リム湖のほとり
いつものように朝が来て、いつものようにクライブがやってくる。
ケンカばかりでわずらわしかった訪問が、いつしか二人だけのお茶会となり、私のひそかな楽しみとなっていた。
セイロンティーを淹れて席に着くと、クライブが静かに口を開いた。
「ティアは今日の昼ごろ、何か用事はあるだろうか?」
「いえ、ありませんよ。お仕事増えましたか?」
クライブが私の予定を聞いてくるときは大抵、想定外の仕事が舞い込んできた時なのだ。
「仕事、といえば仕事なのかもしれないが……」
あら、クライブにしてはめずらしく煮え切らない様子かも。よっぽど頼みづらい仕事なのかしら。
「どうしました?」
促すように尋ねると、意を決したようにクライブは顔を上げてきた。
「ノースネージュ旧市街の様子を見に行こうかと思っている」
「もしかして視察ですか?」
「そう名のついた息抜きみたいなもんだ」
クライブはカップを手にとり、ゆったりと紅茶を口にする。
「ふふ、息抜き、ですか」
クライブは高熱を出しても仕事のことばかりだったのに、時間を作ってちゃんと息抜きをするのが意外すぎて思わず笑ってしまう。
「ああ。この格好で行くわけにもいかないから、市民に扮して行こうかと思っている。ティアも嫌でなければ……」
「面白そうですね! ぜひご一緒したいです」
誘いづらいとでも思っているのか、クライブはたどたどしい様子で話してくるけれど、私は反対に歯切れよく答えた。
「第二王女のプライドはいいのか? 下流貴族どころか、町娘の格好をするんだぞ」
あまりに乗り気な私を見て、クライブは目を丸くしてくる。
確かに王族や貴族は美しく着飾り、豪華な品々に囲まれることでプライドを保っているところがある。
だけど、どうやら私はそんなプライドをどこかに捨ててしまった、おかしな王妃のようだ。
ぜいたくな望みだとお父様は言っていたけれど、私は王族ではなくて、ずっと『普通』の人になりたかった。
普通に朝目が覚めて、仕事をして、食事を作り、家族皆で一日のことを話しながらそれを食べる。
毎日毎日友だちとじゃれ合って、時にはケンカもして、いつしか誰かと恋に落ちて結ばれる。
そんな毎日に憧れていたから、ロゼッタにいた頃は城内よりも城下町にいるほうがずっと好きだったし、居心地がいいとさえ思っていたのだ。
どうしてもクライブの視察についていきたかった私は、にこりと笑って問いかける。
「着飾るよりも、市民の生活を確認することのほうが大切だと思いませんか?」
「ああ、同感だ」
クライブは吹っ切れたような顔でうなずき、柔らかく笑んだ。
「わぁ、可愛い!」
用意されていた町民の服は、白いブラウスに紺色のスカート、そしてこげ茶色のベストだった。
鏡の前でスカートをあてていくと一気に気分が上がり、興奮が止まらない。
マリノに手伝ってもらいながら着替えを済ませ、髪を後ろでゆるく編み込んでもらう。
これなら、どこからどう見ても町娘にしか見えないだろう。
上品さや笑顔の仮面ともおさらばね!
にっと笑って大股で歩き、マリノとともに王妃の部屋をあとにして城門前へと向かった。
門番にはすでに話がついていたようで、すんなり通してくれる。見送りをしてくれたマリノともここでお別れだ。
城の外に出ようとするたび、化け物のような顔で止めてきたロゼッタ兵たちとは大違いね。
おかげであの頃は何度抜け道を使って外へ出ていたことか。
跳ね橋を渡ると、城壁に寄りかかっているクライブと目があった。
深緑のマントを身にまとい、ひざ下までのこげ茶色のブーツをはいている。
剣は普段とは違う、薄汚れたものを左腰に差していた。おそらく、旅の剣士の設定なのだろう。
「お待たせしてすみません」
慌てて駆け寄ると、クライブは返事もなくぼうっと私を見つめてきて。
「あの、どうされました?」
おかしな様子に首をかしげると、クライブはふっと表情を柔らかくさせて口を開く。
「いや、こういった格好も似合うな、と思って」
まさか褒められるなんて思っておらず、恥ずかしさのあまり顔が熱くなって、下を向いた。
視線が向けられているのを感じて、なかなか顔を上げられない。
「あっ、あの、陛下は旅人の設定なのですか?」
この空気をどうにかしたくて話題を変えると、クライブは人差し指を自身の口元に近づけた。
「ここからは陛下もクライブも敬語も厳禁。正体がばれる」
「あっそうですよね……じゃない、そうだよね!」
慌てて言い直すと、クライブは満足そうにうなずいた。
「俺は、町ではエリックと呼ばれている。ティアの偽名はどうする?」
「ええと……」
腕を組んで、頭をひねる。
偽名なんて考えたことは一度もないし、なかなかすぐには思いつかない。
「なんでもいい。知り合いの名でも、好きな花の名でも、演劇の役名でも」
演劇の役名という言葉に、すぐさま顔を上げた。私には幼いころから大好きな劇があるのだ。
『リム湖のほとり』という演目で、誰からも見向きもされない没落貴族の女の子が、優しいモンド伯爵に見染められて愛を知り、困難を乗り越えて美しい伯爵夫人になるというお話だ。
上流貴族には敬遠されていたお話だったけれど、私はなぜかこのお話がどの劇よりも好きだった。
その演劇の主人公であり、没落貴族の女の子の名前は――
「ロザリンデ。私の名前は、ロザリンデにしようと思います」
自信たっぷりに言ったのだけれど、クライブはなぜか困ったような顔を見せてきた。
「ロザリンデ、か。リリーとか、アンとかではいけない?」
どうしてリリーやアンはよくて、ロザリンデはいけないのだろう。
もしかして、クライブもあの劇にいい印象がないのかしら。
「変ですか? リム湖のほとりの主人公の名なんですけど……」
「リム湖のほとり? 名前は聞いたことはあるが……」
クライブはずっと忙しくしていたから、演劇を見る暇がなかったのかもしれない。
しかも、あれは恋愛がテーマの演劇だから、なおさら興味なんてないだろうし。
それなら、どうしてロザリンデは嫌なのだろう。
じっと顔を見つめていくと、クライブはばつが悪そうに頭をかいた。
「じつは、名前に問題があるわけではなくて、長くて呼びにくいと思っただけなんだ。その名に愛着があるようなのに悪いが、呼び名はロザリーでもいいか」
「あ、ええと……はい」
思いがけないクライブの返答に、どきりとしてしまう。
演劇の中でロザリンデは想い人であるモンド伯爵からだけ、ロザリーと呼ばれていたのだ。
「ロザリンデもいい名ではあるが、やはりティアという名が一番お前にしっくりくるな。さあ、ロザリー。そろそろ行こうか」
ふっと柔らかく目を細めたクライブは、旧市街に向かって歩きはじめる。
クライブはモンド伯爵みたいにわかりやすい優しさはくれないし、甘い言葉も囁きはしない。
それなのに、どうしてなのだろう。
クライブの横顔が、ロザリンデの名を呼ぶモンド伯爵とよく似ているように見えたのだった。




