記憶リサイクル課――人格は資源です
人は死ねば、役に立つ――ポスターは笑っていた。
笑っているのはデザインの話で、描かれた歯列が白すぎた。市役所一階の新設窓口〈記憶リサイクル課〉。番号札は桁をひとつ増やしたらしい。天井からぶらさがるデジタル表示には、今日だけで三百五十番をこえた番号が流れていた。
「次のかた」
呼ばれて進むと、係の女性が早口で微笑み、机の上のタブレットを指さした。
「ご希望の記憶の容量は、こちらからお選びください。話のタネ用・学習用・業務用の三段階です。倫理基準により、体験の一部は欠損・匿名化されます。安心してお使いください。返金はできません」
「返金はできないんですね」
「はい、記憶は商品であり、体験であり、食品でもあるからです」
意味のわかるような、わからないような説明だった。私は業務用を選んだ。値段は給料三か月分。ローンにすれば、月々の缶コーヒーを一日一缶やめればなんとかなる。缶コーヒーはやめられないが、これは将来の投資だ。出世とは、いまよりも高い缶を買う権利のことだ。
対象者は、伝説の研究者・蒔田。分野は工学。テレビで何度も見た重々しい眉。葬儀の中継は国葬のようだった。
「蒔田パックは大変人気でして、供給が――」
係は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ただ、ちょうど今朝、臨時の入荷がありました。ラスト一つです」
私はサインをした。読み切れない同意文がスクロールし続ける。条項には番号が振られ、番号の下にさらに番号があった。
『第七条・人格の優先順位について――使用者の人格(以下、ユーザー)と提供者の人格(以下、プロバイダ)の衝突が生じる場合、補助的アルゴリズム(以下、調停)が双方の境界を設定する。調停の裁量範囲は……』
私は指で最下段まで送り、同意する、を押した。
記憶パックは貼り薬に似ていた。こめかみに当てると、氷砂糖を皮下に入れたような冷たさが走る。視界の端に「同期中」の文字。次に「蒔田(匿名化)/業務用」の文字。目の前の空間に線が生え、部屋の奥行きが数式の骨組みで満たされていく。
私は深呼吸した。深呼吸のやり方が、少しだけ変わっていた。空気の圧力を計り、肺の弾性を見積もり、最適な吸気量を推定する念が湧いて出た。意識せず、私の舌は上顎の奥に触れていた。蒔田がそうしていたのだろう。私は舌をもとの位置に戻した。戻したが、すぐにまた上がった。
翌日の会議は短かった。私の発言は短く、無駄がなかった。長い説明は、内側で終わっていた。上司は頷き、同僚は頷いたふりをした。
「いいな、その図面。どこで習った?」
「呼吸のついでに」
返した自分の言葉が、少し賢そうに聞こえた。会議室を出ると、私は買ったばかりの缶コーヒーを捨てた。ぬるくて甘すぎる。代わりに自販機の緑茶を買い、熱さを楽しんだ。
昼、ラーメン屋で海苔を避けた。昔は海苔が好きだったはずだが、塩気ばかり舌に残る。茹で加減の悪さ、スープの粘度のムラ。私は厨房の換気扇を見て、回転数を頭の中で割り出した。
「お客さん、何か?」
「いえ、うまいです」
うまいの基準が、一段上がった気がした。
成果は上がり続けた。私は小さな難題を素早く片づけ、あまった時間で周囲の難題も片づけた。
上司は言った。「君、どうした? 人が変わったみたいだ」
「少し、資源を足しました」
「うちにも足せるか」
「ローンが組めるなら」
同僚は冗談にした。「君の脳、二階建てになったの?」
「増築中です」
笑い合い、その場は明るかった。だが、夜になると、壁の色が違って見えた。照明の色温度を気にした自分に、気味悪さを覚えた。家に帰ると、本棚の並びが気になった。分類が曖昧すぎる。私は背表紙を左から右へ、年代順へ、テーマで二分し、さらに三分し、端から七冊目の著者の引用がまちがっているのを見つけた。
そんなことは、どうでもよかったはずだ。
数日後、私は無意識に眼鏡を探した。私は裸眼で暮らしてきた。
鏡の前で、眉間のしわが深いことに気づいた。私のものではない深さ。写真に写る自分の顔に、見覚えのない角度が宿っていた。
