甘い香り
一階にある調理場を目指し、二人でひたすら階段を降りていく。
マリノは「依頼をしてきますので、部屋にいらしてください」と言ってくれたけれど、返事が待ちきれなくて無理矢理着いてきてしまった。
そういえば、私が部屋を四階に変えるまでは、毎日陛下はこうやって私の部屋に通ってきてくれたんだっけ。
あのときは嫌がらせで会いに来ているのだと考えていたけれど、階段は降りるだけでも結構疲れるものだ。
しかも朝一番でとなると、面倒なことこの上ないはず。
「この距離を、陛下は通ってくださっていたのね」
「そうですね。きっと、それほどにティア王妃殿下にお会いしたかったのだと思いますよ」
ふと、陛下の穏やかな微笑みを思い出してしまい、きゅっと胸が切なくなった。
あの頃はわざわざ会いに来る意味がちっともわからなかったけれど、いまなら陛下の想いもわかる気がする。
私も陛下のお側にいられるのなら、どんなに遠くても忙しくても会いに行くだろうから。
だけど……王妃としてではなく、ティアとしてクライブに会いたいという気持ちでいっぱいなのに、どんな顔をしてクライブに会えばいいのかわからない。
これまでティアとしてどう接していたのかさえわからなくなってきてしまった。
祝福の日の贈りものをきっかけに、以前のようにクライブと話せるようになるといいのだけれど……
そうこう悩んでいるうちに私たちは調理場にたどり着き、マリノが女料理長のアンヌを呼んできてくれてお菓子作りの指南を頼み込むと、アンヌは二つ返事で引き受けてくれた。
早速この日の午後から、お菓子作りの練習が始まった。
場所は巨大なキッチンの隣にある、小ぢんまりとしたキッチン。普段はアンヌがメニューを考案するために使っているという部屋を貸してもらった。
アンヌの隣にいるのは、最近入職したばかりの黒髪の青年コルトで、彼が私の助手をしてくれるのだそうだ。
私より二、三歳ほど年下だろうか。
黒髪で童顔な彼は、幼い頃のクライブにどこか似ているような気がして、ついつい微笑ましい気持ちになってしまう。
「王妃殿下、作りたいお菓子は決めてらっしゃいますか?」
コルトの問いかけに、首をひねって考える。ショートケーキのように甘すぎるお菓子は好きではなさそうだし、マカロンを頬張る姿もあまり想像できない。
「どうしよう、何も思いつかないわ」
苦笑いをしてアンヌに視線を送ると、アンヌは心配ないとでも言うように、胸を叩いた。
「王妃殿下はアールグレイがお好きだとうかがっております。相性もいいので、アールグレイのアップルパイはいかがです?」
「紅茶入りのアップルパイ、甘すぎないしとても美味しそうね。そうしましょう!」
ぱんと両手を叩いて、張り切ったものの……
ナイフを握ったことなど一度たりともなかったわけで。
早々に指先を切ってしまい、マリノが救急箱で手当てをしてくれた。
「ティア王妃殿下、ナイフを使わないものに変更なさるか、コルトにリンゴの皮剥きを頼まれては……?」
「いやよ! こういうのは妥協せず、全部自分でやらないと意味がないんだから」
とは言うけれど、一日目が終わったあとの指先は傷だらけ。
まぁ、グローブで隠しておけば、こんな傷なんて多少痛いだけで問題ないわ。
本当の問題は、カンのいいクライブ相手に隠し通せるのかということと……当日にちゃんとしたものが作れるのかということ。
いまのままだと血嫌いのクライブに、血塗れたアップルパイを食べさせるという、最悪の贈り物になってしまうから。
翌日もまた、早朝からお菓子作りの練習をし、そのまま謁見の間に移動していつものように他国からの使者や商人たちと話をする。
三人連続で謁見を終えたあと、隣に座る陛下が立ち上がって人払いをした。
「何か、重要な話でも……?」
人払いをするということは、兵士たちに聞かれたくない話があるということだ。
先ほどの謁見者たちの中に、危険な人物でも混じっていたのだろうか。
あごに手をあてて考えていると、隣のイスに腰かける陛下が微笑みかけてきた。
「なにも心配しなくていい、ただ俺がお前と二人になりたかっただけだ。ここのところ、ゆっくり会えていないだろう?」
