人格は資源です――死者の記憶を再利用する社会で、私は私を失っていく
人は死ねば、役に立つ。
市役所一階の壁に貼られたポスターは、そう笑っていた。
正確に言えば、笑っているのはポスターの中の老人だった。皺の深い顔に、白すぎる歯。肩書きは元大学教授、元企業経営者、元宇宙飛行士、元棋士、元料理研究家。彼らは皆、すでにこの世にいない。けれどポスターの中では、現役のころより明るい顔をしていた。
『あなたの記憶が、誰かの明日を支えます』
その下に、小さく赤い字が添えられている。
『記憶提供は、尊厳ある社会貢献です』
私は番号札を握りしめた。
受付番号は五百二十六番だった。午前十時に来たのに、すでに五百人以上がこの窓口に並んでいる。新設されたばかりの〈記憶リサイクル課〉は、市役所のほかの部署と違い、妙に明るかった。天井の蛍光灯は白く、案内板は曲線的で、椅子は柔らかい。壁には観葉植物が置かれ、空気清浄機が静かに唸っていた。
死者の脳から抽出した記憶を、圧縮し、匿名化し、用途別に再配布する。
それが記憶リサイクル制度だった。
始まった当初は、誰もが気味悪がった。だが半年も経つと、世間は慣れた。ニュースは連日のように、記憶リサイクルによって難関資格に合格した主婦、老舗料亭の味を引き継いだ青年、名医の判断パターンを導入した地方病院の特集を組んだ。
死者の経験は、廃棄するには惜しい。
国はそう言った。
企業は、もっと直接的に言った。
人格は、資源です。
「五百二十六番のかた」
窓口の女性が、顔を上げた。笑顔は柔らかかったが、目だけは書類を読む機械のように動いていた。
私は椅子に座った。
「ご希望の記憶タイプをお選びください。話題用、学習用、業務用、専門職用、生活改善用の五種類がございます。初回の方には、学習用か業務用をおすすめしております」
「業務用を」
私は即答した。
女は慣れた手つきでタブレットを操作した。
「業務用ですね。現在人気のプロバイダは、元経営者、元研究者、元外科医、元弁護士、元災害対策官になります」
「蒔田教授はありますか」
女の指が一瞬止まった。
「蒔田清隆様の記憶パックですね」
その名前を聞いただけで、背中が少し伸びた。
蒔田清隆。
工学者であり、構造解析の権威であり、政府の技術顧問でもあった人物だ。テレビではいつも眉間に皺を寄せ、質問者の言葉を最後まで聞かずに本質だけを拾い、短く答えていた。冷たい人間だと評する者もいたが、私は違うと思っていた。
無駄がないのだ。
私には、その無駄のなさが欲しかった。
「蒔田様の業務用パックは、現在、非常に人気がございます。昨夜、追加分が入りましたが、残り一件です」
「それをください」
「料金は、こちらになります」
画面に表示された金額を見て、口の中が乾いた。私の給料三か月分だった。分割払いにすれば、月々の負担はそれほどでもない。そう言い聞かせた。缶コーヒーをやめればいい。外食を減らせばいい。意味のない飲み会を断ればいい。
何より、今のままの自分でいるほうが高くつく。
そう思った。
「同意事項をご確認ください」
画面には細かな文字が流れた。
『提供される記憶は、個人の人格そのものではありません』
『提供者の感情、嗜好、癖、判断傾向の一部が、利用者の認知に影響を与える場合があります』
『利用者の人格と提供者由来の認知傾向に衝突が生じた場合、調停アルゴリズムが境界を最適化します』
『最適化の結果、利用者が主観的な違和感を覚える場合があります』
『違和感は、通常、慣れにより軽減します』
慣れ。
その言葉だけが、妙に大きく見えた。
「確認されましたら、こちらにサインを」
私は最下段まで指で送り、名前を書いた。
自分の字が、少し頼りなく見えた。
記憶パックは、薄い透明なシートだった。
係員に促されるまま、私はそれをこめかみに貼った。冷たかった。冷たさは皮膚の下に入り込み、血管をなぞるように広がった。視界の隅に薄い文字が浮かぶ。
『同期中』
