トロイのチョコと核弾頭
酸素と窒素と甘い匂い。デコレーションされた空気が人々の脳を溶かしてしまったのではないだろうか。
「遅いぞ」
「ごめん。寝坊した」
「お前から呼び出しておいてなんだよ」
ハート型に変形した喫茶店で男女二人の待ち合わせ。傍から見ればカップルに見えているんだろうな。こんな日に呼び出した私の脳も溶けているとしか思えない。
「今日カップルばっかりだね」
「バレンタインだからな」
ビター色の丸い木製テーブルに座ると、目の前の男と目が合った。それがなんだか恥ずかしく思えたので、そしらぬ顔でその目をすり抜ける。
「バレンタインなのに暇なんだね」
「その言葉、そっくりそのまま返してやろうか」
周りを見渡すと、まだお昼にもならないというのに店内はピンク色に染まっていた。私達と同じく、休みを持て余した大学生だろうか。カップルたちは、コーヒーに甘いデザートを添えて楽しそうに語り合っている。
「ねえ見て見て。みんな甘いもの食べてるよ。どうせ女の子の鞄にはチョコが入ってるのに」
「まあ、バレンタインだからな」
目の前の男は、まるで興味が無さそうである。私達の周りはピンク色にはなっていない。ここだけコーティングされているのかの如く。
「あんたはもらわなかったの?」
「昨日、バイト先の女の子に何個か。義理だけどね」
「そんなの義理かどうかなんて分からないよ」
そう、チョコレートの真実は――
「チョコはオマケよ」
「なんだよそれ。バレンタインはチョコあげるのが目的だろ」
やっぱり男の子というものは、チョコをもらっただけで喜んでしまう生き物なのか。それならば私は、目の前の男に教えてあげなくてはならない。
「チョコはトロイの木馬なの」
「トロイの木馬?」
トロイの木馬――正しくはトロイアの木馬。古代ギリシアで伝説となっているトロイア戦争において用いられたとされている装置である。木で作られた巨大な木馬であるが、その中にはギリシア兵が潜んでいた。これに欺かれたトロイアは、木馬を市内へと運びこんでしまったために陥落したとされている。
「転じて、巧妙に陥れる罠のことかしら」
「そのトロイの木馬がどうしてチョコになるんだよ」
「女の子はトロイのチョコにまごこころを潜ませてるっていうこと!だからチョコは囮!罠なのよ!」
だんだんと声が大きくなる私にギョっとする目の前の男。二人で動いたために、ガタガタとなった机の上ではコーヒーが零れそうになっている。
「チョコレートに添える手紙または告白の台詞。これこそが本当の狙い!だから本当はチロルチョコ一個だっていいはずなの」
「いや、そりゃいくらなんでも寂しくないか」
やっぱりそう来たか。
「だから、チョコを魅力的にするために女の子は頑張るのよ」
徹夜でチョコを作ったり、センスあるようにラッピングしたり。どの女の子のチョコよりも可愛く可愛く目立つように。
「でも、それじゃあやっぱり義理なら義理って分かるじゃないか。手紙も告白もなかったら本命じゃないんだろ」
ああ、これだから男の子ってやつは。歯痒くて悔しくて、目の前の男をきっと睨んだ。
「思いを伝えるっていうのは、ものすごく勇気が必要なんだよ。だから手紙も書けず告白も出来ないときは、トロイのチョコに思いを忍ばせるの」
言いながら、私はしぼんだシュークリームのようになっていった。目の前の男がもらったという義理チョコも、本当は本命かもしれない。勇気がなくて義理を装い、トロイのチョコに思いを込めているかもしれない。
チョコの真実は、贈った女の子にしか分からないのである。
「そんなチョコちょっと怖いな。怨念入りっぽくて」
――何かが爆発しそうになった。女の子の気持ちを踏みにじるようなこの言葉。本命のチョコレートを渡すということは、命を投げ出すような覚悟がいるというのに……!口を開いたら泣きだしそうだったので、ぐっと堪えて押し黙った。
すると、目の前の男は溜息をつき、何を言い出すかと思えばこんな言葉を投げかけてきた。
「お前のこのデザート、ちょっとちょうだい」
あまりに空気の読めない言葉に呆気にとられる。目の前の男は、酸素と窒素とブラックコーヒーがブレンドされた空気の中にいるのだろうか。返事も聞かずに食べ始める横顔を、ただ見つめてしまった。
「お前のトロイのチョコには何が潜んでるんだ?」
目の前の男が、私から奪って食べているのはチョコレートケーキだった。
まだ状況が理解できない私に、目の前の男は続けてこう言った。
「お前、昨日夜更かししたから寝坊したんだろ。だったらカバンの中にもあるよな?今日はみんな溶けてるんだから」
そこまで聞くと、私の顔は真っ赤になった。私達を包み込んでいたコーティングは消え去り、ピンク色に彩られた甘い匂いが流れ込んでくる。
「でもトロイの木馬って本来は人間が入ってたんだろ?トロイのチョコにはお前が入ってるんじゃねえの?そりゃあ俺も陥落するわ」
今までバレンタインにはてんで興味が無さそうだった彼がいやらしく笑うのを見て、やっぱり男は馬鹿だと思った。
鞄の中のトロイのチョコが、この目の前の男が食べる瞬間に爆発することを願う。
バレンタインには少し間に合いませんでしたが、2月14日はずっとこのお話を書いていました。そんなわけでこの日には縁遠い人生を送って参りましたので、アドバイス等ありましたら教えていただけると嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました!