方針その他様々な事柄で気弱な息子夫婦に口を挟んでいる。お嬢様である弥生が修平とクラスメートになったのも、元はと言えば『小中は近所の公立校で充分』という権兵衛の発言があったからだ。

「そんな言い方よして!」

「事実は事実だろ。とにかく、俺は野球をやるぜ」

 弥生は毅然とした態度で言いはなった。

「かーちゃんととーちゃんに気を遣わせるのは済まないが、それしきのことで六年続けてきたことやめられっかよ」

 と、修平の顔色が変わった。

「……何が『それしき』よ」

 低く垂れ込めるような声は、一転して激しい雷鳴のように個室に響き渡った。

「弥生ちゃん、あたしの六年間何だと思ってるのよ!!」

 即座に反論できずにいた弥生に向かって、言葉を叩きつける。

「あたし、弥生ちゃんの代わりにあの家でがんばってきたのよ! 森家の一人娘らしく、華族令嬢にふさわしく、おしとやかに、礼儀正しく、立派なレディに見えるように!」

「ちょっと待――」

「それだけじゃないわ! 道場じゃお爺様の理想通りに強く凛々しく、学校じゃ先生たちのイメージを壊さないように真面目に、クラスのみんなの前じゃお嬢様ぶってるなんて思われないように気さくに……あたし、六年間ずっと演技してきたのよ! 入れ替わる前の弥生ちゃんらしく振る舞おうと、それだけを考えてずっと暮らしてきたのに……」

 そこで言葉に詰まり、うなだれて、さめざめと泣く。

「…………」

 一方、まくし立てられた弥生は、必死に言葉を探していた。

 自分が『吉田修平』の暮らしを心地よく感じたのと同じように、修平も『森弥生』の生活を楽しむようになり、自ら進んで変わっていった――てっきりそう思っていたのだが、どうもそれだけでもなかったらしい。

 修平の言い分は、入れ替わり当初はともかく、今の弥生とは相容れない考え方だ。しかし現在の修平にとっては、すべての発想の根底にあるような重要な信念なのだろう。

 その気持ちに対しては、こちらも真摯に答えなければならない。下手な言葉は何の足しにもならない。

 だがそんな気遣いは、次の修平の台詞の前に雲散霧消した。

「それなのに何よ! 弥生ちゃんたら自分のことしか考えないで、野球続けるだなんてくだらない駄々こねて――」

「今、何つった?」

 弥生のドスの効いた声。気配の急激な変化を感じたのか、修平が顔を上げる。

「弥生ちゃ――」

「『くだらない』? お前こそ、俺の六年間を何だと思ってんだ!!」

 言葉を選ぼうとする間に頭の中で渦巻いていた様々な思いをぶちまけるように、弥生は爆発した。

「小四から中三までの『吉田修平』としての人生も、今の俺を形作ってきたんだ。その中で野球がどんだけ大きな位置を占めてるか、お前だって知ってるだろうが!」

 リトルリーグの最後の試合。女子――田口とかいう名前だったか――の放った三遊間を破るサヨナラヒットを止められず流した涙。

 野球部を中心に世界が回っていた中学の三年間。単に野球だけでなく、バカ話に興じ、漫画やCDの貸し借りをした。生まれて初めてエロ本やエロDVDに接したのも野球部の仲間を通じてのことだった。

 そしていつも(エロ観賞時以外は)傍らで見守っていてくれた、弥生の姿の修平。

「それをたかが身体が変わったぐらいで古い学ランみたいに捨てられるかってんだ!」

「でも、身体が変わるってことは人生が変わるってことよ!」

 果敢に言い返す修平だが、その反論をすでに予想していた弥生は唇を歪めた。

「二度あることは三度あるっていうだろが。もう一回入れ替わることだってあるかもしれねーぜ。いや、もっとあるかもしれない。お前、そのたんびに自分の生き方コロコロ変えられるのか?」

「…………」

 その可能性を思い巡らせてはいなかったらしい修平は、一瞬黙る。しかしすぐに態勢を立て直して挑みかかった。

「……今の自分、今の生き方にこだわる必要があるの? 六年前、あたしは普通の男の子で、弥生ちゃんは普通の女の子だったわ。でも今じゃすっかり考え方も感じ方も身体に似合うものに変わっちゃってる」

 そして、頬を赤らめてから続けた。

「弥生ちゃんだって、生理経験すればわかるわよ。その身体は乱暴なことするのに向いてないんだって……男の子とは違うんだって」

 少女の身体と人生を受け入れるに至った葛藤の一端を垣間見せる、修平の言葉。

 しかしその反駁もまた、弥生の想定するところだった。

「そりゃいつかは俺だって変わるだろうさ。生理一回経験しただけで、あっさり野球やめる気になるかもしれない。今は演技の女言葉もいつの間にやらごくごく自然にしゃべれるようになってるかもしれない」

 そこで一旦言葉を切る。修平の顔を真正面から見つめ、言った。

「でも、今、俺は野球をしたいんだよ」

「…………」

 長い長い沈黙の後、修平は言った。

「平行線ね」


 結局その言葉を潮に二人は別れ、弥生は六年ぶりの『わが家』に帰ったのだった。

「……ほんと、今さらだよな」

 昨日の保健室で修平が言ったフレーズを思い出す。

 こんなことさえ起こらなければ、修平と大喧嘩をやらかすことなどなかった。考え方の違いなど露わになることもなく、これまで通り仲良くしながら、高校生活も楽しくスタートを切れただろう。もちろん野球部にもすんなり入部していただろうに。

 しかし時間を巻き戻すことはできない。もう一度入れ替われれば一番いいと思うが、それは六年前散々試みてついに叶わなかったことである。今回もまた、人為的には不可能と考えていいだろう。結局のところ、今の弥生にできることはほとんどない。

「ああっ、苛々する!」

 自分一人で事態の打開が図れないこんな時には、何も考えずに寝てしまうのが一番なのだ。ささくれ立った気持ちが静まり、適切な対処法が思い浮かぶことが多い。時には自然に物事の片がついている場合もある。

 しかし今、弥生がいるのは安眠もできない『自室』。修平の――『弥生』の――香りが全身を包み込み、気持ちは無駄に昂ぶるばかりである。それに今から寝直したら遅刻するかもしれないし。

 ならば、次善の策を採るしかない。

 弥生はベッドから抜け出すと、やたら巨大なクロゼットの中からジャージを探し出して着替え、部屋を出た。


「少しジョギングして来るわね」

 すでに起き出して朝食の支度などを始めている使用人たちにそう言い置くと、弥生は豪邸から飛び出した。修平の習慣ではなかったようでみんなびっくりしていたが、そこまで『弥生』らしさを装う気にはなれない。