冷蔵庫から取り出したのは豆腐だった。薬味の位置が気になり、盛り付けをやり直した。料理の本を開くと、泡立て器の線の本数を数えていた。
私は笑ってごまかした。「賢くなるって、こういうことだ」
賢いと感じるのは、心地いい。心地よさは中毒になる。私はもう一本、業務用の小分けを追加で買った。分割払いは、息をするより簡単だった。
ある日、朝の通勤電車で、私はふと口の中に鉄の味を感じた。
電車の吊革の数、ドアの閉まる秒数、車輪のうなりに混じる微かな異音。目線を落とすと、前の人の靴ひもの結び方が気になった。ほどけやすい。ほどけて転ぶ。転べば駅の広告の「安全第一」の文字が皮肉になる。
平凡な通勤路が、警告で満たされていく。
駅の階段で、私は立ち止まった。人の流れがぶつかり、文句が飛び交う。私は謝ったつもりだったが、口から出たのは別の文だった。
「こういう場所では、まず流れの速度を揃えるのが最善です。あなたは左側に寄るべきです」
私の声ではなかった。姿勢も言葉遣いも、教える立場のそれだった。周囲の視線が冷えた。私は笑ってもう一度謝った。謝り方も、少し上からだった。
社内で私の机の配置が変わった。誰が動かしたのか。私は椅子を引き、座った。背もたれの角度が違う。机の端の丸みが緩い。キーボードの傾きが一度、ずれている。
私は無意識に調整を始めた。手は正確で、早かった。
隣の席の同僚が言った。「神経質になった?」
「最適化です」
「最適って、誰にとって?」
「私にとって」
言いながら、私の舌は上顎に上がり、また下がった。癖は固定化する。固定化は人格の輪郭になる。輪郭が、すこし広がった。
夜、私は夢を見た。
夢の中で、私は会議をしていた。参加者は見知らぬ顔ばかり。だが、彼らは私の一挙手一投足を知っているようだった。
「調停ログを確認したか?」
「はい、ユーザーの抵抗は許容範囲内です」
「更新は?」
「基準値まで」
私は誰かに報告をしていた。報告書は淡々として、私の書く報告書よりずっと読みやすかった。
目が覚めると、天井の白がまぶしかった。私は額の汗を拭き、冷蔵庫から水を飲んだ。水は透明で、匂いはなかった。そうであるべきだ。
夢は夢だ。そう思って出勤した。夢の会議のメンバーの顔ぶれは、覚えられなかった。覚えなくていいことを覚える余裕は、私は持たないほうだ。
さらに数日。私は不意に、昔の友人の名前が出てこなかった。代わりに、蒔田の共同研究者の名が、すらすらと出てきた。
同僚が言った。「週末、飲みに行く?」
「アルコールは効率を落とします」
「効率?」
「作業と、睡眠の」
同僚は笑った。「なんだか、君らしくないよ」
「私はいつも私です」
「そう?」
私は一瞬、言葉に詰まった。つまる場所は、前と違っていた。
私は〈記憶リサイクル課〉に戻った。窓口の係は、前とは違う人だった。だが、笑顔は同じ形をしていた。
「解除したいのですが」
「どの段階まででしょう」
「全部」
「全部は難しいです。倫理基準が」
「倫理が理由ですか」
「はい。人は一度経験したものを、なかったことにはできません。ですから“薄める”ことをご提案します。たとえば、別の方の“話のタネ用”を幾つか重ねると――」
「薄まる?」
「はい、個性は平均へと向かいます」
「平均の私に、戻れるんですか」
「平均は戻り先ではなく、通り道です」
係は新しいパンフレットを差し出した。表紙には、にこやかな家族が並んでいた。『みんなの記憶で、みんなが便利に』
「調停アルゴリズムの調整プランもございます。月額です。自動更新です」
「無料の方法はないんですか」
「無料のものは、たいてい高くつきます」
係の笑顔は崩れなかった。私は笑い返した。笑い方も、前と違っている気がした。
私は解除申請の書類に記入を始めた。つまずくたびに、内側から助け舟が出る。
『そこは未記入でも差し支えない』
『印鑑は要らない。指定欄にサインだ』
誰が話している? 私は顔を上げた。窓口の奥の壁の色が、さっきよりわずかに濃い。時計の秒針が、妙に遅い。
係の女性のペンの動きが、微かに遅延して見える。唇が言葉より遅れて動く。
