恋人
それから俺たちは、他のカップルみたいにデートや泊まりがけの旅行など一切しなかったが、俺たちなりのペースで穏やかな幸せな時間を過ごした。
「直哉」
俺が高校を卒業するあたりから、彼女は俺のことを呼び捨てで呼んでくるようになった。
「ん?」
最初出会った時のあどけなさが残る顔立ちから、約2年で彼女の顔は1人の女性として大人びた凛々しい顔立ちに変わっていった。不意に髪の毛を耳にかける仕草、ふわっと香る彼女独特の匂い。そして、出会った当初から変わらない満開の花が咲くような笑顔。
相変わらず身体の線は細いままだったが、俺は栞と会うたび毎回ドキドキしっぱなしで。なんだか悔しい。
「今日は調子がイイみたいなの。外へ行きたいな」
「分かった。看護師に聞いて大丈夫そうなら先生に許可を貰ってくるな」
「うん、お願いします」
こうやって彼女自身が調子いいと判断したら、俺は彼女の担当である看護師を通して主治医に外出の許可を貰いに行き、病院の外にある大きな公園に出掛け遊歩道を散歩する。2人でのんびりと話しながら散歩するデートは、俺にとって大切な時間だ。
✳︎
「楽しかった?」
「うん、楽しかった! 連れていってくれてありがとう」
無事に許可が降り、1時間程度公園へ出かけた後。彼女の病室に戻り、面会時間ギリギリまで俺たちはまた2人だけの時間を過ごした。
――そんな些細な幸せが崩れるのはあっという間にやってくる。
ある日、大学で眠たい講義を受けていた時、携帯がメールを受信する音が聴こえてきた。少量のサウンドに設定してあるので、そこまで周りには迷惑掛けていない、はず。
何だろうと思いつつ、教授に見つからないようにこっそりと携帯を開く。受信相手は彼女のお母さんからだった。その名前を見た瞬間、嫌な予感がして急に動悸が激しくなる。
急いでメールの内容を確認すれば、栞の容体が急変したことと、もしものことを考えて可能ならば今すぐ来てほしいとのことだった。俺は、講義中だったけれど、今の俺にとってそんなことどうでも良くて、席から立ち上がり彼女のもとへ急いで向かう。嘘をつくことに少しだけ罪悪感を覚えながらも、教授には手短に調子を崩したので今日はもう帰りますと伝え大学を後にした。
栞! 栞!! 栞!!!!
心の中で彼女の名を語りかけるように何度も繰り返し呼びながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
栞、と名前を呼べばいつだって嬉しそうに笑顔を向けてくれたこと。映画館には行けなかったけれど、病室で寄り添いながら携帯の小さな画面越しで少女漫画原作の実写化映画を一緒に観たこと。外の公園を歩きながら見掛ける周りの植物で季節を感じたこと。そんな優しい思い出ばかりの日々。
まだ、逝くなっ! 俺はもっと栞と一緒の時間を過ごしたい!
どうか彼女が無事でありますように、と強く願いながら、病室のドアを乱暴に開けつつ彼女がいるベッドへ目を向ける。開けたドアから見える限り、栞は静かに寝ている様子だ。すぐに彼女のお母さんを探し、ベッドの近くで腰掛けている姿を見つけると彼女の安否について尋ねた。
「おばさん! 栞の容体は……!?」
「直哉君! 来てくれたのね。今は落ち着いているみたいなの。けれど、さっきまで一刻を争うような状態だったわ。今日は大学があるはずなのに、呼び出してごめんなさい」
彼女のお母さんの目元は、うっすらだったが赤く腫れている。恐らく、さっきまで泣いていたのだろう。つまり、本当に栞は危ない状態だったのだ。
「大学のことは気にしないで下さい。栞のほうが優先ですから」
「ありがとう。……少し飲み物を買ってくるわ。直哉君は栞のそばにいてあげてちょうだい」
「もちろん、今日はずっとそばにいるつもりです」
ベッドまで近付いて、栞が穏やかに呼吸をして寝ている様子からも今は無事だということが分かり、胸を撫で下ろす。安心したせいかは分からないが、走ってきたこともあって足に力が入らず、近くにあった椅子へ勢いよく座った。
そして、その日を境に彼女の死は刻々と近づいてくる。