「……って、俺が本物の弥生のはずなのに」

 自嘲しながら、弥生は適当に走り出した。

 森家と吉田家はわりと離れてて、『修平』として暮らしていた時は森家を訪れることもほとんどなかった。だからこの近辺の地理にはとんと不案内になっている。

 記憶を掘り起こし、修正しながら、弥生はゆっくりしたペースで身体を動かした。

「……やっぱり女の身体だな……」

 一歩踏み出すたびに胸が揺れる。ブラジャーの表示によると『弥生』の胸はBカップらしく、決して巨乳ではないはずだが、その振動は弥生に自分の性別が変化したことを如実に示していた。

 とは言え、走る能力自体に致命的な格差があったわけではなかった。男だった時の走力復活は無理にしても、これなら走塁や守備に著しく支障を来たすほどではない。

 それに柔軟性や俊敏さにおいて、『弥生』は『修平』と互角かそれ以上と思わせるものを持っているようであった。武道修行の賜物だろうか。

 バッティングに関しては、現時点ではまだわからない。動体視力は悪くなさそうだから選球眼に変化はないだろう。しかしパワーはさすがに比べるべくもない。

 また肩の力も落ちていそうだから、長距離の返球が必要な外野守備をこなすのは難しかろう。ピッチャーやキャッチャーの経験は元よりないから論外。内野にしてもサードやショートでは深いゴロをアウトにするために肩が要求される。かと言ってファーストは、打撃に自信があるが守備が不得手というタイプにあてがわれる可能性が高い。

「打順は八番か九番。ポジションはセカンド……こんなとこかな」

 去年、中学の野球部では三番ショートを務めた弥生である。もちろんキヨミズでも、あわよくばクリーンナップを狙っていた。しかし『弥生』の身体でそこまで望むのは無茶でしかないこともすでに自覚していた。

 だが、守備と走塁を徹底的に磨き抜き、長打は無理でも単打や四球によって出塁率を上げ、何より、チームメイトとの連繋能力を高めれば……レギュラーの座なら、あるいは。

「見てろよ、修平」

 人の生き方を真に決めるのは性別でも立場でもない。そいつ自身の意志だ。そのことをあのわからず屋に教えてやる。

 拳を握り締めた時、彼方から快調に駆けて来る少女に気がついた。

 弥生よりも十センチ以上背の低そうな、小柄な女の子だ。ポニーテールがぴょこぴょこと弾むように揺れている。走るのがよほど好きなのか、やたら明るく幸せそうな顔が印象に残った。

「おはよーございます!」

 すれ違いざまの元気な挨拶が何とも愛らしい。年下にも見えるが、明確な判断がつかないので、弥生もとりあえず敬語で返した。

「……おはようございます!」

 そう口にしたら、何だかずいぶん気が楽になった。

 自分は昨日の朝までの自分とは変わってしまったが、こうして変わらず朝のジョギングに精を出している。昨日までと同じように、道行く人に挨拶されれば返事を返す。

 大丈夫、自分は変わらずやっていける。弥生は自分に言い聞かせながら、森家へと引き返し始めた。

 そんな楽観的な気持ちが続いたのは、登校し、授業を受け、放課後を迎えて野球部部室に行くまでのことだった。


 授業初日となる今日は、退屈と評していいくらい、平穏無事に時間が流れていった。

 時間割通りに教師たちは現れるが、最初の授業ということもあり、ほとんどの場合は自己紹介と授業の進め方に関する説明だけ済ませると、チャイムが鳴る前に教室を去る。自然、余った時間は隣近所のクラスメートとの交流に費やされる。

 修平に釘を刺されていたこともあり、弥生は上品でありながらフレンドリーなお嬢様を演じることにどうにか成功していた。席の近い修平が一度もダメ出しをしなかったから、少なくとも、失敗してはいないぐらいのことは言えるだろう。

 それは修平の振る舞いについても同様。多少品が良すぎるきらいはあるが、落ち着いた男子というイメージは悪いものでもない。

 放課後になり、弥生は教室を出る。その前方を、わずかに早く出た修平が歩いていた。

 下駄箱から小さいスニーカーを出し、野球部に入部したらスパイクを買いに行かなきゃなどと考えつつ、昇降口から外へ。と、前を行く修平はグラウンドとは反対の校門方向へ向けて歩き出していた。

 弥生は背後から軽く肩を叩く。修平が驚きもせずに振り返る。

「野球部は第二グラウンド。逆方向だぜ」

 人ごみの中、聞き耳を立てている人間がいるとも思えないが、周囲に男言葉を聞き咎められないよう、小声で囁く。

「ここの部活、入部受付はいつでもやってるはずでしょ? そりゃあんまりのんびりしてたらまずいけど、三日くらいは下準備が必要だから。身体動かしてみたり、ルール再確認したり」

 修平の方は人前とあって明確な女言葉を使おうとしない。

「やっぱり、俺のふりするつもりなんだな」

「確認するまでもないんじゃない? 今の声のかけ方だって、それを前提にしてたと思うけど?」

「……まあな」

「弥生ちゃんは、もう入部?」

「ああ。一日も早く馴染まないと勝負にならねえからな」

 答えてから、弥生は質問の意味に気づく。

「修平……いいのか?」

「嫌だけど、嫌って言って従ってくれるわけもないもの。仕方ないでしょ」

 拗ねた口調で応じると、そっぽを向いた。

「ただ、喧嘩とかにならないように、本当に気をつけてよね。今の弥生ちゃんが雄々しくしても、それは全然かっこよくなくて、単に変な女って思われるだけなのよ」

「……お前も、そういう可愛い口調したって変な男としか思われないこと、忘れるなよ」

「あ……」

 修平は顔を真っ赤にする。

「ま、俺だって今の立場くらいわきまえてるさ。安心しろって」

 言って、弥生は野球部部室に向かった。


「……どういうことでしょう?」

 弥生はにこやかな笑みを崩さず、新入部員受付の席についていた野球部員に訊ね直す。しかしその顔は、ところどころが怒りのために引きつっていた。

「先輩もご存知とは思いますが、十年前から女子の高校硬式野球公式戦への参加は正式に認められるようになりました。つまり、選手として入部する権利はわたくしにもあるわけで、マネージャーを志望しなければ入部不可能などと門前払いを食わせるのは、明らかに筋違いではないかと思いますが?」

「……多いんだよな、権利権利って言えば何でも叶うと思ってる女」

 弥生の反論に辟易した風の、坊主頭の野球部員は弥生をねめつけるように見上げながらそう言った。周囲の部員のせせら笑いに力を得たか、坊主頭はさらに続けた。

「女なんかに野球ができるわけねーだろっつってんの。わがまま言って試合に出たって恥かくだけなんだからやめておけって忠告してるんだよ」

「ハッ」

 思わず、弥生は相手を鼻で笑っていた。それはもう、ハリウッド映画の中の高慢ちきな女ばりの、まさに冷笑だった。

 取り囲む部員たちが一瞬息を飲み、空気が一気に険悪になるのを肌で感じ取る。

 顔が見る見る朱に染まっていく坊主頭を見下ろしながら、弥生はさらに見下すような言葉を継いだ。

「誰が、『試合に出してくれ』と言いました? わたくしは『選手として入部したい』と言っているだけです。その後レギュラーなり代打や代走なりの座を獲得して試合に出られるか、ものにならずに三年間ベンチ入りもできずスタンドで応援する羽目になるかは、わたくしの能力次第」

 周りが変に静かになったのが却って怖い。頭の中の冷めた部分は警報を鳴らし始めているが、言葉はなかなか止まらない。

 久しぶりにしゃべる女言葉は、現実感の伴わない芝居の台詞みたいだ。『修平』だった時には思っていても口にしなかったようなことまでいくらでも口をついて出る。

「同じスタートラインに立つことを要求するのがそれほどおかしなことでしょうか? まあ、権利とわがままの区別もつかないあなたのようなおバカさんは、競争相手が増えてしまうとベンチ入りの乏しい可能性がますます乏しくなってしまうから、さぞかし怖いんでしょうけど――」

 ブンッ!

 不意に立ち上がった坊主頭が太い腕を振り回して弥生に殴りかかった。

 ある程度心の準備をしていた弥生はそれをよける。

「ベラベラベラベラやかましいんだよ、このクソ女!」

 よほど激昂したのか口の端から泡を吹きながら、坊主頭は叫んだ。立ち上がると、予想以上に背が高く筋肉もついている。当たればでかいパワーヒッターかと、弥生はその場にそぐわない見立てをした。

「ここで暴力沙汰はやめておけ、大久保。人目がある」

 少し離れた場所から声がかかる。銀縁の眼鏡をかけたなかなかハンサムな部員だ。大久保がきっと二年だから、たぶん三年生。そう言えばこの顔は、去年の甲子園でベンチ入りしていたような気もする。

 人目がなければやっていいのかと突っ込みかけた弥生だったが、眼鏡の奥の無表情な瞳を見れば、どんな回答が返ってくるかは明らかだった。

 その目が弥生に向く。冷酷とも表現できそうなその視線に、弥生は少したじろいだ。

 故障でもしたのか右の二の腕に包帯を巻いているが、粗暴さを剥き出しにした大久保よりも、この眼鏡の方が本質はよほど暴力的な存在に思われた。

「今年の一年は、男も女も口が回るのが多いようだな」

「それって俺も入ってるんすか、白石先輩」

 眼鏡を白石と呼んだのは、小柄な少年。

「……上田中の、三輪?」

 弥生のかすかな呟きを聞きつけて、少年はうれしそうに話しかけてくる。

「へえ、よく知ってるね。いかにも俺が、中学通算打率八割の三輪晃。稲葉陽介と並んで上田中を全国大会ベスト4に導いた立役者って奴?」

 半疑問形の語尾は神経を微妙に苛立たせるが、弥生を見つめる目には嘲りや侮りがなくて、むしろ好奇心に満ちている。

 弥生は中学時代、二度ほど三輪のチームと対戦していた。きれいな二塁打を打って、二塁の守備に就いていた三輪に『ナイスバッティング』と声をかけられたこともある。

 もちろん今の弥生がその時の『修平』であることなど、相手にわかるわけもない。

 六年前の入れ替わり時にすでに何度も経験していたことだが、知人に自分を自分と認識してもらえないのはやはり寂しい。

 もっともそんな感傷に耽っていられたのはほんの一瞬。

「一年坊主は引っ込んでろ」

「ういっす」

 大久保の唸るような声に、三輪もあっさり口を閉じて下がってしまう。弥生が孤立無援である状況に変化はない。

 だからと言って、こんなことで尻尾を巻くのはプライドが許さなかった。

「先ほどのわたくしの質問にはどなたからも回答をいただけていないようですが? 実力も測られずに入部を拒まれるという理不尽に黙って従えるほど、わたくしは寛容ではございませんわ」

「……なら、測ってやれば満足か?」

 白石が眼鏡の奥の目を光らせた。


 貸し出されたユニフォームは、数年前のリニューアル以前のデザインだった。用具置き場の隅で肥やしになろうとしていたそれは、身体を動かすたびにすえた臭いを発する。それでも、ブレザーにスカートのままでバットを振らされるよりはマシだと言うべきか。

 弥生の「偉そうな言葉」に合わせてやるとやらで、五十メートル走や遠投のような基礎的な項目は排除。いきなりバッターボックスで一打席勝負をすることになった。

 ここで問われるのは弥生のバッティングのみ。ゆえにボール球はノーカウントで、弥生が三振するか凡退するかヒットを打つかまで勝負は続き、前二者の場合は入部をあきらめよとの、白石からのお達し。

 選手としての適性を測るという大義名分とは裏腹に、ひどく雑なテスト方法だ。しかし見た目にわかりやすいことは間違いない。周囲を取り巻いていた野球部員や入部志望者や野球好きの野次馬はこぞってこの提案を歓迎し、弥生としても事態の打開を図るためにと一か八か賭けに出てみることにした。