「そ、そうですね……タイミングが、なかなか……」
お願いだから、心の準備もできていないうちにそんな照れるようなことを言わないでほしい。
おかげで平静なんか保てないし、変にまごついてみっともないことになってしまった。
照れて縮こまる私を、陛下は目を細めて見つめてきながら、すっと立ち上がった。
「風邪の具合はどうだ?」
「すみません、まだ少し気だるさが続いていまして。なるべくゆったり過ごしたいと思います」
……というのは、じつは半分嘘だったりする。
風邪はもうとっくに治っているのだけれど、一人の時間を作らないとお菓子作りの練習もできないから、こう言うほかないのだ。
それに、月のもののせいで体調が優れないから、ゆっくり過ごしたいというのは本当だし。
それに何より、陛下ではなくクライブの隣にいると心臓が破裂しそうになって身が持たないから、一緒に過ごす勇気が出ないというのもある。
「そうか。無理はするなよ。このあとも部屋で休んだほうがいい」
「お気づかい、ありがとうございます」
心配してくれるなんて嬉しいな、なんて照れてうつむくと、私の名を呼ぶ声が聞こえてきて。
顔を上げるとすぐさま視界に陰ができ、唇に温かなものが触れてくる。
不意打ちのキスだ。
それに気づいて、うるさいくらいに心臓が早鐘を打った。
唇はすぐに離れていったけれど、ぼうっとクライブを見つめたとたん「そんな目で見るな」とかすれた声で呟かれ、すぐにまた唇を重ねられた。
角度や深さを変えて、何度も何度もせがむようにキスをされ、反射のようにあの夜を思い出してしまい、身体が勝手に疼きはじめる。
すがりつくようにクライブの服を握りしめてされるがままでいると、キスをやめたクライブはそっと優しく頬を撫でてきた。
「無理をするなと言ったそばから、情けないな……。許せ、本当はもっとお前に触れたいんだ」
私の手をとって立ち上がらせてきたクライブは、耳元に顔を寄せてきて、また呟く。
「シナモンだろうか……美味そうな甘い香りがする」
首元に唇が押しあてられ、甘い切なさにゾクゾクと身体が震えた。
「あ……、陛、下っ、次の謁見の者が……」
自分が自分でなくなる感覚が怖くて恥ずかしくて、慌てて距離をとって言う。
そんな私の想いなどお見通しとばかりに、クライブは満足そうに微笑んでいた。
「ティア王妃殿下。お菓子作りでコルトを助手にしておくのはよしたほうがいいかもしれません」
お菓子作りをはじめて、四日目。マリノが突然そんなことを言い出した。
「どうして?」
コルトは優しいし、教えるのも上手いし、何より昔のクライブみたいで可愛いのに。
私の問いにマリノは眉尻を下げて、言いにくそうにぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「先日……困った噂を耳にしました。王妃殿下が新人のパティシエに入れあげている、と」
……クライブの妻である私が、コルトに?
ぷっと噴き出して笑い声をあげた。
「どうしてそうなるのかしら。コルトに恋心なんて一欠片もないのに」
下らない噂話をする暇があったら、愛する者を支えたり、国を豊かにする方法でも考えたりしていればいいのに。そっちのほうがよっぽど有意義だわ。
「存じ上げております。ですが……」
「噂話なんて、勝手にさせておけばいいのよ。どのみちあと数日で終わることなんだから」
「私は、ティア王妃殿下がふしだらな女だと思われることが耐えられません……」
マリノは、ぎりと奥歯を噛み締めて、スカートの上に重ねた両手を強く握りしめている。
いつもにこやかなマリノがこんな表情をするなんて滅多にないことだ。よほど、悔しかったのだろう。
「マリノ、心配してくれてありがとう。でも、急に会うのをやめたらそれこそ何かあったと言っているようなものじゃないかしら? コルトや私たちが悪いわけでもないのだから、堂々としていましょう、ね?」
マリノの手に自分の手を重ねると、マリノは困ったようにうなずいて、ぼそりと呟く。
「そうですね……あとは、陛下のお耳に入らないといいのですが」




