冷酷と噂の騎士団長様に命を救われ、溺愛されています。——ただ、彼が私を抱きしめるたび、なぜか甘い『鉄の匂い』がするのです
その夜、わたしは死ぬはずだった。
政敵の放った刺客が、月のない庭で、わたしの喉元に刃を振り上げていた。
逃げ場はなかった。
声も出なかった。
ただ、冷たい切っ先が迫るのを、他人事のように見ていた。
――間に合わない。
そう思った、次の瞬間。
黒い影が、風よりも速く割り込んだ。
鈍い音。
短い呻き。
そして、崩れ落ちる刺客の影。
何が起きたのか、わたしにはよく分からなかった。
気づけばわたしは、硬くて温かい腕の中に、すっぽりと抱きしめられていた。
「――間に合った」
低い、掠れた声だった。
「今度は。……今度は、間に合った」
その人はわたしを抱く腕を、痛いくらいに強く締めた。
まるで、少しでも力を抜いたら、わたしが消えてしまうとでもいうように。
「あ、あの……」
見上げたその顔に、わたしは息を呑んだ。
濡れ羽色の髪。
氷のような銀灰の瞳。
――知っている。
この国の誰もが恐れる、「氷の騎士団長」ヴィルヘルム・クロイツ様。
部下にも笑わず、誰にも心を開かず、敵には一片の慈悲もないと噂の、あの人。
その人が、今。
初めて会ったはずのわたしを、まるで長い長いあいだ探し続けた最愛の人みたいに、震える腕で抱きしめていた。
「もう、大丈夫だ」
彼はわたしの髪に顔を埋めて、繰り返した。
「もう大丈夫。……君は、生きている」
それから彼は、何かに急かされるように、わたしの全身を検め始めた。
首筋を、手首を、指の先までも。
たった一滴の血も見逃すまいとするみたいに、震える指で、そっと。
「怪我は。……どこも、痛くないか」
「は、はい。あなたが、助けてくださったから……」
「そうか。よかった。……本当に、よかった」
彼は深く長く息を吐き出して、もう一度、わたしを胸に抱き寄せた。
そのとき、ふわりと。
彼の体から、不思議な匂いがした。
きちんと洗い清められた、清潔な騎士の匂い。
けれど、その奥に。
ほんの微かに――甘い、鉄のような匂いが、混じっていた。
* * *
それから、わたしの毎日は、まるきり変わってしまった。
ヴィルヘルム様は自らわたしの護衛を志願し、片時もそばを離れなくなったのだ。
「氷の騎士団長が、レイエス伯爵家のご令嬢にご執心らしい」
そんな噂が、瞬く間に社交界を駆け巡った。
無理もない。
誰にも心を開かないはずのあの人が、わたしにだけは、蕩けるように甘いのだから。
「フィオナ。今日は少し顔色が悪い。無理をしていないか」
「フィオナ。寒くはないか。もう一枚、羽織ろうか」
朝も、昼も、夜も。
彼はわたしの名前を呼んでは、壊れ物みたいに、優しく気遣ってくれる。
氷だと思っていた銀灰の瞳が、わたしを見るときだけ、痛いくらいに熱を帯びるのを知っているのは、きっとわたしだけだ。
彼は、わたしを一人で歩かせることを、決してしなかった。
短い廊下を渡るだけでも、必ず隣に付き添って、わたしの歩幅に合わせてくれる。
贈り物も、絶えなかった。
けれどそれは、きらびやかな宝石よりも、護り石だとか、魔除けの刺繍だとか、そういうものばかりだった。
「肌身離さず、持っていてほしい。……お守りだ」
そう言って、彼はわたしの手に、小さな青い石のついた首飾りを握らせた。
「これがあれば、僕が離れていても、君の居場所が分かる。……何があっても、必ず、駆けつけられる」
過保護な人だと、わたしはくすぐったく笑った。
けれどその笑顔の奥で、彼がどこか必死な目をしていた理由を、わたしはうまく言葉にできなかった。
「ヴィルヘルム様は、どうしてそんなに、わたしに優しくしてくださるんですか」