 ピッチャーを務めるのは大久保。右投げのようだ。

「女のくせに左かよ」

 左バッターボックスに入った弥生を見て、さっそく嘲る。理屈にもなっていない罵倒に過ぎないので無視する。

 白石がキャッチャー。内外野の守備もきちんと七人配置。審判は三輪が買って出た。

「プレイ!」

 三輪の声とともに、大久保の巨体から速球が投げ込まれる。

 内角高めの直球を弥生は平然と見送った。

「ボール」

「手が出なかったか? 女」

「あんなクソボール、小学生でも見送りますわ。男」

「てめえ!」

 実にわかりやすいことに、次は弥生の腹部付近にボールが襲い来る。さっきのパンチと同様、弥生は軽やかによけてみせた。

 もっともそれは、狙ったものでもなかったらしい。投げた瞬間露骨に動揺していた大久保は、弥生がよけるのを見届けた後で帽子を脱ぐと、右腕の袖で汗を拭った。

「本来ならツーボールノーストライクですわね。ピッチャーの独り相撲ほどバックを苛立たせるものはございませんわよ」

「うるせえっ!」

 弥生の挑発に、大久保は面白いほど簡単に乗ってくる。もしかしたらストライクが入らないことを当人も意外と気にしているのかもしれない。

「大久保落ち着け。これは普通の試合じゃない。ボール球は何球でも投げられる」

 その時白石が立ち上がりもせずマウンドに声をかけた。大声ではないが、よく通る声である。

「そしてこのお嬢さんが手も足も出ないストライクを三回投げ込めば、それで終わりだ。間違っても軽い球を置きに来るなよ」

 弥生は内心舌打ちをする。それこそが大久保を挑発してみた狙いだったからだ。

 白石の助言はさっそく功を奏した。

 ほぼど真ん中に剛球が突き刺さる。下手に当ててもボテボテのゴロ確実の球威だ。

「ストライィィィク!」

 妙にノリノリな三輪の声が響いた。

 次の球もほぼ同じコース。同じスピード。

「ストライックツゥー!」

 白石のアドバイス一つで、大久保はいともたやすく本調子に戻ったらしい。味方にしてみればけっこうなことだが、敵の弥生としてははなはだ難儀な状況である。

「あと一球、あと一球!」

 周囲でギャラリーをしていた二年生や一年生が図に乗って騒ぎ出す。野次馬たちも尻馬に乗る。

「あと一球! あと一球!」

 それにしても、冗談抜きでやかましい。

 敵意を剥き出しにした野次が弥生の耳朶を満たす。

「女なんかが男に勝てるわけないんだよ」

 本当にこの野球部は去年の夏とは様変わりしてしまったものである。

 まるで何か、良くないものに取り憑かれたみたいだ。

「三振さんしーん」

 一瞬だけ頭に血が上りそうになった。

 弥生は、バッターボックスをいったん外すと大きく深呼吸した。

 ――孤立無援なんて、珍しくもない。

 修平と入れ替わったこの六年間。修平が隣にいない時、弥生は常に一人で事態に対処せねばならなかった。入れ替わりなんて突飛な話を誰に信じてもらえるあてもない以上、それは必然の成り行きだった。

 周囲のあらゆる人間が森弥生を吉田修平と認識している。修平として褒められ、修平として叱られ、仲の良かったクラスの女子にも吉田君と呼ばれ、たまに会えた森家の母親さえも「弥生のお友達の吉田君」として接してくる。

 自分が自分として扱われない不安と孤独。それを弥生はとてもよく知っている。

 六年前の最初の頃に――善意さえも決して素直に受け取れなかったあの頃に――比べれば、こんなのははるかに生ぬるい状況だ。

「逆風なんざ、慣れてるさ……!」

「何か言ったか」

「いいえ、何にも。お待たせしました」

「プレイ!」

 三輪の宣言とともに、大久保は投球動作に入った。

 そして襲い来る、直前の二球とまったく変わらぬ球速と球威とコースのボール。

 だが。

 ――同じ手が三度も通用されてたまるか!

 弾き返せるほどのパワーは、今の自分にはない。

 しかし、カットするくらいなら。

 弥生がバットを振ると、ボールは速度もそのままに斜め後ろのファウルグラウンドへと飛んで行った。白石が瞬時にマスクを跳ね上げて追うが、無論届かない。

 手が少し痺れる。だが悪い感触じゃない。

 次のボールも同様にカット。その次も、さらにその次も。

 一球たりとてミスが許されない。神経を使うし、全身にも疲労は蓄積されていく。それでも弥生は昂然とマウンドを睨みつけ、ボールに立ち向かった。

 五球目をカットした辺りで、大久保のピッチングが再び乱れた。

 投げた瞬間わかるようなボール球の連発。白石がもう一度声をかけても収まらない。

 二十球目を越えた頃、久しぶりにあの剛速球が来た。しかし弥生は確実にカットした。

 大久保の顔色が青ざめて見えた。

 そこからキャッチャーの捕れない球が三球続き、ついにマウンドに守備陣が集まった。

 いつしか、周囲の野次が静まっていることに、遅まきながら弥生は気づいた。

 プレイ再開後の初球は、ストライクゾーンに入れることだけを意識したような棒球。

 ――遅い!

 弥生は短く持ったバットを、コンパクトに鋭く振り抜いた。

 ライナー性の打球は、ピッチャーの頭上を楽々と越えて、セカンドとショートのど真ん中を通過し、突っ込んできたセンターの手前にぽとりと落ちた。

 センターがボールを返球しようとした時には、弥生は悠々と一塁に到達していた。

 弥生は大きく息をつくと、マウンド上で固まっている大久保を見ながら声を張り上げようとした。

「ではこれで――」

「次は守備のテストだ。まずはピッチャーからやってもらおうか」

 だがその時、白石がプロテクターを外しながら、無表情に宣告した。

 その宣言に、守備陣や野次馬が動きを止める。と、次の瞬間にはほぼ全員が白石に同調していた。

「まぐれ当たりでいい気になってんじゃねーぞ!」

「守備ができなきゃレギュラーになんかなれっこねーもんな」

「でかい口叩いたんだからピッチャーぐらいできんだろ!」

 ――ある意味、定番の展開だけどさ。

 自分たちで決めた取り決めを勝手に破って恥じないその醜さに腹は立つが、弥生に勝ち名乗りを上げる選択肢は存在しないようだ。

 と言っても、ピッチャーとは無理を言う。

「ピッチャーはしたことがありませんわ」

「能書きはいい。早く投げろ」

 右利き用と左利き用、二つのグラブを弥生の足元に投げる。やむなく弥生は右利き用のグラブを手に取った。

「フォアボールもデッドボールも振り逃げもあり。打者一巡を終えて無得点に抑えていれば、お前の勝ちだ」

 ――何だ打者一巡てのは。スリーアウトを取ればピッチャーの勝ちだろうに。

「それでもし点が入ったら、入部の件は取りやめになりますの?」

「ああ」

 わかりやすくも相変わらず弥生の側に不利なルール。しかし周囲は歓声を上げる。すでに公正の感覚もフェアプレイの精神もなく、彼らは生意気な一年女子が痛い目に遭って泣きべそをかく姿を見たくてたまらないだけなのだろう。

 魔女狩りの時や黒人をリンチにかける時もこんな風に民衆は盛り上がったのかもしれないなどと、弥生は場違いなことを考えた。

「……それで、キャッチャーはどなたが?」

 自分はバッターの一人になるらしい白石を見て、弥生は問うた。

「大久保、お前が座ってろ」

 白石はマウンドでまだ沈んだ顔をしていた大久保に命じたが、大久保は首を振った。

「俺、キャッチャーはしたことないっす」

「座ってればいいんだ。気にするな」

 あまりにひどい。

 ――例え奇跡が起きて勝てたとしても、こんな連中にこの先つきあうなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 そんなことを思った、その瞬間。

