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出会い

 大学1年の夏、初めて人を好きになった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 幼少の頃から世の中が嫌いだった。大学受験には成功した。家庭に不満は無かった。友達は優しかった。ただ理由もなく、漠然と死にたいと思っていた。その日は7月の中頃で、今年1番の暑さだったと記憶している。ニュース番組ではしきりに熱中症への警戒が叫ばれ、すれ違う人々は皆うだるような暑さに耐えかねていた。僕はというと、いつもと同じように、サークルの飲み会に参加していた。いつもの飲み屋に入り、いつも通り端の席に座り、いつも通り生ビールを流し込んだ。珍しくビールを美味しいと思った。「暑い日のビールは美味いんだな」などと感心していると。見知らぬ女性が向かいの席に座った。


「渡辺さんじゃないっすか!」


と先輩たちは歓迎していた。聞けば4年生の先輩で、漸く就職活動が終わったのだという。正直に言えば、その時は特に関心を持たなかった。自分たち1年と4年は殆ど接点もなく、今後も関わることなど無いだろうと考えていた。その人もまた1年に興味など無いようで、こちらに一瞥もくれることなく3年の先輩達と親しげに会話を始めた。ただ、線の細い人だなと、そう思った。




 大学生の男女が酒を飲めば自然と恋愛の話題になるもので、誰々が付き合っただの、芸能人の誰がタイプだの、そんな話がそこらで飛び交っていた。斜向かいの席に座っていた先輩が、不意に話を振ってきた。


「吉田はどんな子がタイプなん」

「自分すか、あー…」


内心辟易していた。他人の女の趣味がそんなに気になるのだろうか。ふと向かいの女性を見てしまった。身長は170cmはあるだろうか。細い手で顎を支え、切れ長の目をこちらに向けていた。一瞬だけ目が合った、と思う。とっさに目線をそらした。

「同い年くらいで、小動物系っすね」

などと心にもない返答を口にした。危うくロリコンの称号を授かるところだったが、それだけは何とか回避した。多分回避できたと思う。

 



 その後は特段アクシデントもなく、他愛もない会話が続いた。3杯目のレモンサワーを飲み干したところで、お開きとなった。その日も友人を駅まで見送ったところまでは良かった。見知った背中が雑踏に飲み込まれていった瞬間、唐突に虚しさに襲われた。理由は分からない。とにかく、飲み会の後はいつもこうなのだ。自宅アパートへの15分の道のりが億劫で帰る気になれず、喫煙所へ向かった。覚えたてのウィンストンの1ミリに火を付けたとき、不意に横から話しかけられた。


「吸うんだ、タバコ」


驚いて振り向くと、先ほどまで向かいの席に座っていた顔がそこにあった。返す言葉が見つからず、軽く頭を下げた。


「君、何年生だっけ」

「えと、その…1年です」

「だめじゃん」


彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「火、もらっていい」

と尋ねる彼女に、ライターを差し出した。


「渡辺さんも吸われるんですね」


珍しい、と言おうとして、咄嗟に口を噤んだ。アルコールに浸された脳にも最低限のデリカシーは残っていた。


「珍しいでしょ」


彼女は笑った。いや、とか、そんな、とか、どもったような返事しかできなかった。未成年の喫煙がばれた上に、内心を見透かされたような気分になり、気まずさに耐えかね下を向いた。


「君はさ、なんでタバコなんか吸ってんの」


急に痛いところを突かれた。男がタバコを吸い始める理由なんて、格好つけたい以外にないだろうに。どうしてこれ以上恥をかかせるのだろうかと、そう思った。


「別に理由とかは…なんとなくっすよ」

「ふ~ん」


ああ、やっぱりだと、直感的に感じた。結局見透かされているのだと。お願いだからその全てを見透かすような目をやめてくれと願った。


「渡辺さんはどうして吸い始めたんですか」


この時はちょっとした意趣返しのつもりだった。どうせ彼女だって同じだろうと、同じであってくれと。


「私はね、世の中が嫌いなんだ」

「え、」


彼女の横顔を見つめた。


「だからさ、早く死にたいからタバコを吸ってるんだ」


そう言って微笑む彼女は本当にすぐに死んでしまいそうで、僕は何と言っていいかわからなかった。


「痛いでしょ」


と彼女はまた笑った。ああ、この人はこうやって自分を笑って茶化すのが癖なのだ。


「…そんなことないですよ、自分も同じですから」


彼女は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐにさっきの微笑みに戻った。


「君、ちょっと面白いね」


僕はまだ、この感情が何なのか知らなかった。




 その後、彼女に半ば無理やり連れていかれるように別の居酒屋へ向かった。女性と二人きりで酒を飲むなんて経験は当然初めてのことで、何を話したかはよく覚えていない。ただ、あの目だけが、脳裏に鮮明に焼き付いている。とにかく、面白い話の一つもできなければ、財布も出させてもらえなかった。それにしても、緊張しながら飲む酒は本当に体に毒だ。情けないことに限界を超えてしまった僕は、気がつけば彼女のアパートのベランダで倒れていた。


「おー、おはよう」

「ここは…」

「ん、私んち」


彼女はタバコを咥えながら、大丈夫かと尋ねてきた。全く大丈夫ではなかったが、大丈夫だと返した。一度眠ったことで多少思考が晴れたようだ。少しだけ状況が整理できるとともに、途方もない恥ずかしさに襲われた。


「すいません、こんな」

「いいから、シャワー浴びといで」


せめて僕の愚を叱るか、そうでなくとも笑いものにしてくれればまだマシだった。どうしてこの人はそんなに優しい微笑みを向けるのだろうか。それが僕をどれだけ傷つけるか分からないのだろうか。自分の惨めさに涙が込み上げてきた。




 全身に水を浴びたことで、少し気分が回復したようだ。同時に理性も回復し、初対面の女性のシャワーを借りているという事実にどうしようもなく動揺した。僕は急いで浴室を出た。決して見ようとしたわけではない。が、それでも無造作に放り投げられた彼女の下着が目に飛び込んできた。自分の顔がみるみるうちに赤くなるのが分かった。すぐに目をそらし、借りたタオルで顔の水滴を乱雑に拭き取った。知らない柔軟剤の匂いだった。僕はもう耐えられそうになかった。


「シャワーありがとうございました!これ以上は迷惑になるので、その、」


何とか平静を装ったつもりだった。傍から見れば明らかに動揺していたと思う。彼女はまた優しく微笑んだ。


「帰る前にさ、一服していきなよ」


僕はもう彼女に逆らえるはずがなかった。




 二人ベランダに並び、タバコを咥えた。緊張のあまりライターの火を灯すことにさえ手間取っている僕を見て、彼女はやっと声を出して笑った。


「なに今更動揺してんのよ、もしかして童貞くん?」


分かっていた。分かっていたが、この人はなんてデリカシーが無いのだろうか。僕の尊厳を何だと思っているのだろうか。きっと今僕はみっともなく赤面しているのだろう。気まずい沈黙が肯定を意味していた。


「こっち向いて」


恐る恐る彼女の方を見ると、あの微笑みが迫ってきた。タバコを挟んだままの右手が僕の頬を支える。彼女の唇が僕の口を塞ぐ。煙を直に流し込まれる。目が回るのは、頭がクラクラするのは、酒のせいか、彼女の重いタバコのせいか、それとも。

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