あるとき、思い切って尋ねてみた。
彼は少しだけ困ったように微笑んで、わたしの頬に触れた。
「君が、生きているからだよ」
「……生きて、いるから?」
「そう。君が笑って、僕の名前を呼んでくれる。それだけで、僕は……救われるんだ」
不思議な言い方だと思った。
でも、そう言う彼の目があんまり切なそうだったから、わたしはそれ以上、訊けなくなってしまった。
――ただ一つ。
彼がわたしを抱きしめるたびに、あの匂いがした。
甘い、鉄のような匂い。
彼はいつも身綺麗で、一日に何度も手を洗っているのを、わたしは知っている。
手袋を外した彼の指先は、いつも少しだけ、赤くなっていた。
それなのに、抱きしめられると、必ずその匂いがするのだ。
「ヴィルヘルム様は、綺麗好きなんですね」
一度、何気なくそう言ったとき。
手を洗っていた彼の動きが、ほんの一瞬、止まった。
「……ああ。落としたいものが、あってね」
彼は蛇口を締めて、いつもの甘い顔で振り返った。
「でも、大丈夫。君がいてくれれば、僕はちゃんと、人でいられるから」
夜、眠りにつく前。
彼は時々、わたしの胸元に、そっと耳を寄せることがあった。
初めは、何をしているのか分からなかった。
「ヴィルヘルム様……?」
「……少しだけ。こうして、いさせてくれ」
彼は目を閉じて、じっと、わたしの鼓動に聴き入っていた。
とく、とく、と。
わたしの心臓が、ちゃんと動いていることを。
わたしが、ちゃんと生きて、ここにいることを。
何度確かめても、足りないというように。
「……動いてる」
やがて彼は、ほうっと長い息を吐いて、呟いた。
「君の心臓が、ちゃんと、動いてる」
「当たり前じゃないですか。ふふ、変なヴィルヘルム様」
わたしが笑って彼の髪を撫でると、彼は少しだけ、泣きそうな顔で目を細めた。
* * *
ヴィルヘルム様の"裏の顔"を、わたしは噂でしか知らない。
「あの方が本気で剣を抜くところは、見ないほうがいい」
騎士団の若い人たちは、口を揃えてそう言った。
「敵を一人も逃さない。……逃さなすぎる、と言ったほうが正しいかもしれん」
そんなに恐ろしい人には、とても思えなかった。
だってわたしの知る彼は、雨の日に濡れた子猫を拾ってきて、こっそり厩で世話をするような、そういう人なのだ。
――ただ、一度だけ。
夜会で、酔った貴族がわたしの手首を、強く掴んだことがあった。
その瞬間の、ヴィルヘルム様の目を、わたしは忘れられない。
すう、と。
銀灰の瞳から、いっさいの熱が引いていった。
まるで、冬の湖が一夜で凍りつくように。
彼は、何も言わなかった。
ただ、静かに一歩、前に出ただけ。
それだけで、酔った貴族は顔面を蒼白にして、逃げるように去っていった。
「……フィオナ。手を、見せて」
気づけば彼は、もう、いつもの優しい彼に戻っていた。
掴まれた手首を壊れ物みたいに両手で包んで、そこにそっと、口づける。
「痛かっただろう。……もう、大丈夫だ」
ああ、この人が恐れられているのは、こういうことなのだ、と。
わたしはそのとき、なんとなく分かった気がした。
でも、不思議と、怖いとは思わなかった。
だってその冷たさは、いつだって、わたしを守るためだけに向けられるのだから。
けれど、時々。
ほんの時々、わたしは奇妙な感覚に襲われた。
彼と歩いた月夜の庭。
ふたりで並んだ、長い廊下。
「……この景色、前にも、見たことがある気がする」
そう呟いた瞬間、首筋の古い傷跡が、ちりっと疼いた。
子どもの頃に転んでできた傷だと、ずっと思っていた、小さな傷。
「フィオナ?」
「あ……いえ。なんでもありません。ただの、気のせいですね」