「ピッチャーのテストなら、僕に受けさせてくださーい!」

 元気な少女の声が、グラウンドに響いた。


 野次馬を掻き分けるようにして現れたのは今の弥生よりも背の低いポニーテールの女の子。中学時代のものと思しい赤いジャージに身を包んでいる。

 そのむやみに明るい顔に見覚えがあった。

「あなた、今朝の」

「君も一年生なんだね。僕は宇野梓」

 名乗りながら手を差し出されると弥生の返事は自動的に決まる。

「……森弥生」

「よろしく!」

 弥生の手を握り、ぶんぶん振り回した。梓の手は、高校生の小柄な少女のものとは思えないほど大きくて、握力も予想をはるかに上回る強さだった。

「さっきのバッティングかっこよかったよ! あれを見てたら、僕もがんばらなくちゃって気分になれたんだ!」

「昨日追い出された女が、何の用だ?」

 横でしばし呆然としていた白石が、不快感も顕わに問い質す。

「また入部申し込みに来たんです。宇野梓、ポジションはピッチャーです!」

 近くに転がっていたボールを手に取ると、梓は挑むように言った。

「弥生ちゃんが今から無理矢理受けさせられるところだったピッチャーのテスト、代わりに僕に受けさせてください」

「意味と内容を理解してないのか? 合格しなければそれっきりだぞ」

「さっきの話だと、先輩たち九人を打ち取ればいいんでしょ?」

 そして梓は、弥生が耳を疑うような台詞をさらりと言ってのけた。

「簡単です」

 その一言が、新たな燃料となった。

「なめんなチビ女!」

「そんなに泣きたいなら相手してやらあ!」

 怒号がグラウンドのあちこちから響いた。

「……こちらとしては、しつこい希望者をふるい落とせて大歓迎だ」

 白石はそう言うと、ギャラリーの中から自分以外の八人のバッターを見繕った。

「あ、キャッチャーは弥生ちゃんにやってもらいます。いいですね?」

「いいだろう。急造捕手に何ができるかは知らんが」

 弥生の意見も聞かずに、梓は白石の了解を得た。

「わたくし、あいにくキャッチャーも未経験ですわ」

「それでもいいよ。君ならわざとパスボールすることはないでしょ?」

 他の人間ならやりかねないと言っている、その判断は正しいだろう。さっきの一言で梓はこの場にいる野球部員全員を敵に回したのだから。

 ――けど、もし野手がわざとエラーしたりしたら、どうするんだろう?

「じゃ、サインは僕が出すね」

 弥生の疑問など知らぬげに、梓は右手の指をパッパッパと広げてみせた。

「一がストレート、二が縦に落ちるカーブ、三がシュートで四がスライダー、五がチェンジアップね。ストライクゾーンの中に必ず収めるから、後ろへ逸らすのだけ気をつけて」

「ちょ、ちょっと!」

 小声で打ち合わせると足早にマウンドへ上がろうとした梓を、弥生は引き止めた。

「あなた、そんなに球種がありますの?」

 それどころか、カーブなどは他にも何種類か覚えていそうな言い方だ。

「まあね。……時間はたっぷりあったから」

 弥生には意味不明な呟きを最後に残して、梓は小高いマウンドに向かった。


 派手に振り回された七人目の打者のバットはものの見事に空を切り、彼はそのまま地面に倒れ込んだ。

「……ストライク。バッターアウト」

 審判をしている三輪の、覇気のない宣告。

 最初のうちは騒いでいた野次馬も、寂として無言。

 弥生が案じていた守備陣のサボタージュによるエラーなどとは、無縁の展開。

 七人連続三振。

 県下一の名門野球部に属する二年生や三年生が、小柄な一年女子の投げる球を、当てることすらできずに次々三振していくのだ。

 ついさっき二年生ピッチャーから粘り勝ちのヒットを放った弥生でさえ、その光景には唖然とする他なかった。

 ――こんな奴が今までどこに隠れてた?

 野球がうまい女子として弥生の脳裏に思い浮かぶのは、リトルリーグで対戦した田口の他に数人。そして田口以外は全員、中学以降はソフトボールなどの野球とは異なるスポーツに進んでいる。その中に宇野梓という少女はいなかった。

 八人目は、最初からバントの構え。もはや当てることしか考えていない。

 梓は何の変哲もない右のサイドスローから球を投げる。ランナーはいないがセットポジション。そして、その投球フォームからは球種の違いをまったく判別できない。

 今回の初球は右打ちの打者の胸元へと切り込んでいくようなシュート。ぶつけられるかと恐れたバッターは慌ててのけぞるが、それは打者の近くでの曲がりが大きくキレがあるからで、ストライクゾーンはぎりぎり掠めている。まずワンストライク。

 若干腰が引けた相手をからかうように、次は外へ外へと逃げていくスライダー。これもゾーンを通過していてツーストライク。

 そして最後は、やや高めの軌道から、二球目のスライダーと似た横の変化を見せつつ下へも落ちていく、落ちるカーブ。打者は体をよろめかせて結局バットに当てられず、しかも判定はストライク。バッターアウト。

 八人連続三振。

 弥生は、ほぼ勝利を確信した。単なる目先のピッチング勝負だけでなく、自分と梓を包んでいた空気を打ち破れる手応えを感じた。

 場の空気はマウンド上の小さい少女に掌握されつつあった。新入生だから。女だから。そんな偏見は、優れた投球の前には無価値な呟きに過ぎないと、誰もが悟りつつあった。

 だが。

 風を切り裂く素振りの音が、沈黙に満たされたグラウンドの大気を震わせた。

 九人目のバッター――白石の一振り。

「球は軽い。当たれば飛ぶ。違うか?」

 昂ぶるでもなく、つまらなそうに、白石は梓に問う。

「そうですね。芯で捉えればの話ですけど」

 平然と答える梓。

「二十四球、見せてもらった」

 それが回答だと言わんばかりに、白石は左バッターボックスに立った。

「タイム!」

 弥生は審判役の三輪に告げると、マウンドに駆け寄った。慣れないプロテクターのせいでやけに動きづらい。

「宇野さん」

「何?」

「彼が只者じゃないことは、おわかりですわね?」

「そうだろうね。たぶん今は治りかけの怪我の大事を取って、部員勧誘の仕事に回ってるんじゃないかな。本来は一軍のレギュラーだと思う」

「そこまでわかってらっしゃるなら――」

「もう少し、本気で行くよ」

 弥生の言おうとしていたことを先回りするように、梓は答えた。

「ここからはノーサインで。捕球がますます大変になるとは思うけど……よろしく」

「身体を張ってでも、止めてみせますわ」

 弥生は即答した。

 梓は「できる?」とは聞かず、ただ「よろしく」と言った。それは、難しくてもやってくれという意味だ。

 たかだか二十四球を受けた関係に過ぎないが、それでもある程度は自分を信頼してくれての、梓の言葉。

 ――その心意気に応えずして何が野球選手か、ってなもんだ。

 今後の高校生活三年間のかかった理不尽な勝負のさなかにあって、弥生は総身が奮い立つのを感じていた。

「プレイ!」

 弥生がしゃがんでミットを構えると、梓は投球動作に入った。これまでと違う構え。

 上半身を横に倒して、ボールを持った右手はほとんど地面すれすれの位置。

 ――アンダースロー!