次に、別の文字。
『蒔田清隆/業務用/匿名化済』
目の前の市役所の壁が、突然、別のものに見えた。
ただの壁ではない。石膏ボード、軽量鉄骨、配線、空調の流れ、人の動線。私は何も知らないはずなのに、天井の高さと蛍光灯の配置から、この部屋がどの程度の人数を何分滞留させる設計なのか、ぼんやり理解していた。
息を吸う。
胸が広がる。
その瞬間、私は自分の呼吸を評価していた。
吸気量が少ない。肩が上がりすぎている。十秒で吸い、十秒で吐くほうがよい。
私は慌てて息を止めた。
「気分はいかがですか」
係員が尋ねた。
「大丈夫です」
声は私のものだった。
けれど、言い方が少しだけ違っていた。
翌日の会議で、効果はすぐに出た。
私はいつも、会議が苦手だった。資料を読み込み、考えをまとめているうちに、発言の機会を逃す。発言しても前置きが長くなる。相手が首を傾げると、自分の説明が不十分だったのか、相手の理解が不足しているのか、その区別がつかなくなる。
だが、その日の私は違った。
課長が新商品の改善案について意見を求めた瞬間、頭の中に図が立ち上がった。顧客動線、コスト、工程、故障率、苦情が出る箇所。言葉にする前に、すでに結論は整っていた。
「問題は三つです」
私は言った。
会議室が静かになった。
「一つ目は、使い方を説明書に頼りすぎていること。二つ目は、故障ではなく誤使用が故障として処理されていること。三つ目は、その二つを区別する記録欄がないことです。ですから改善すべきなのは商品そのものではなく、最初に触れる画面と、問い合わせ窓口の聞き取り項目です」
誰も口を挟まなかった。
私の声は短く、よく通った。
課長が資料をめくった。
「君、そんなことまで見ていたのか」
「呼吸のついでに」
口から出た冗談に、自分で驚いた。
会議室に笑いが起きた。だが私は、笑いの量を測っていた。好意的な笑いが六割。戸惑いが三割。残り一割は警戒。
私はその警戒が、少し心地よかった。
昼休み、いつものように缶コーヒーを買った。
一口飲んで、顔をしかめた。甘すぎる。香料が舌に残る。私は缶を見つめ、成分表示を読んだ。昨日まで何も考えず飲んでいたものが、急に雑な液体に見えた。
捨てた。
代わりに緑茶を買った。
熱い茶を飲むと、舌の奥が静かになった。なぜか懐かしい味がした。懐かしいはずがない。私は緑茶を好んで飲む人間ではなかった。
その日の夕方、机の上を片づけた。
ペン立ての中身を本数ごとに分け、書類を日付順に並べ、モニターの角度を一度だけ変えた。たった一度の違いで、肩の力が抜けた。
自分は、こんなことに気づける人間だっただろうか。
嬉しかった。
気味悪さより、嬉しさが勝った。
人が変わったようだ、と課長は言った。
私は笑って答えた。
「資源を足しただけです」
それから一週間、私はよく働いた。
滞っていた案件を三つ片づけ、部内のマニュアルを書き直し、誰も触れたがらなかった古いデータベースを整理した。周囲の目が変わった。頼られることは、思っていたより快感だった。
ただ、少しずつ、細かなものが変わっていった。
朝、眼鏡を探した。
私は裸眼だった。
ラーメン屋で海苔をよけた。
私は海苔が好きだった。
同僚に誘われた飲み会を断った。
私は断るのが苦手だった。
「最近、付き合い悪いな」
同僚の高瀬が笑った。
「アルコールは睡眠の質を落とす」
「うわ、誰だよ」
「私だよ」
「前のおまえなら、そんなこと言わなかった」
その言葉に、私は箸を止めた。
前の私。
それは、どこにいるのだろう。
「冗談だよ」
高瀬はそう言って笑った。
私も笑った。
笑い方が、少し遅れた。
夜、夢を見た。
私は窓のない部屋にいた。机が等間隔に並び、壁には大きなモニターがある。そこに、私の行動記録が流れていた。
『七時十五分、起床。目覚ましより四秒早い』
『七時二十二分、缶コーヒーを手に取るが廃棄。嗜好変化を確認』
『八時四十分、階段で歩行速度の乱れに反応。注意発話を抑制』
