ソロと結晶の町1
山と森の黒い輪郭に囲まれる森の中。時が止まった様に張った湖の水を、小さな小屋から漏れる暖色の光が淡く照らしていた。
「せん……せぃ……」
切羽詰まったような声が聞こえると、ベッドに横になり片手では収まり切らない厚さの本を広げながら幼女は「ん?」と生返事をした。
「聞いてますかぁ……、先生ぃ」
辛そうな声がもう一度幼女を呼びかけると、幼女は「あー、聞いとる聞いとる」と先程と同じ口調で、
天井に設置された細いパイプ状の棒に片手でぶら下がっている少女に返す。
少女の下には、空間魔法で作りだされた窪みが設けられ、そこには3匹ほどのスライムが、つぶらな瞳で上を見つめていた。
以前、武闘家の師匠段を習得する際に着ていたブカブカのズボンに、紺に近い黒シャツ。
もしここを知らぬ者が見たとすれば、武闘の道を目指している少年が自宅修行に精進しているように見えることは間違いないだろう。
汗のかいた白い腕をプルプルと震わせながら、ソロは目をそっと開き、自身の足下を見た。
スライム。
一度は克服できたと思っていたが、それは甘い考えだった。
ツヤツヤとした光を反射する体を見ると、冷やされた蒟蒻のようなあの最悪の触感が脳から体に電気のように駆け巡る。
長時間のぶら下がりで血は腕に昇り、もはや落下までは間もなくだった。
「せ、先生……も、もう限界です。これ、本当に勇者の力を呼び覚ます修行になってるんですかぁ……」
ソロがいよいよ弱音を吐き始めると、幼女はポンと本を閉じ、起き上がりこぼしのように胡坐をかいて体を起こした。
「あぁ、なっとるわい。体力、忍耐力共に向上してる気がするじゃろ?」
「まっ、待ってください……。気がするって……うわぁ?!」
派手な尻もちをついた音が小屋中に振動と共に響き渡ると、その後を追うように盛大な悲鳴が上がった。
絶叫絶句して、ようやくソロは荒い息を立て這い上がると、床にくっつくように倒れた。
そんなソロに、幼女はクスクスと笑いながら、
「全くだらしないのぉ。賢者の試練を始めてから1カ月半。赤の勇者の幻影から先に進めないどころか、緑の勇者の幻影にもあれから敗北ばかりをもらいうけおって」
「勇者の力をアルスの半分も持っていない、一般人同然のボクに勇者と互角で戦えっていうのがそもそもダメなんですよぉ……」
ソロがいじけたような声で言うと、幼女は「うむ、そうじゃな」と潔く首肯した。
お説教の一つや二つが飛んでくると覚悟していたソロは、完全に虚を突かれ、思わずツッコミを入れそうになる。
「緑の勇者の幻影を1度倒されたことがあったが、あれを見た時は正直驚いた。勇者の力もコントロールできておらん、お主みたいなチンチクリンが幻影といえど、勝利するとはなぁ」
「それって、褒めてるんですか……?」
「まぁ、修行はしっかり怠らんかったから、そろそろお主の勇者の力を本当に覚醒させるとするかの」
「え?」
今までの試練は勇者の力を呼び覚ますものじゃなかったんですか、とソロが慌てて訊ねると、幼女はベッドをヒョイと飛び降り、
「バカもん。あれしきの事で呼び覚ませれば、苦労はせんわい。今までのは、お主があそこへ向かう為の体力作りじゃ。まぁ、勇者との実戦経験を積ませたかったのは本当じゃがな。風呂に入ったら、支度をして来るが良い」
「あそこ……?」
幼女がヒタヒタと歩いて部屋を去ると、残されたソロは首を傾げた。
汗を流し、着替えを済ませ、幼女に言われた通り出かける準備を済ませると、ソロは幼女に連れられ、小屋の外へと出た。
空には巨大な丸い月が浮かび、湖にはもう1つの月が浮かんでいた。
新鮮な夜の空気に、ソロは胸に息を吸い込むと、その見事な月に感嘆した。
「うわぁ、綺麗な月。先生?」
丈の合わない法衣を引きずりながら、幼女は湖畔に近づくと、ソロに手招きをする。
何も分からないまま、幼女に近づくと、ソロは幼女に訊ねた。
「こんな夜に、一体どこへ行こうっていうんですか?」
ソロが眉を寄せ訊くと、幼女は袂から何かキラリと光るものを取り出した。
それが何か理解すると、ソロは慌てたような声をあげる。
「せ、先生!?」
短刀だった。
月光に照らされ銀色に輝くそれに、ソロは思わず腰を退くと、幼女は「まぁ慌てるでない」。
幼女は小さな指を、軽くピッと傷つけると、そこから垂れた一滴を湖の水に落とした。
それが波紋するのを見ると、再び振り返り、
「ソロ、お主も腕を貸せ」
それが、何か儀式のようなものの一環と理解すると、ソロは表情を整え、手を差し伸べ言った。
「大丈夫です。自分でやります」
幼女から短刀を受け取ると、ソロは同じように、赤い一滴を湖の黒い水に落とした。
幼女はソロを湖畔から退かせると、一つ呼吸を置き、詠唱を静かに始めた。
幼女の詠唱で、1つ1つの魔法文字が浮かびあがるように現われては、結合し、離れ、消える。
ふわっとした風が頬を撫ぜ始めると、幼女の目の前には、2重の魔法陣が光を放ち、ゆっくりと回転して浮かび上がる。
文字盤のような輪郭に幾つかの円が内部に描かれ、その中央の円が奥に突き抜けたかと思うと、それは、まるで深海へと繋がるような入口となった。
幼女の詠唱が終わると、ソロはその光景に見惚れるように、目を見張った。
「先生、これは……?」
「今のお主であれば、ここを通ることができるはずじゃ。ソロ、この扉は、ここの世界とは異なる空間に存在する別の世界に繋がっておる。ただただ強靭な者では、時空を越え渡ることは無理じゃ。身体だけではなく精神をも壊されてしまいかねん。この先に、お主の力を呼び覚ます方法がある。覚悟は良いか?」
幼女がいつもとは違う、引き締まった声で問うと、ソロは力強く頷いた。
それを見ると、幼女は微笑み、
「よし、では参るぞ!」
幼女が魔法陣の中に飛び込むと、ソロもそれに続き、思いっきりに飛び込んだ。