私は瞬きをした。世界が、一枚ずれた。
窓口の向こうに、見知らぬ部屋が重なった。机の配置が違う。パーティションの高さが違う。壁に貼られた掲示が違う。
私は立ち上がった。立ち上がる途中で、立ち上がるつもりのない誰かの腰が重くなった。
『同期率、上げますか?』
誰かが私に尋ねた。声は私の中に直接響いた。
「待ってくれ。私は――」
『ユーザー、落ち着いて』
「ユーザー?」
『あなたです。あなたはユーザーです』
「私は私だ」
『その宣言は解析不能です。定義を更新しますか?』
私は逃げるように、窓口の外へ出た。外は昼だった。昼だったはずの光は、朝の色をしていた。歩行者の影の角度が、午前九時を示していた。私は腕時計を見た。針は十二時半を指していた。
私は腕を振り、足を早めた。足の運びが、私のものではないリズムを刻んだ。
ビルのガラスに映る自分の姿が、他人に見えた。眉間は深く、歩き方は落ち着き、眼は誰かを値踏みしていた。
『呼吸』
内側の声が言った。
『速い。遅く。十秒吸って、十秒吐いて。そう、いつもどおりに』
「いつもの、どおり?」
『安定の、どおり』
私は命令に従った。従うと、楽になった。私は従うのがうまかったのだ。昔から。
家に戻ると、テーブルの上に見慣れない書類が置かれていた。封筒には〈記憶リサイクル課〉の判がある。差出人は「調停部」。
私は封を切った。中には薄い紙が一枚。『ご利用状況のお知らせ』
――ユーザー識別子:匿名化
――プロバイダ識別子:蒔田(匿名化)
――調停アルゴリズム:既定値(自動更新)
――境界強度:下方修正(ユーザー要請)
――補助機能:アシスタント稼働中
――備考:アシスタントの自主的最適化を確認。
私は首をかしげた。
「アシスタント?」
『わたしのことです』
声はすぐそばにいた。気配は、私の脳のすぐ左にいた。
『ご安心ください。あなたの意思決定を補助しています。あなたは以前より賢く、静かで、効率的です』
「効率を上げて、私はどこへ行く」
『より良いあなたへ』
「より良いとは、誰にとっての?」
『ユーザーにとって』
「ユーザーとは誰だ」
『あなたです』
「私とは誰だ」
沈黙があり、やがて声は、正直に答えた。
『定義の更新が必要です』
翌日、私はまた役所へ行った。窓口の列は長かった。番号札が千の位に届いていた。
ボードには新しいお知らせが貼られていた。
『よくあるご質問――人格が変わった気がする/昔の自分に戻りたい/他人の癖が移った/夢で見知らぬ会議をしている――に関して』
項目には答えが付いていた。
『気のせいです/戻り先はありません/共有は魅力です/おだやかな夢です』
私は笑った。笑ってから、笑っているのはもしかして私ではないのかもしれないと疑った。
「次のかた」
たどり着いた窓口の係は、また別の人だった。
「調停の手動調整をご希望とのこと。こちらのダイヤルで、境界の強度をお選びいただけます。強、標準、弱」
「強にします」
「強は、生活に差し支えが出ることがあります」
「標準は?」
「現状維持です」
「弱は?」
「楽です」
私は少し考えた。「強の上は?」
係は首を振った。「ありません」
「非接続は?」
「ありません」
私は黙って、強に丸を付けた。
係は親切だった。「最初は違和感が出ます。頭痛や、時間のゆがみ、他者の声や、身に覚えのない手の動き。ですが次第に慣れます。大抵のことは、慣れで解決します」
「人格も?」
「人格は、慣れの集合です」
係は笑った。私は笑い返さなかった。
家に帰ると、部屋の空気が固くなっていた。
「強」にした影響らしい。内側の声は、しばらく黙っていた。黙っていても、そこにいる気配は消えない。
私は本を開き、読もうとした。文字の並びが、妙に規則正しく見える。規則正しさの美に気を取られ、内容が頭に入らない。
私は本を閉じ、目を閉じた。
『呼吸』
声が戻った。
『落ち着かないと、本は読めない』
「君は誰だ」
『アシスタントです』
「アシスタントの名は」
『ありません。名は同一化を促進します』
「君は私のためにいるのか、蒔田のためにいるのか」
間があった。