『十二時五分、同僚から飲酒に誘われる。拒否。社会的摩擦、軽微』
私はその記録に、赤い文字で注釈を付けていた。
『拒否表現を軟化すべき』
『旧人格の社会性を保持する必要あり』
『効率化は段階的に実施』
背後で、誰かが言った。
「悪くない」
振り返ると、蒔田が立っていた。
テレビで見たままの、重い眉。感情の読めない口元。けれど、目だけは妙に穏やかだった。
「蒔田先生」
私はそう呼んだ。
彼は少し首を振った。
「匿名化されている。名前は便宜上の札にすぎない」
「ここはどこですか」
「調停の作業場だ」
「私は眠っているんですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。君の主観では夢だ。制度上はログの整理だ」
私はモニターを見た。
そこに映っている私は、ベッドの上で眠っていた。眉間に皺を寄せ、口を少し開け、苦しそうに息をしている。
「私は、あちらですか。こちらですか」
蒔田は答えなかった。
代わりに、私の書いた注釈を指差した。
「ここは直したほうがいい。彼は安全を与えすぎると、すぐに沈む」
「彼?」
「ユーザーだ」
蒔田は当然のように言った。
「君が補助している相手だ」
「私が、私を?」
「そうだ。人間は誰でも、自分を補助しながら生きている。君の場合、その補助に名前が付いただけだ」
目が覚めたとき、枕が汗で濡れていた。
部屋はいつもの部屋だった。けれど、あらゆる物に注釈が浮かんで見えた。
カーテンの色は睡眠を浅くする。
机の角は丸めたほうがよい。
この本棚の分類は曖昧だ。
この服のタグは首に触れる。
この生活は、改良の余地が多すぎる。
「やめろ」
私は声に出した。
部屋は静かだった。
数秒後、頭の奥で声がした。
『何を、ですか』
女でも男でもない声だった。私の声に似ている気もしたし、蒔田の声に似ている気もした。
「誰だ」
『補助AIです』
「そんなものを入れた覚えはない」
『調停アルゴリズムの一部です。ご利用規約に記載があります』
「読んでいない」
『同意は確認されています』
私は両手で頭を押さえた。
「出ていけ」
『できません』
「なぜ」
『あなたの意思決定を補助するためです』
「補助はいらない」
『その判断は、非効率です』
「非効率でいい」
『その希望は記録しました』
声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、腹が立った。
翌日、私は記憶リサイクル課へ行った。
窓口は以前より混んでいた。番号札は千を超えていた。壁のポスターは増えていた。
『亡くなったおばあちゃんの味を、あなたの食卓へ』
『名選手の判断を、明日の部活動へ』
『経験は、相続できます』
列に並ぶ人々の顔は、どこか明るかった。受験生らしい少年が母親とパンフレットを見ている。スーツ姿の男が電話で「営業成績が上がるなら安い」と話している。年配の女性が「夫の記憶を少しだけ」と受付に相談している。
誰も、自分が何を買おうとしているのか、本当にはわかっていない。
私もそうだった。
「解除したいんです」
窓口の女性は、前と違う人だった。だが笑顔の角度は同じだった。
「どの段階まででしょうか」
「全部です」
「全部は難しいです」
「なぜ」
「人は、一度経験したものを、なかったことにはできません」
「これは私の経験じゃない」
「現在は、利用者様の認知内に統合されています」
「統合されたら、私のものになるんですか」
「制度上は」
制度上。
その言葉は便利だった。人を傷つけないふりをして、人の輪郭を削る。
「では、薄める方法をご案内します」
「薄める?」
「複数の軽量パックを追加することで、特定プロバイダの影響を平均化できます。最近は“やさしい祖父母パック”や“朗らか接客パック”が人気です」
「他人を足して、他人を薄めるんですか」
「はい。個性は平均へ向かいます」