 低い低い位置から放たれた球は、投げ下ろす形のオーバースローやサイドスローとは違い、浮き上がるような軌道を描いてミットに向かってくる。弥生は辛うじて捕球した。

 その投法は白石にとっても予想外だったようだ。スピードはさほどでもなかったが、手を出さずにストライクゾーンを通過する球筋を見送った。

「ストライク!」

 間髪を入れずに二球目。再びアンダースロー。同じフォームから同じスピードで投じられるボール。

 だがその浮き上がる球は、今度はバッターの近くでスッと沈み込んだ。下手投げと相性の良い変化球、シンカーだ。

 弥生さえぼんやり予測していたくらいだ。さすがに白石も狙っていた。沈むところを叩こうと、バットは低目に振り抜かれていた。

 しかし梓のシンカーは、そのさらに下をかいくぐっていた。弥生の予想よりもはるかに低く、弥生は両膝を地面につけ、倒れ込みそうな姿勢になって何とかボールを確保した。

「ストライク、ツー!」

「タイム」

 今度は白石が間合いを取る。バッターボックスを離れ、素振りを何度となく試みる。

「……つまらん小技をいくつもいくつも……最後は何が……」

 そんな呟きを聞きながら、弥生もラストボールが何かを考えてしまう。

 フォームを変えることで目先を変えることには成功した。変化球のキレの良さで二度目も巧くかわすことができた。だが後は何が残されている?

 変化球を何種類も操る梓の巧みなピッチングには、しかし明白な弱点がある。球威に乏しいと思われる点と、スピードに恵まれない点だ。

 もとより打たせるつもりがないのだから、前者については問うまい。けれど、後者は空振りをさせる上で重要な要素――緩急をつけられないことになり、致命的だ。そこいらの高校生ならまだしも、甲子園に出るようなバッターを相手にするとなっては。

 ――まともなキャッチャーなら、それでもどうにか料理してみせるんだろうが。

 弥生は自分が無力なことを痛感させられつつも、じっとしていられずにマウンドへ再度足を運んだ。

「あの……ボールになるスローボールを投げてみては?」

「それなら四球目、普通のスピードでも多少は緩急がつくね」

 弥生の思いつくことなど梓はすでに考えていたようで、あっさりあしらわれた。

「でも、当てられて内野まで転がったら終わりだし。スローボールの方が、今は怖いよ」

 言われて、弥生は自分たちの追い込まれている状況をまだ理解しきってないことに気づかされた。内野ゴロを打たせても、それは打ち取ったことにはならないのだ。

 目を向ければ、一塁手が腕を組んで棒立ちしている。二塁手が憮然とした表情でマウンドを睨んでいる。三塁手が白石に小声で声援を送っている。

 これほどのピッチングを見せても、まだ彼らは梓を認める気にならないようだった。

「大丈夫」

 弥生から不安でも読み取ったのか、励ますように梓が言った。

「打たせないように最善の球は投げるから。二人でどうにかして野球部に入ろうね」

「……あなたと一緒にプレイできるなら、こんな部に入らなくても構わない気もしてきますわ」

「うれしいけど、野球は九人いないとできないよ」

「そりゃそうですわね」

 弥生が定位置に戻ったところで、白石の方もバッターボックスに入り直した。

「プレイ!」

 梓が足を上げる。今度は本来のサイドスロー。そして放たれるボール。

 速くもない、コーナーをぎりぎり突くわけでもない、打ってくださいと言わんばかりのボール。弥生が不安とともに待ち構える手前で、白石がスイングにかかる。

 すると。

 宙に浮いている球が、揺れた。

 水に浮く小船がちょっとした波にゆらゆらと揺れ動くごとく、空気の微細な流れに影響を受けるようにボールは不規則な変化をしながら、ストライクゾーンに飛び込んでくる。

 ――まさか、ナックル?!

 指先で弾くように投げる変化球、と言ってしまえば簡単だが、つまり投げる瞬間までは主に親指と小指でボールを保持する握りになる。中学時代、弥生のチームメイトが試しに投げようとしてポロリポロリとボールを取り落としていた姿を思い出す。半端でない握力が要求されるのだ。

 しかし効果は絶大だ。何せ投げた本人にもわからないランダムな変化。プロの一流選手でさえ芯で捉えるのが困難な変化球。

 白石も、ものの見事に空振りした。

 だが喜んでもいられない。臨時キャッチャーに過ぎない弥生にとって、ナックルの球筋は見極めるのがあまりに困難だった。

 ――でも。

 弥生は捕球をあきらめる代わりに、全身でボールの予想進路を塞いだ。

 ――後ろにだけは、逸らさない!

 プロテクターに当たってボールが地面にこぼれる。白石がバットを放り出して一塁へと走り出す。三振振り逃げだ。でもこれなら一塁に投げてアウトにできる。

 即座に拾って投げようとした時、梓の声が飛んだ。

「投げないで!」

 本来ならありえない台詞。しかし、すぐに弥生もこの勝負のルールに気づく。

 九人をアウトにする必要はない。打者一巡で点を与えなければ、梓の勝ちなのだ。

 駆け寄って来た梓と二人、ホームベースの上に立つ。一塁に到達したところで自分の言葉を思い出したらしい白石は、戸惑ったように動きを止めている。

「この勝負、宇野さんの勝ちですわね」

 弥生が言うと、白石の顔が朱に染まる。

「それともそこから無理矢理ホームを目指します? そんなみっともない真似、まさかなさらないとは思い――えっ!?」

 白石が二塁へと走った。ベースを蹴って、さらに三塁へ。

「弥生ちゃん、来るよ!」

「梓さんは下がってらして」

 手にボールを握りしめ、弥生は身構える。

 ――なめんのも大概にしやがれ。

「わたくし武道の黒帯持ってますの。暴走ランナーの一人や二人、通しやしませんわ」

 正確には、黒帯を与えられたのは『弥生』の身体の修平だったわけだが、弥生とて六年前までは道場通いしていた身である。どうにか食い止めてみせると心に決めた。

 だが白石が三塁に到達した時。

「そこまでだ、白石。それ以上の醜態を晒すな」

 低く重い声がグラウンドの彼方から発せられた。

 見れば、いつしか三塁側ファウルゾーンの一角に、ロードワークから帰って来たらしいユニフォーム姿の連中が十数人立っている。弥生たちと対戦した連中の多くとは比較にならない風格を漂わせ、聞くまでもなく野球部一軍の連中だろうと見当がついた。

 その後ろから現れたのは、年の頃は四十半ば、細く引き締まった身体をキヨミズ野球部特注のウインドブレーカーに包んでいる男。サングラスと髭のせいで表情は窺えない。

「あらましは見物人から聞いた。その勝負はお前の完敗だ」

「監督……」

「しばらく三軍で頭を冷やして来い」

「……はい」

 命じられた白石は、うなだれて、その場を去って行った。

 だが、ようやく状況が好転したかと喜びそうになった弥生に、監督は宣告した。

「練習の邪魔だ。君たちも消えてくれ。野球部に女子選手を入れるつもりはないのでな」


「……今の宇野さんのピッチングをご覧にならなかったのですか?」

 ここまで来て監督ごときにびびってもいられない。弥生は挑戦的に問い質した。

「ナックルだな。それ以前のボールも、動画に撮っていた部員にさっき見せてもらった」

 携帯電話の画面をかざしながら、落ち着いた口調で応じられる。

「他の変化球もキレはいい。サイドスローとアンダースローをうまく使い分ければ、そう簡単に打たれはしないだろう」

「なら、どうして――」

「私がこの部の監督に就任したのは、勝つためだ」

 弥生と梓を等分に見ながら、監督は話す。

「前任者の吉野先生は教育の一環として部活動を捉えていた。その考えを否定するつもりはないが、結果として昨年夏の甲子園では準優勝に終わった。ましてや昨年秋は関東大会で敗戦。どちらも学校関係者にとっては不満の残る成績だ」