わたしは笑って、首を振った。
きっと、よく似た景色を、どこかで見ただけ。
そう思うことにした。
――その夜のことだった。
暦をめくっていた彼が、ある一日のところで、石のように固まったのは。
「ヴィルヘルム様……?」
彼は、その日付を、食い入るように見つめていた。
銀灰の瞳が、暗く、深く、どこか遠くの光景を映している。
「フィオナ」
やがて彼は、縋るような声で言った。
「頼みがある。……その日は。一日、僕のそばにいてくれないか」
「もちろんです。でも、どうして」
「なんでもない」
彼はわたしの手を取って、額に押し当てた。
まるで、祈るように。
「ただ、その日だけは。君が、僕の目の届くところにいてくれないと……僕は、どうにかなってしまいそうなんだ」
その日が何の日なのか、わたしには分からなかった。
けれど、彼の手があんまり冷たく震えていたから。
わたしはただ、その大きな手を、両手で包み返すことしかできなかった。
そうして、"あの日"が、やってきた。
ヴィルヘルム様は、朝からずっと、わたしのそばを離れなかった。
騎士団の仕事も、その日ばかりは、すべて誰かに任せてしまったらしい。
彼はわたしの手を握って、庭を歩き、他愛のない話をして、ただ静かに、時間が過ぎていくのを見守っていた。
けれど、その横顔は、一日じゅう張り詰めていた。
風が吹くたび、遠くで物音がするたび、彼の肩が、びくりと跳ねる。
今この瞬間にも、恐ろしい何かが起きるとでもいうように。
「ヴィルヘルム様。今日は、本当に、どうなさったんですか」
夕暮れ時、わたしはとうとう尋ねた。
彼は答える代わりに、わたしを強く抱きしめた。
そして、日が完全に沈みきったとき。
彼は、大きく、大きく、息を吐き出した。
長い長い戦いを、たった今、生き延びたかのように。
「……終わった」
「え?」
「なんでもない。……ありがとう、フィオナ。今年も、君が、生きていてくれて」
今年も、だなんて。
やっぱり、おかしな言い方だと思った。
でも、そう言って笑う彼の目が、あんまり優しく濡れていたから。
わたしは何も訊かずに、ただ、その胸にそっと寄り添った。
* * *
彼が夜中にうなされるのを知ったのは、婚約が調ってからだった。
その夜、隣で眠っていたヴィルヘルム様が、低く、苦しげな声を漏らしていた。
「……やめろ」
汗をびっしょりとかいて、彼は誰かに向かって呻いていた。
「彼女に、触れるな……やめ、ろ……」
「ヴィルヘルム様……?」
「まだ、間に合う……まだ……!」
うなされる彼の頬を、涙が伝っていた。
こんなに強い人が、子どものように泣いている。
わたしは慌てて、彼の体を揺すった。
「ヴィルヘルム様! 起きて、わたしはここにいます!」
彼の目が、かっと見開かれた。
銀灰の瞳が、暗闇の中で、わたしを探す。
そして――わたしが、生きて、隣にいることを確かめた瞬間。
彼は、崩れ落ちるように、わたしを抱きしめた。
「……フィオナ。フィオナ、フィオナ」
何度も、何度も、わたしの名前を呼んで。
その腕の中で、あの甘い鉄の匂いが、いつもよりずっと濃く香った。
「……ここにいる。生きて、僕の腕の中に、いる」
彼はうわ言のように繰り返しながら、わたしの肩口に、顔を埋めた。
「よかった。今度は……今度こそ、間に合った」
その"今度こそ"が、何を意味するのか。
わたしには、やっぱり、分からなかった。
「ヴィルヘルム様。……ねえ、教えてください」
わたしは、彼の背中をさすりながら、小さく尋ねた。
「あなたはいつも、どうしてこんなに、鉄の匂いがするんですか」
彼の体が、びくりと震えた。
長い、長い沈黙のあと。
彼は、壊れてしまいそうな声で、笑った。
