終
雲をも貫くかのような、レンガ造りの煙突の向こう。
そこには、''森''が住んでいると、街の人々は噂する。
''それ''はこの世のものと思えない美しさで、そして冷酷なものであると。
「ねえねえ!あのお爺さんの話聞きに行こうよ!」
生成のワンピースを着た女の子が、友達を誘って街の小道を駆けて行く。
地平線の近くには、青い空に大きな積乱雲がどっしり構えている。
「お爺さん?」
麦わら帽子の友達は不思議そうな顔をしたが、すぐにぱっと顔を輝かせた。
「あの車椅子のお爺さんね!確か、お花の絵を描くのがとっても上手なんでしょう?」
「それだけじゃないの!''森''に会ったことあるって噂よ。」
女の子の三つ編みが跳ねる。
「''森''...?''それって、街の端っこにあるずーっと雨の降ってるところ?」
「そうよ!そこに行ったことあるのはここに住んでるお爺さんだけなの。」
厚い木の扉を開けると、扉についていた小さなベルがチリンチリンと涼やかな音を奏でる。メイドがスカートを持ち上げて挨拶するように、レースのカーテンが優美に揺れる。
中では、薄い色の木のロッキングチェアに座ったお爺さんがスケッチブックを広げていた。くせっ毛で波打った赤髪が顔をあげる動きに合わせて揺れる。宝石のような緑の瞳の目元には皺が刻まれ、2人の小さな来客を見つけて微笑んだ時、その皺は一層深くなった。とろけるような笑顔であった。
「こんな可愛いお客さんが来るのはいつぶりだろう。」
「こんにちはお爺さん!」
「こんにちは!」
女の子達は、お爺さんに駆け寄って、彼の手元のスケッチブックをのぞき込んだ。
そこには、色とりどりの花の絵が並んでいた。
「素敵!」
「ねえもっと見ていい?」
「いいとも、ほら。」
お爺さんは、持っていたスケッチブックを女の子達に渡した。女の子達は夢中になってスケッチブックをめくる。
「これはバラでしょう?それからこれはタンポポ!」
「このパンジーも素敵。これは...」
「スノードロップ。『雪の小さなベル』っていう意味だよ。」
「なんて可愛い名前!」
女の子達は更にページをめくる。
すると、途中から植物の絵の中にウサギやリスが紛れ込んできた。それから、おおきな木、キノコ、小鳥...
「このウサギさん可愛い!」
「本当!」
お爺さんは笑った。
「そうだろう?それは僕が若かった頃に描いたものなんだけどね。」
女の子達はまたページをめくる。
ひときわ大きな木が、スケッチブック一面に描かれていた。それから、小さな白い花、薄桃色の花がポツポツと描かれてある。
それから―
「お爺さん、この女の子は誰?」
緑の髪の毛に、緑の瞳の少女の横顔。
スケッチブックに溶け込んで消えてしまいそうなほど薄く色が塗ってあった。
しかし、その笑顔は光を放って見えるほど美しい。
女の子達はその少女の絵に見とれた。
「それはね、''森''さんだよ。...そうだ、君たち、僕の代わりにお使いを頼まれてくれないかい?」
「チチチ、''森''さん、お届けものだよ。」
''森''はずっとうずくまって泣いていた。
そのせいで森には長い間分厚い雲がかかっていたが、木々は日光も浴びないのに不思議と枯れてはいなかった。しかし地面はぬかるみ、とても動物は歩けない。
小鳥は、大きな葉っぱに包まれた何かを運んできた。大木―とまではいかないが、今の森の中では一番大きい木にとまる。羽についた水気を丁寧に落とし、包みを開いた。
『これ...は...。』
中に入っていたのは、一冊のスケッチブックだった。
そこには、見覚えのあるタッチで美しい植物が描き出されている。
キノコやウサギ、リス、小鳥。
それから、少女の横顔。
''森''は涙を流した。今までのような、瞼を痛々しく腫らすような涙ではない。
そして笑った。笑うなんて、何年ぶりだろう。
『緑の精霊へ
愛をこめて ヨルク』
「ヨルクさーん、郵便だよ。」
「はい、はい。」
「ヨルクさんの誕生日って今日だった?」
「え?いいえ?」
「あれ、じゃあ間違えたかな...見てくれよこの花束!」
郵便屋は両手に溢れんばかりの向日葵を抱えていた。
お爺さんは大きく目を見開く。
それから、向日葵の葉に下手な文字で何か書いてあるのを見つけた。
『しんあいなる しょくぶつ けんきゅう か へ。』
「おっかしいな、ここに届けてくれって女の子が来たんだけど...。」
困り顔の郵便屋に、お爺さんは笑って言った。
「いいや、合っているよ。それは僕の一番の特別な人からの最高のプレゼントさ。...いや、人じゃないかもしれないけど。」
それからちょっと後、街では、端っこの森では雨がやんで、奥には黄金に輝く向日葵畑が広がっていると専らの噂になっていた。
誰が流した噂か分からないが、黄金に輝くっていうのは嘘なんじゃあないかな。だってあの向日葵の種をあげたのはただの植物研究家志望の貧乏な青年だったんだもの。