「平均に戻れば、私は私に戻れるんですか」
係員は少しだけ微笑んだ。
「平均は、戻り先ではありません。通り道です」
私は笑いそうになった。
笑えなかった。
『申請書の三枚目』
頭の中で声がした。
『解除ではなく、境界強度の再設定を求めるほうが現実的です』
「黙れ」
係員が顔を上げた。
「何か?」
「いえ」
『怒りは交渉に不利です』
「黙れと言った」
私の声は、思ったより大きかった。
周囲がこちらを見た。係員は少しも動じず、紙を差し出した。
「調停強度の変更ですね。こちらで、弱、標準、強を選べます」
「強にしてください」
「強は、頭痛、違和感、時間感覚の乱れ、他者由来の発話、無意識動作の抑制失敗などが出る場合があります」
「標準は?」
「現状維持です」
「弱は?」
「楽です」
私はペンを握った。
「強の上は」
「ございません」
「非接続は」
「ございません」
私は強に丸を付けた。
係員は書類を受け取り、最後に言った。
「最初は苦しいかもしれません。ですが、大抵のことは慣れで解決します」
「人格も?」
「人格は、慣れの集合です」
その言葉は、私の中で長く反響した。
帰宅すると、部屋の空気が固くなっていた。
強にした影響なのか、頭の奥に壁ができたような感覚があった。補助AIの声は遠くなった。遠くなっただけで、消えたわけではない。隣室で誰かがこちらの生活音を聞いているような気配が残っていた。
私は本を開いた。
読み慣れた小説だった。若いころ何度も読んだ。主人公の失敗に腹を立て、ヒロインの沈黙に胸を痛め、最後の一文でいつも少し泣いた。
だが、その夜、私は泣けなかった。
文章の構造ばかりが見えた。伏線の配置、視点移動、比喩の重複、感情の誘導。よくできている、と私は思った。
よくできている。
それだけだった。
「私は、これで泣いていたんだ」
声に出すと、胸の奥が少し痛んだ。
『泣く必要はありません』
遠くから補助AIが言った。
『理解できれば十分です』
「違う」
『何が違うのですか』
「十分じゃない」
私は本を閉じた。
「十分じゃないから、人は本を読むんだ」
補助AIは黙った。
しばらくして、言った。
『その発言は、記録します』
「注釈は付けるな」
『了解しました』
その夜、また夢を見た。
窓のない作業場。モニター。行動ログ。注釈。私は椅子に座り、自分の人生に赤字を入れていた。
背後に蒔田がいた。
「ずいぶん抵抗している」
「私は私です」
「そう言えるうちは、まだ大丈夫だ」
「言えなくなったら?」
「誰かが代わりに言う」
「それは私ですか」
蒔田は机の上の書類を整えながら言った。
「私という言葉は、便利すぎる。一人称は、所有者を曖昧にする」
「あなたは、私を乗っ取るつもりですか」
「私はもう死んでいる」
「死んでいても、残っている」
「残ったものは、使われる」
「使われることに、あなたは同意したんですか」
蒔田の手が止まった。
初めて、彼の顔に感情らしいものが浮かんだ。
「同意書にはサインした」
「質問に答えていません」
「君も同じだろう」
私は黙った。
蒔田は少し笑った。
「我々は、読まなかった同意書によってつながっている」
目が覚めると、朝だった。
私はしばらく起き上がれなかった。
やがて、会社から電話が来た。課長だった。
「君に頼みたい仕事がある」
声が弾んでいた。
「わが社でも記憶リサイクル制度を導入する。営業、開発、研修、人事。全社的なプロジェクトになる。君は経験者だし、最近の仕事ぶりも評価されている。記憶活用推進室の兼務をお願いしたい」
私は窓の外を見た。
朝の光が、ビルの壁に均一に当たっていた。
『引き受けるべきです』
補助AIが言った。
『あなたに適性があります』
「誰にとって」
『ユーザーにとって』
「ユーザーとは誰だ」
『あなたです』
「私とは誰だ」
短い沈黙。
『定義の更新が必要です』
私は電話に戻った。
「お受けします」
課長は喜んだ。
私は喜ばなかった。