「……君には、分からなくていい」
「ヴィルヘルム様」
「僕はね、フィオナ。一度、世界で一番大切なものを、この手からこぼしてしまったことがあるんだ」
彼の腕が、わたしを抱く力を強めた。
「二度と、こぼさないと決めた。……そのために、僕は、僕でなくなってもいいと思った」
「わたし、よく分かりません」
「分からなくていい。それでいいんだ」
彼は、わたしの髪に唇を寄せて、囁いた。
「君が生きて、笑ってくれているなら。……僕はこの匂いの中でも、ずっと、構わないんだよ」
その言葉の意味は、やっぱりわたしには分からなくて。
でも、彼があんまり切なそうに震えていたから。
わたしはただ、その広い背中を、抱きしめ返した。
彼が、少しでも安心できるように。
* * *
わたしたちは、静かに式を挙げた。
「氷の騎士団長」は、その日ばかりは氷であることを忘れて、はにかむように笑っていた、と、後から侍女たちが教えてくれた。
夫婦になってから、彼のうなされる夜は、少しずつ減っていった。
うなされても、わたしが名前を呼んで抱きしめれば、彼はすぐに現実へ戻ってきてくれる。
「フィオナ」
「はい。ここにいますよ、ヴィルヘルム様」
「……ああ。君は、生きているね」
「もちろんです。ふふ、変なヴィルヘルム様」
わたしが笑うと、彼はいつも、泣きそうな顔で笑い返す。
そんな夜を、わたしは、幸せだと思う。
彼の指先が、少しずつ、赤くなくなっていったのも、その頃からだった。
一日に何度も手を洗う癖も、いつのまにか、ずいぶんと減った。
「君といると」
ある朝、彼はわたしの髪を梳きながら、ぽつりと言った。
「あの匂いが、少しだけ、遠くなる気がするんだ」
どういう意味ですか、と訊いても、彼はただ微笑むだけ。
でも、その微笑みが、出会った頃よりずっと穏やかになっていることに、わたしは気づいていた。
ある晩のこと。
眠る前に、わたしは彼の胸に頬を寄せて、ふと思ったことを口にした。
「ねえ、ヴィルヘルム様」
「どうした」
「あなたからする、この匂い」
わたしは、その甘い鉄の匂いを、そっと深く吸い込んだ。
「わたし、嫌いじゃないんです。……ううん。むしろ、大好き」
彼の体が、はっと強張るのが分かった。
「だって、これは。世界で一番、わたしを安心させてくれる匂いだから」
「……フィオナ」
「あなたに抱きしめられて、この匂いに包まれると。わたし、どんなに怖いことも、全部遠くにいってしまうんです」
見上げると、彼は。
銀灰の瞳を大きく見開いて、言葉を失っていた。
その目の縁に、みるみる涙が盛り上がって。
彼は、それをこらえるように、ぎゅっと目を閉じた。
「……ずるいな、君は」
掠れた声で、そう言って。
彼は、わたしを、痛いくらいに強く抱きしめた。
「ありがとう。……本当に、ありがとう。僕の、光」
彼の腕の中は、あたたかくて。
あの甘い鉄の匂いに包まれて、わたしはとても、幸せだった。
その匂いが、いったい何なのか。
彼が、わたしのために、どんな地獄をくぐり抜けてきたのか。
――わたしは、生涯、知らないままだった。
けれど、それでいい。
だってわたしは今も、この匂いの中で、こわいくらいに、幸せなのだから。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
今作は、甘さの奥にほんの少しの切なさを忍ばせてみました。
ヴィルヘルムがどんな地獄をくぐってフィオナのもとへ辿り着いたのか――彼女は生涯知らないまま、幸せに笑っています。どうか、そのままで。
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