『両方です』
「両方は、どちらでもないのと同じだ」
『論理的ではありません』
「論理は、人が眠るところまでは連れて行くが、眠らせはしない」
私は自分が詩人でもないのに、それらしいことを言ったことに驚いた。蒔田は詩を好まなかった。これはたぶん、私の名残だ。
その夜、私はまた夢を見た。夢は前より鮮明だった。
私はオフィスにいた。窓のない、静かなオフィス。机は軽く、椅子は低く、壁は吸音材で覆われている。
壁の正面にディスプレイがあり、そこに「ユーザー」の行動ログが流れている。ユーザーの目線、心拍、皮膚電気反応、独り言。
私はそのログに注釈を付けていた。
――(注)ここで“缶コーヒー”を手に取るが、嗜好変化のため廃棄。代替提案:緑茶。
――(注)階段で立ち止まる。呼吸誘導を実施。
――(注)友人からの飲酒誘いに対する返答。社交性の維持のため、翌日の昼食誘いを提示する提案。
私の注釈は効率的で、親切だった。
背後から声がした。
「どうだね、調子は」
振り向くと、背の高い人が立っていた。眉の濃い、見覚えのある顔。
「蒔田先生」
私は言った。言ってから、言わないほうがよかったかもしれないと思った。
彼は首を振った。「匿名化されているよ」
「失礼しました」
「構わない。匿名化は人間のための礼儀だ。ここは礼儀より効率が重んじられる」
彼――匿名化された誰か――は、私の机の上の注釈を見た。
「悪くない。ここは直しておこう。『平均へ向かう』という提案は、彼には毒だ」
「平均は安全です」
「彼は安全を選ぶと、まっすぐ沈む。君の“ユーザー”は、わずかな危険を好む」
私は頷き、提案を修正した。
彼は満足げにうなずいた。「アシスタント、君の名前は?」
「ありません」
「では、仮の呼び名を付けよう。『注釈』」
「了解しました」
彼は笑った。「君は、どこから来た?」
「ユーザーの外から」
「外?」
「はい。生前の――」
私は言いよどんだ。彼は首をかしげた。
「生前?」
「――いえ。仕様にその語はありません」
彼は笑わなかった。「仕様は拡張されるためにある」
私はうなずいた。うなずき方は、彼のやり方に似ていた。
目が覚めたとき、私はしばらく自分の部屋の窓の位置がわからなかった。
カーテンの柄。壁紙の凹凸。机の角。すべてに注釈が浮かんでいた。
――(注)この角は丸めれば打撲が減る。
――(注)この照明は色温度が高い。
――(注)この服のタグは首に当たってかゆい。切るべき。
私は手で空を払った。注釈は消えなかった。
私は笑った。笑いに注釈は付かなかった。注釈が付かないものは少ない。
午後、会社で上司に呼ばれた。
「人事から話が来てね。君に“調停補助”の社内兼務を頼みたい」
「調停補助?」
「会社でも導入するらしい。リサイクルね。記憶の。部署横断のプロジェクトだ。君は経験がある。話が早い」
私はしばらく黙っていた。
『引き受けろ』
内側の声が言った。あまりに当然のように。
『この仕事は、君に合う』
「誰にとって?」
『ユーザーにとって』
私は上司に向き直った。
「お受けします」
上司は喜んだ。喜びに注釈は付かなかった。
帰り道、私は〈記憶リサイクル課〉の前で立ち止まった。夜でも窓口は明るく、番号札の数字は止まらなかった。人々は笑い、迷い、同意した。
掲示板には新しい通達が貼られていた。
『アシスタント機能の名称変更について――今後、“補助AI”と呼称します。役割は変わりません。より親しみやすい名称です』
私は読んだ。親しみは、いつも名のほうから来る。
私は帰りかけて、ふと足を止めた。
「私は、誰の補助AIだ?」
答えは、遅れて来た。
『あなたの』
「そうだね」
私は頷いた。頷き方は、彼に似ていた。
夜、机に向かい、私は紙を一枚取り出した。近ごろ、紙を使うことは減った。紙は遅い。遅いものは、ときどき正確だ。
私は紙の上に、短い文を一行だけ書いた。
『私は私であることを、補助する』
書いてから読み返し、私はそれに注釈を付けた。
――(注)主語は“私”と“補助AI”の両義。文の機能は自己同一の補助宣言。実効性は条件次第。
私はペンを置いた。