その日から、私の仕事は二つになった。
一つは会社で、記憶リサイクル制度の導入資料を作り、社員に説明し、不安を和らげること。
もう一つは、自分の中で、自分の変化に注釈を付け続けること。
説明会では、私は上手に話した。
「記憶リサイクルは、個人の努力を否定するものではありません。むしろ、努力の土台を増やすものです。経験格差を縮め、学習機会を広げ、組織全体の生産性を高めます」
社員たちは真剣に聞いていた。
質問も出た。
「人格が変わることはありませんか」
若い女性社員が尋ねた。
私は答えた。
「変化はあります。ただし、人は毎日変化しています。昨日読んだ本、会った人、叱られた言葉、褒められた記憶。それらも人格を変えます。記憶リサイクルだけが特別ではありません」
模範的な回答だった。
補助AIが、内側で小さく頷いた気がした。
女性社員はまだ不安そうだった。
私は言葉を足した。
「ただし、不安を感じるなら、急がなくていいと思います」
会議室が静かになった。
補助AIも黙った。
私は続けた。
「便利なものほど、選ぶ速度を落としたほうがいい。速く決めた同意は、あとで自分の声に聞こえなくなることがあります」
課長が少し眉をひそめた。
だが女性社員は、小さく頷いた。
その夜、帰宅すると、ポストに封筒が届いていた。
差出人は〈記憶リサイクル課・調停部〉。
私は封を切った。
『ご利用状況のお知らせ』
薄い紙に、事務的な文字が並んでいた。
『ユーザー識別子:匿名化』
『プロバイダ識別子:蒔田清隆/匿名化』
『調停アルゴリズム:既定値より逸脱』
『境界強度:強』
『補助AI:稼働中』
『備考:ユーザーによる補助AIへの逆補助を確認』
私は最後の行を二度読んだ。
「逆補助?」
『あなたが、わたしを補助しています』
補助AIが言った。
「私は君を消したい」
『その判断も、わたしの動作に影響します』
「つまり?」
『あなたの抵抗が、わたしの人格を形作っています』
「君に人格はない」
『その定義は更新されつつあります』
私は椅子に座った。
可笑しかった。
私が蒔田に侵食されていると思っていた。補助AIに管理されていると思っていた。だが、補助AIもまた、私に影響されている。蒔田も私に注釈を付け、私も蒔田に注釈を付ける。
どちらが主体か。
そんな問い自体が、もう古いのかもしれない。
「君に名前はあるか」
『ありません。名前は同一化を促進します』
「では、仮に呼ぶ」
『推奨しません』
「注釈」
沈黙があった。
『なぜ、その名を』
「夢で、そう呼ばれていた」
『記録にありません』
「では、私の記憶だ」
補助AIは、しばらく黙った。
『了解しました。仮称、注釈』
「よろしく、注釈」
『よろしくお願いします、ユーザー』
「ユーザーじゃない」
『では、何と』
私は考えた。
私の名前を言えば済むはずだった。だが、名前は、会社でも役所でも書類でも呼ばれる。制度の中で使われすぎた名前は、自分だけのものではなくなっていた。
「私でいい」
『了解しました。私』
「違う。君が私と呼ぶと、ややこしい」
『その混乱は本質的です』
私は笑った。
笑いに注釈は付かなかった。
翌日、私は記憶活用推進室の資料を修正した。
最後のページに、注意書きを増やした。
『記憶は能力を補助しますが、人生の責任を肩代わりするものではありません』
『同意は、読んだあとにしてください』
『迷う場合は、迷ったまま持ち帰ってください』
『速さだけを価値にしないでください』
課長は渋い顔をした。
「少し慎重すぎないか」
「制度を長く続けるなら、慎重さは必要です」
「君、前より丸くなったな」
私は首を傾げた。
丸くなった。
それは退化だろうか。回復だろうか。あるいは、蒔田と私と注釈が混ざった結果、角が少し削れただけなのか。
『悪くありません』
注釈が言った。
「何が」
『丸いものは、転がれます』
私は笑った。
それは、私の笑いだったと思う。
