この気持ちの名前は
「嫌な未来ねぇ」と、グレイ様は紅茶を一気に飲みほして、私の顔を見つめてきた。
「そういやティアちゃん、この話は知っている? クライブのやつに、公妾の話が出ているんだ」
思いがけない知らせに言葉を失い、頭の中が白く染まった。
公妾って、あの公妾……国が認めた愛人ということよね?
昨日まで城にいたのに、そんな話は聞いていない。
「おっと、これはまだ表に出ていなかったかな。どこぞのお姫様で美人の才女でよ。しかもクライブに一目ぼれ。跡継ぎを願う大臣たちが、話を進めているんだ」
「わ、たし……聞いて、いないです」
「まぁ公妾は、しょせん妾。王妃の座を奪われることはないし、臣下から慕われるティアちゃんなら大丈夫だろ」
グレイ様は、からからと笑うけれど、反対に私の心は淀んだ何かで満ち溢れていた。
クライブに公妾……もし、クライブがそのお姫様に恋をしたら、もう私と話してくれなくなるの?
あの瞳を向けてくれなくなって、温もりを感じることもなくなって。
口げんかをしたり一緒に出かけたりすることもなくなるの?
いままで私にしてくれた全部を、そのお姫様にするの……?
「ティアちゃん?」
グレイ様が話しかけてくる声が遠くに感じるほど、頭の中は混乱を極めていた。
「い、や……そんなのいや、です……」
うつむいて両手を重ねて握る。次第に視界もぼんやりと滲みだした。
「どうしてだい?」
「陛下の心が離れていくのが、怖いんです」
泣きだしそうな心を抑えつけて目をつぶると、低く柔らかな声が聞こえてくる。
「安心していいよ。公妾なんて話、出てねぇから」
嘘をついてくる意味が分からなかったけれど、とたんに全身から力が抜けた。
「なぜそのようなお戯れを……?」
不満をもらすように言うと、グレイ様はくつくつ笑う。
「理由か……このまま二の足踏み続けてりゃ、嘘も真になる日が来るから、だなぁ。自分でもわかっているんじゃないかい?」
「――っ!」
はっと息を飲み、思いきり殴られたかのように頭の中が揺さぶられる。
遅かれ早かれ、公妾の話が出るであろうことは、わかっていたつもりだった。
だって、初めの頃の私は、クライブが愛妾を迎える日を待ち望んでいたんだもの。
だけど、いまは……
「ティアちゃん。未来が不安でもいい。自分に自信が持てなくたっていい。鍛え抜いた騎士でさえ、恐れの感情は消し切れないもんだ。俺が思うにさ、いまのティアちゃんに必要なのは、わかりもしない未来を案ずるより、覚悟を決めることなんじゃねぇのかな」
これ以上考えてはいけないとでもいうように、頭のどこかでストップがかかるけれど、それを無視して問いかける。
「覚悟、とは……?」
グレイ様は、すっと優しく目を細めて口を開いた。
「自ら未来を選び取り、前に進んでいく覚悟さ」
「自分で未来を選んで、進む……」
「自ら選び取るのは度胸がいるし、不安にもなるもんだ。何かや誰かのせいにできるほうが楽だからな。だが、後悔しない生き方をしたければ、他人の顔色うかがってばかりじゃいけねーぜ」
グレイ様の言葉に、はっとしてうつむいた。
第二王女らしく。それだけを胸に、深く考えないままお母様や姉様の望むままに生きてきた自分を暴かれたのが、情けなくて恥ずかしい。
顔を上げられずにいる私にグレイ様は真剣な声色で言葉を続けた。
「想いの力ってやつは、何よりも強い。過去がどうであれ、未来なんざいくらでも変えられるんだ。だから……第二王女でもなく、王妃でもなく、俺の目の前にいる君に問うぜ。ティアちゃんは、どんな未来がお望みかい?」
問いかけられたとたんに胸の奥から恐怖に似た何かが沸き上がってきて、視線を落として、ぎゅっと両手を祈るように組んだ。
「私は……」
誰かを好きになってはいけない。
私は第二王女で、この身は国と国とを結びつけるためにあるんだ。
恋なんかしたとして、悲しい思いをするだけだし、私の恋の花は開かないようになっている。
信じるたびに裏切られるのなら、恋なんかしないほうがいいのだから。
責め立てるような自分の声が頭の中で響き渡っていたけれど、ふと温かく柔らかな声が聞こえた。
――ちゃんとティアを見るよ
――お前を愛している
その声に、ぎゅっと結んでいた手をスカートの上にゆっくりと下ろした。
食いしばっていた口元も柔らかく弧を描き、次第に強ばっていた力が抜けていくのを感じた。
マリノやお父様以外で、私自身を認めてくれたのはただ一人、クライブだけだった。
本音と向き合うのが怖くて逃げて、しかも意地を張ってばかりだったけど、本当は貴方と過ごす時間が幸せで心地よくて、嬉しかったんだ。
クライブが私にくれた、あの花。
もしかしたら、ひまわりの送り手としてふさわしかったのは、貴方ではなかったのかもしれないな。
夕陽のような瞳を持つ貴方は、私の冷えた心に暖かな陽だまりをくれて、第二王女ではなく、ティアでいられる場所をくれた。
ひまわりみたいに太陽を見つめ続けていたのは、私のほうだったんだ。
ああ、どうやったってもう、この心を抑えることはできない。
この想いに名前をつけたことでいつか悲しい思いをしたとしても、決して後悔なんかしない。
私はちゃんと貴方と、そして自分自身と向き合いたい。
覚悟を決めると、とどまることのない想いが胸のあたりからのどを通り、言葉へと変わる。
「……好き、私はクライブ陛下が好きです。ずっと隣でお支えしたい」
言葉に出したとたん、分厚い堰が決壊したように想いが次から次へと溢れてくる。
あの瞳も、声も、温かくて大きな手も、クライブの全てが愛しくて、その顔を思い浮かべるだけで胸が甘い痛みでいっぱいになって切ない。
抑えつけ過ぎたせいでパンパンに膨れた想いが溢れ出るように、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
そして、無性にクライブに会いたくなった。
あの深紅の瞳に私をうつしてほしくて、あの手で私に触れて欲しくて。
あの声で何度でも、飽きるほどに私の名を呼んでほしいと思った。
ああそうか……きっと、これが恋なんだ。
ねぇクライブ、完全に私の負けだわ。
私はいつの間にか、大嫌いだったはずの貴方に恋をしてしまった。