 いったん唇を湿らせると、男は長広舌を続ける。

「ゆえに前監督が急病に倒れた半月前、私が四国から招聘された。この夏こそ清水共栄を甲子園で優勝させるために」

 そこまで言われて弥生は思い出した。目の前にいる男――確か真田という名だった――が、各地の高校を渡り歩き野球部を甲子園常連に仕立て上げてきた名監督であることを。

「しかしそれは、選手に通常の高校生活を犠牲にすることを強いる。単刀直入に言えば、野球以外つぶしの利かない人間を作り出すことになる」

 姿を見せて以来ほとんど変化のない、いかめしい表情のまま真田は言った。

「だから、実を結ばない花に用はない」

「少し言葉足らずですわね。『金になる実を結ばない花』でしょう?」

 相手の思考法を掴んだ気がして、弥生は口を開いた。

「それと、もう少しわかりやすくおっしゃる方がよろしいんじゃありませんかしら? そこに居並ぶドテカボチャの中には今の比喩が通じてらっしゃらないお歴々もおいでのようですし」

 弥生の台詞に居並ぶ野球部部員がざわめきそうになるが、真田の言葉が遮った。

「ならば言い換えよう。プロになれる見込みのない選手に用はない」

 場が一気に静まった。

 想像はついていたが、ストレートに言ってのけられると、思いの外弥生にも堪えた。

 昨日の修平との口論ではそこまで話題が広がらなかったが、こうして『元の身体』へと戻った今、弥生も『弥生』として将来のことを考えないわけにはいかない。

 高校野球のレギュラーくらいは『弥生』の身体でもなれるかもしれない。しかしさすがにプロは無理だと思う。野球をいずれはあきらめなければならない時は来る。

 今はこれまでと同じように野球を続けたい――そんな願いの裏には、新たに生じた不安からの逃避も含まれていたのだろう。だが見ないようにしたかった不安は、突然目の前で真田の宣告という具体的な形を取った。

 高校の三年間を、将来につながらないことに費やす。それは徒労と言わないか?