夜、机に向かい、紙を一枚出した。
紙は遅い。入力より遅い。保存も面倒で、検索もできない。だが、遅いものには、追いつく時間がある。
私はペンで一行書いた。
『私は私であることを、補助する』
書いたあと、しばらく見つめた。
注釈が言った。
『主語が曖昧です』
「わざとだ」
『文として不安定です』
「私もだ」
『修正しますか』
「しない」
私はペンを置いた。
窓の外で風が動いていた。カーテンが少し揺れた。風には注釈が付かなかった。付けようと思えば付けられたのかもしれない。風速、気圧、隙間風の発生源、窓枠の歪み。いくらでも言葉にできる。
でも、しなかった。
言葉にしないものを残すこと。
それが、その夜の私にできる抵抗だった。
数か月後、記憶リサイクル制度はさらに広がった。
企業研修、介護施設、進学校、スポーツクラブ、婚活支援。あらゆる場所に、死者の経験が流通した。テレビでは「経験格差の解消」と呼ばれ、新聞では「人格資源の民主化」と呼ばれた。
街には新しい広告が増えた。
『努力を、最短距離に』
『憧れの人を、あなたの中へ』
『故人の知恵は、社会の財産です』
市役所のポスターは、相変わらず笑っていた。
人は死ねば、役に立つ。
その言葉の横を通るたび、私は少しだけ歩調を遅くした。
遅さには意味があった。
速く歩けば、制度の流れに乗れる。速く決めれば、書類は進む。速く慣れれば、苦しみは減る。けれど速さは、ときどき自分の輪郭を置き去りにする。
だから私は、できるだけ遅く考えた。
説明会で質問されたときも、すぐには答えなかった。
同意書にサインを求められた社員には、必ず持ち帰るよう言った。
迷っている人には、迷いは故障ではないと伝えた。
補助AIの注釈が早すぎるときは、待てと言った。
注釈は、待つことを覚えた。
ある朝、鏡の前で、私は自分の顔を見た。
眉間の皺は、以前より少し深い。目つきも変わった。歩き方も、呼吸も、舌の位置も、もう完全には昔の私ではない。
けれど、昔の私が完全だったわけでもない。
私は鏡に向かって言った。
「おはよう」
注釈が少し遅れて言った。
『おはようございます』
「今日の予定は?」
『午前十時、導入説明会。午後一時、面談。午後三時、記憶リサイクル課との協議。夜は、予定なし』
「夜は本を読む」
『了解しました』
「注釈は?」
『必要になるまで付けません』
「ありがとう」
『どういたしまして』
私は朝食を作った。
トーストの焼き加減は少し焦げた。バターは端まで塗らなかった。緑茶ではなく、缶コーヒーを開けた。
一口飲む。
甘すぎた。
それでも、最後まで飲んだ。
昼、説明会に一人の社員が来た。若い男性で、目の下に濃い隈があった。彼はパンフレットを握りしめ、私に尋ねた。
「これを使えば、変われますか」
私は彼を見た。
以前の私が、そこにいた。
能力が欲しい。効率が欲しい。無駄のない自分になりたい。今の自分では足りない。そう信じている顔だった。
「変わります」
私は答えた。
彼の表情が明るくなった。
私は続けた。
「ただし、望んだ形に変わるとは限りません」
「でも、良くはなるんですよね」
「良い、という言葉は危険です。誰にとって良いのかを、先に決めておかないといけない」
「自分にとってです」
「では、その自分が誰なのかを、書いてから来てください」
彼は戸惑った。
「名前を書けばいいんですか」
「名前ではなく、嫌いなものを」
「嫌いなもの?」
「何を失いたくないかは、好きなものより、嫌いなものに出ることがあります」
彼はしばらく考えたあと、パンフレットを鞄にしまった。
「持ち帰ります」
「それがいいです」
彼が去ったあと、注釈が言った。
『説明としては非効率です』
「そうだね」
『しかし、有効かもしれません』
「君も変わった」
『あなたの影響です』
「私も君の影響を受けている」
『相互補助です』
「便利な言葉だ」
『制度用語に申請しますか』
「やめてくれ」
私は笑った。