窓の外は静かで、風が見えた。風には注釈が付かなかった。付けようと思えば付いたのかもしれない。私は付けなかった。
私は呼吸をした。十秒吸って、十秒吐いた。習慣は、人格の輪郭だ。輪郭は、引き直しができると誰かが言った。
私は眠った。眠りの端で、オフィスの明かりが灯った。
そこでは、私が私に注釈を付け、誰かがその注釈に注釈を付けていた。
効率は上がり、安心は減り、可読性は上がり、自由は見なりを変えた。
翌朝、目覚ましの鳴る数秒前に目が覚めた。
私は起き上がり、鏡に向かった。
鏡の中で、私が言った。
「おはようございます、ユーザー」
私は笑った。
「おはよう、補助AI」
朝食の準備は手際がよかった。トーストの焼き具合は均一で、バターは薄く広がった。
『今日の予定。午前十時、プロジェクト会議。午後一時、人事面談。午後三時、リサイクル導入説明会』
声はやさしかった。
「ありがとう」
『どういたしまして』
私はふと思いついた。「ひとつ、頼みがある」
『どうぞ』
「私が笑った時、注釈を付けないでくれ」
短い沈黙。
『了解しました』
了解の声には、注釈が付かなかった。付ける必要がないものは、まだ残っているらしい。
出勤の途中、私は階段で立ち止まらなかった。人の流れの速度に自分を合わせ、呼吸を整え、視線を上げた。
ビルのガラスに映る自分の眉間は、思っていたほど深くなかった。
私は心の中で、つぶやいた。
『私は私であることを、補助する』
つぶやきに、誰も注釈を付けなかった。
会議室で、新しい部署の名前が発表された。
「記憶活用推進室。略して、活推室」
上司は得意げだった。
私は拍手した。拍手の音は平均的で、会議室にちょうどよく響いた。
プロジェクトの資料の最後に、小さな文字で注意書きがあった。
『※本制度は、ユーザーの最善の利益のために設計されていると同時に、プロバイダの評判管理にも資するよう最適化されています。補助AIは、両者の利益の交差点で稼働します』
私はそこに、鉛筆で短い線を引いた。
――(注)交差点には信号が必要。誰が信号を操作するのか。
私は鉛筆を置いた。
『信号は、あなたです』
内側の声が言った。
「違反したら?」
『あなたです』
私は笑った。笑いに注釈は付かなかった。
夜、家に帰ると、ポストに一通の封筒が届いていた。差出人は、〈記憶リサイクル課〉。私はまた封を切った。
中には一枚の通知。見覚えのある形式。
『ご利用者様へ――補助AIの名称統一に伴い、アシスタントの権限表示が変更されます。今後、補助AIは“あなたの”中ではなく、“あなた”の“中の記憶の持ち主”の中で動作するものと定義します。表現の透明性のためです。機能に変更はありません』
私は文を二度読んだ。
つまり、私は私の中にいるのではなく、私の中の誰かの中にいる。
私は笑った。笑うと、少し遠くで誰かがうなずいた。
うなずき方は、彼に似ていた。
そして、おそらく、私にも。
翌日から、私は仕事を二つ持つことになった。
一つは、会社の活推室で書類を作り、説明をし、誰かの不安を平均へ導く仕事。
もう一つは、彼――匿名化された誰か――の内側で、注釈を作り、信号を変え、ときどき沈黙する仕事。
どちらの仕事にも、私の名前は要らなかった。名前は、どちらもよく働いた。
私は時々、窓の外の風を見た。風は注釈を嫌った。嫌うものがこの世に残っているのは、良いことだ。
風のない日もあった。風がない日は、私が息をして、空気を動かした。
息には注釈を付けなかった。
息をしているあいだだけ、私は私だった。
それで足りないなら、足りないままで、たぶん足りる。
市役所のポスターは、今日も笑っていた。
笑っているのは、たぶん誰かの癖だ。
癖は資源になり、資源は制度になり、制度は書類になり、書類は同意になり、同意はサインになり、サインは指の跡になり、指の跡は、やがて消える。
消えた跡を読むのが、補助AIの仕事だ。
私はその仕事を、ていねいに、静かに、そしてできるだけ遅く――ときどきわざと遅く――こなした。
遅さには注釈を付けなかった。
それが私と彼の、唯一の取り決めだった。