 むしろ事前の選別で不安を解消してくれる真田の態度は、一種の優しさかもしれない。

 そんな風に自分を納得させそうになり、しかし、弥生は思い直す。

 ――俺は無理でも、梓はものが違う。

 もし選別がこの部活に必要なものだと仮定したとしても、男女の性差は決して基準にならない。そんなもので、この小さな天才投手を切り捨てさせてたまるものか。

 そう思い、何とか反論しようと口を開いた横で、梓が先にしゃべった。

「プロになる気がなくて、でも甲子園で優勝したい人は、この部活にふさわしくないってことですか?」

 弥生と同様、真田にとっても予想外の質問だったらしい。絶句しているところに、梓は畳み掛ける。

「僕は将来のために野球をしてるわけじゃありません。今のために野球をしてるんです。野球しかしないで後悔する方が、野球できずに後悔するよりよっぽどマシです」

 百五十センチあるかないかの身体で、梓は真田を見上げる。だが彼女の真摯な問い掛けには、体格の差も年齢の差も感じさせない力がこもっていた。

「僕や弥生ちゃんから、競う機会まで奪わないでください!」

 気圧されていた真田が肯きそうになる。だが、まるで何かに取り憑かれたように大きく身を震わせると、結局はかぶりを振った。

「……女子は存在自体が男子の妨げになる」

「何、わけのわからないことを……!」

 激昂しそうになった弥生が前に一歩踏み出す。と、真田の背後にいた選手の一人がせせら笑った。

「男はケダモノだって言うだろ? 俺らに犯されてもいいのか、ああん?」

「黙っていろ渡辺!」

「言ってることはおんなじでしょうが。俺の方が少しばかり率直なだけですよ」

 渡辺と呼ばれた選手がおどけると、取り巻きらしい数人が追従笑いをする。その瞬間、弥生には、一軍メンバーであるはずの彼らがひどく矮小な連中に成り下がって見えた。

 梓の様子を窺えば、顔を真っ赤にして立ち尽くしている。何を言えばいいのかもわからなくなっているようだ。

 もっともそれは弥生も同じ。ここまであからさまな物言いをする輩には、プライドを刺激する手も効かないと思われる。

 その時、事態を打開し、さらに弥生には思いも寄らなかった方向へ導く人物が現れた。


「ここの野球部に入れてもらうには手詰まりっぽいね、梓」

 背後から聞こえた声に振り向くと、三つ編みに眼鏡で背の高い女子が立っていた。その隣には温和そうな顔立ちの女子。こちらは新聞部の腕章をかけている。

 周囲から「新聞部だ」というざわめきがさざ波のように立った。

「正義の新聞部様が何のご用だい? あいにく野球部の方針は監督に一任されてるからなあ。外からジンケンシンガイとかジョセイサベツだとか騒いでも効き目はないと思うぜ」

 渡辺のその言葉に、温和そうな女子が反応した。

「渡辺くーん、今年の新聞部は少し方針変更してるんですよお。やたらと喧嘩は売らないで、読者の皆さんに面白がってもらえる記事をたくさん載せるんですー」

 声もしゃべりも見た目を裏切らない、よく言えば温厚な(悪く言えばネジが一本外れたような)ものだった。

「ということでー、新聞部企画で面白いことしませんかー?」

 一瞬場が沈黙し、何となく近くにいた弥生が訊いてみた。

「……『面白いこと』とは、何でしょう?」

「男子野球部対女子野球部の試合さ」

 三つ編み眼鏡の女子が答えた。野暮ったい出で立ちとは違い、その歯切れのよい口調は彼女の鋭さを感じさせた。

「ただの練習試合じゃ面白くない。夏の甲子園大会県予選出場の権利を賭けた、校内代表決定戦ってことで、どう?」

 その問いは、射抜くような視線とともに、真田へと投げかけられた。

「女子野球部など、あったのか?」

「今から作る。エースはこの宇野梓。野手はそこの森弥生に、あたし村上美紀、他六名」

 村上美紀と名乗った女子は、梓と弥生を優雅に指し示した。

「女子の即席チームが男子と試合? 馬鹿馬鹿しい。我々にはどんなメリットがある?」

「特にないね。けど試合を拒否した場合のデメリットはけっこう大きいと思うよ。女子の挑戦に対して尻尾を巻いて逃げたって風評は避けられない」

「先ほどまでの監督さんたちと梓さんたちのやり取り、集音マイクでばっちり録音させてもらってますー。お話伺う限りでは、男子の皆さんが負けるわけなさそうですよねー」

 新聞部の女子が合いの手を入れると、渡辺の子分の一人が血相を変えて怒鳴った。

「永井! 何そんなもん勝手に録音してやがる!」

「勝手にと言われましてもー、ここはお外のグラウンドですよー? 人様に聞かれたくない内緒話がしたかったら、それにふさわしい場所があったんじゃないでしょうかー?」

 永井と呼ばれた新聞部の女子は不思議そうに小首を傾げた。

「……試合に応じなければ、さっきの会話が記事になる、ということか」

「甲子園優勝を目指す男子野球部が負けるはずのないお遊び企画につきあわないのはなぜか? 色々な角度から検討してみたくなるんじゃないかな、部長」

「そうですねー」

 村上と永井は阿吽の呼吸を見せ、真田にプレッシャーを与えていた。

「いいんじゃねーっすか、監督。そこでぶちのめせば、もうこいつらも逆らわないみたいなんすから」

 渡辺が面倒臭そうに言うと、周囲の者たちが賛同の意を表してざわつく。

「………………よかろう。時期は、六月十五日。県予選抽選の一週間前でどうだ」

「いいね。どちらが勝つにせよ、気分よく予選に乗り出せる」

「それまでに女子野球部が九人揃わなかった場合は、こちらの不戦勝だな?」

「もちろん。人数足りないのに試合しようなんて無理難題までは言わないさ」


「……何だか、急転直下って感じですわね」

「そ……そうだね」

 試合の話がまとまるとともに、弥生たちはグラウンドから叩き出された。それは、まあ当然かもしれない。彼女たちは入部希望者どころか対戦相手になってしまったのだから。

「けれどまあ、これはこれでいいですわね。わたくしはすっきりしましたわ」

 ボロボロのユニフォームから制服に着替え終わった弥生は、大きく伸びをした。

 あんな腐った連中と一緒に野球をするくらいなら、梓や見知らぬ女子たちと組んだ方がよほど気持ちよくプレーできるはずだ。

「村上さんに永井さん、でしたわね? お礼を申し上げますわ」

「いや、礼には及ばない」

「そうですよー。私の方は企画が成功すれば新聞部の評判が上がってうれしいってだけですしー、美紀ちゃんは美紀ちゃんで何か企んでいるだけでしょうからー」

 なかなか失敬な言い草だが、村上美紀は特に反論もしなかった。

「それにしても絶妙のタイミングだったね、美紀姉ちゃん」

 美紀とは知り合いらしく、梓は親しい口調で美紀に話しかけた。

「まあね。最近の野球部についてちょっと聞き回ったらよからぬ噂が色々飛び込んで来たもんで。だから永井さんを引っぱり出してみたのさ」

「梓ちゃんってお人形さんみたいにちっちゃくて可愛いですねー。ポニーテールなんか、こんなにふわふわしてますよー」

 会話していることを無視して、永井は梓の頭を撫でたり髪を弄んだりしている。

 梓が軽くため息をつくと、美紀が訊ねた。

「……野球部、まだ入りたかった?」

「ううん。あそこまで言われちゃうとさすがに引いたから、美紀姉ちゃんの提案はちょうどよかったんだけど……戦って勝てるのかなって思って。負けたら意味ないし」

「そりゃそうだね。そこはまあ、残り六人次第のところもあるけれど……キヨミズはなかなか大した学校だよ。とんでもない奴が隠れていても、不思議じゃない」

 美紀は不敵に笑ってみせた。

「ところで、村上さんは新聞部なのでしょうか?」

「いや、あたしは帰宅部。ちょいと顔が広いもんで、あちこちにコネがあるんだわ」

「……野球のご経験は?」

 弥生が訊いた時、なぜか梓が若干顔を強張らせた。

「……ぼちぼち。ま、大丈夫。本番じゃ足引っぱるような真似はしないから……たぶん」

 のっけから不安に駆られる弥生だが、すでに確保できた人材にけちをつけてる場合でもない。

「美紀姉ちゃんは、何人くらい当てがあるの?」

 永井のいじくりから逃れつつ、梓が訊ねてきた。

「三、四人ほど。普通の一年はまだよくわからんので、そこは梓と森さんにお願いしたいんだが」

「弥生で結構ですわ」

 すらりと口をついて出た。美紀は「ならあたしも美紀でいいさ」と応じた。

「じゃ、僕と弥生ちゃんで二、三人くらい見つけられればいいってこと?」

「新入生名簿、お貸ししますねー」

 学校作成のものとはとても思えないほどきれいに読みやすく印刷され、プライベートにもかなり踏み込んだ記述が満載の小冊子を、永井が手渡してくれる。野球部とのやり取りを見ていても思ったことだが、この学校の新聞部は半端じゃなさそうだ。

「私も美紀さんの挙げた候補に一人心当たりがあるのでー、これからちょっとアプローチして来ますねー。よい結果が得られたら報告いたしますー」

 にこやかに言うと、永井は去っていった。

「あたしも早速一人スカウトしに行く。たぶんすぐ食いついてくるはずなんでね」

「では……わたくしと梓さんは今日はひとまず名簿をチェックするくらいですわね。本格的な部員集めには明日から取り掛かるということで」

「がんばろうね、弥生ちゃん!」

 夕陽に照らされた梓の明るい笑顔に、弥生の顔もほころんだ。

「ええ。梓さん、美紀さん、これからよろしく」

 六年ぶりにできた女友達に、弥生は力強く微笑んだ。


 弥生が二人と別れた帰り道、修平が静かに隣にやって来た。

「こんな時間まで何してたんだ?」

「あの後気が変わって野球部の見学に行ったの。結果的には見物だったけど」

 弥生が問うと、修平は唇を尖らせた。

「なんで女子野球部ってことにしちゃったのよ。おかげであたし、裏方でしか手伝えないじゃないの」

「修平は『修平』らしく野球部へ入るんじゃなかったのか?」

「あんな根性の曲がった連中に『修平』がつきあうわけないでしょ」

「なるほど」

 修平はわざとらしく、大きく息を吐く。

「『弥生』のイメージすっかり台無し。何なのよ、あのお嬢言葉の乱発と喧嘩腰の物言いは。これで明日っから高飛車な女って評判になっちゃうわ」

「バカな振る舞いをしたのも、バカな女と思われるのも俺だ。お前が気に病むな」

 弥生が毅然と答えると、修平は恨めしそうに弥生を睨んでみせた。

「こんなことになるってわかってたら、あたしももっと好きにやるんだった」

「俺はアレがお前の好みだと思ってたんだがな」

「……!」

 言われた修平は言い返そうとして、でも自分でも思い当たる節もあるのか何も言えず、しばらく口を開けたり閉じたり。

 春の生暖かな風を浴びながら、二人は黙って歩く。

 やがてそれぞれの家へ続く分かれ道にさしかかった時、修平はぽつりと言った。

「義務感なんて重石は要らなかったってことよ。それって大きな違いでしょ?」

「そりゃそうだ」

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