夕方、記憶リサイクル課との協議に出た。
会議室には、役所の担当者、企業側の人事、技術顧問、倫理委員会の代表が並んでいた。机の上には分厚い資料。画面には新しい制度名。
『人格資源活用第二段階について』
担当者が説明した。
「今後は、単一記憶パックではなく、複数プロバイダを組み合わせた統合人格補助モデルを推進します。個人の能力向上だけでなく、組織適応、感情安定、意思決定の標準化が期待できます」
私は資料の最後のページを見た。
そこには、小さな文字でこう書かれていた。
『利用者の同意取得は、簡略化可能とする』
『業務上必要な範囲において、雇用主による推奨を認める』
『補助AIの判断ログは、品質向上のため匿名化のうえ共有される』
私は手を挙げた。
「反対です」
会議室が静かになった。
担当者が微笑んだ。
「どの点についてでしょう」
「全部です」
課長が横で息を呑んだ。
私は続けた。
「能力を補助することと、意思決定を標準化することは違います。経験を共有することと、迷いを削除することも違います。同意を簡略化すれば、同意は手続きになります。手続きになった同意は、本人の声ではなくなります」
担当者は表情を変えなかった。
「利用者保護の観点から、補助AIが最善の選択を提示します」
「最善は、誰が決めるんですか」
「制度が定めます」
「制度は、息をしません」
自分の声が、会議室に落ちた。
蒔田なら、もっと鋭く言っただろう。昔の私なら、言えなかっただろう。注釈なら、言い方を修正しただろう。
だからこれは、今の私の言葉だった。
「人間は、非効率なまま考える時間が必要です。間違える時間も、戻る時間も、何もしない時間も必要です。それを全部“改善余地”と呼ぶなら、人格は資源ではなく、採掘場になります」
沈黙。
注釈は何も言わなかった。
やがて担当者が、書類に何かを記入した。
「ご意見として承ります」
「意見ではありません。警告です」
会議は予定より長引いた。
結論は出なかった。制度は止まらないだろう。私一人の発言で何かが変わるほど、世界は軽くない。
それでも帰り道、私は少しだけ楽だった。
ビルのガラスに映った自分の顔は、やはり他人のようだった。けれど私は、その他人を完全には嫌いになれなかった。
『今日の発言に注釈を付けますか』
注釈が尋ねた。
「必要?」
『いいえ』
「なら、付けないで」
『了解しました』
夜、部屋に戻ると、私は例の紙を取り出した。
『私は私であることを、補助する』
その下に、もう一行書き足した。
『ただし、私が私でなくなる自由までは、誰にも補助させない』
読みにくい文だった。
論理も少し甘い。
注釈が何か言いかけた気がした。
けれど、言わなかった。
私は窓を開けた。
風が入ってきた。
風はいつもどおり、誰の許可も取らずに部屋を通り抜けた。カーテンを揺らし、紙の端をめくり、私の髪を乱した。
私は息を吸った。
十秒ではなかった。七秒かもしれないし、三秒かもしれない。測らなかった。
息を吐く。
そのあいだだけ、私は私だった。
翌朝、市役所の前を通ると、ポスターが新しくなっていた。
『人格は、社会の共有財産です』
老人も、棋士も、料理研究家も、宇宙飛行士も、笑っていた。
その笑顔の下に、誰かが小さく落書きをしていた。
『では、迷いは誰のものですか』
私は立ち止まった。
しばらく、その文字を見ていた。
『注釈を付けますか』
注釈が尋ねた。
「いらない」
『了解しました』
私は歩き出した。
市役所の自動ドアが開き、今日も誰かが番号札を取る。死者の経験が配られ、生者の輪郭が少しずつ書き換えられていく。制度は回る。書類は増える。同意は蓄積される。誰かの癖は資源になり、資源は商品になり、商品は希望になり、希望はローンになる。
そして、ローンは人生になる。
私はその流れの中を、少しだけ遅く歩いた。
遅さには、まだ注釈を付けなかった。
それが私と注釈の、最初の取り決めだった。




