あの日
人払いを終え、気乗りしないのかグレイ様は大きく息を吐き出し、重い口を開いた。
「ティアちゃんが察しているように、四年前の事件とはヤーク砦陥落のことだ。昨日、たまたま部下のロジェともこの話をしたんだが、そいつはいまもなお鮮明に思い出せると言っていた。歴戦の騎士もそう思うほど、あれはとんでもない事件だったんだ」
グレイ様は私に王妃のイスに座るよう促してきて、自分は玉座の手すりに寄りかかって両腕を組み、視線を落とした。
「確か、四年前の秋頃だっただろうか。あの日は深い霧がたちこめる不気味な朝を迎えたらしい」
――四年前 秋――
当時、ノースランド南東とロゼッタ北東の国境付近を守るD班には、三名の指揮官がいた。ノースランド傍系一族のダリル、ロゼッタ女王の王配ジュド、ノースランドの王子クライブだ。
ダリルはすでに中・後衛の指揮官として、ジュピト帝国との戦に数度出陣しており、全て勝利を収めている。
ジュドは人望があり、危なげのない安定した戦を行う男として名を知られていた。
クライブは十六歳と若かったが、ユーリア三国の人員不足もあったため、この戦で初めて指揮官に抜擢されていた。
D班が守備する地区には、ヤーク砦という小規模ながら堅い守備を誇る砦がある。
経験のあるダリルとジュドがいれば、未熟な新米指揮官が一人いても問題はない。そう判断されたのだ。
「指揮官として出陣するのは初めてだから、クライブは俺の戦いぶりを見ていろ」
負けを一度も経験したことのないダリルは大きな腹を揺らして高らかに笑い、前衛のヤーク砦をダリルが守備し、中衛のヤークル平原中央をジュドが、後衛をクライブが引き受けることに決まり、ジュピト帝国軍が近づいてくるにつれてそれぞれ陣を展開していた。
深い朝霧がたちこめ、あたりは一面雪に包まれてしまったかのように白く染まる。
ジュピト帝国軍は近くの山に陣を張っており、霧が晴れた瞬間に砦に突撃してくることは明白だった。
陥落不可の砦と言われたヤーク砦の中もピリつき、ヤークル平原のジュドも後衛のクライブも、もしもの時に備えて迎撃の体勢を整えていた。
堅牢な砦がそう簡単に陥落するはずはない。
深い霧に包まれていても、誰もが信じて疑わなかったのに、それは大きな間違いだったとすぐに知ることになる。
真っ白な霧の中、一頭の馬がこちらに向かってまっすぐに駆けてくるのを、後衛のクライブが見つけたのだ。
伝令兵かと思いきや、馬に乗っていたのは青い顔をしているダリルだった。
後衛にたどり着いたとたん、ダリルは馬を下りて安心したように地面にへたり込んでいく。
ダリルの姿は泥や血のり一つ付かない綺麗な姿のままで、不審に思ったクライブはダリルのそばまで馬に乗ったまま近寄り、声をかけた。
「ダリル兄様、いったい何があったのです?」
ダリルはクライブを見上げ、ヤーク砦の方角を指差して息も絶え絶えに声を上げた。
「ここだけじゃなく、ヤーク砦も霧に包まれているんだ! 霧が晴れたとたん、ジュピト帝国軍が攻め込んで来るに違いない。このままでは俺の血が、王家の血の一つが絶えてしまう。そう思い、慌てて戻ってきたのだ」
とたん、あたりは静寂に包まれていき、騎士やノースランド王国兵は睨みつけるように、地面に座るダリルを見つめていく。
「北斗契約などなければ……」
一人の騎士が呟くように言って剣の柄を強く握りしめた。
いまは戦争中だ。王国兵だけでなく、北方騎士団も王族の管轄下へと落ちる。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめる者や、ダリルに聞こえないように小さく舌打ちをする者もいたが、王族であるダリルに反論できる者はいなかった。
クライブ一人を除いては。
「兄様、何を言っておられるのです?」
「だから、ノースランド王家の血を……」
怪訝な顔をするクライブに、ダリルは説明するような口調で声を荒らげた。
「あそこの兵たちはどうしたんですか」
砦の方向を指差すクライブに、ダリルは苦々しい顔を見せたあと、同意を求めるようにすがってきた。
「兵には言わず、ここまで来た。精鋭も多いし俺なしでも上手くやるさ。それに……俺を守って死ねるならあいつらも生きたかいがあったよな? 王族を守るのが兵たちの一番の任務、クライブもそう思うだろう?」
クライブは静かに目を見開いて、しばらく茫然としていたが、ぐ、と強くまぶたをつぶり悔いるように顔をしかめた。
「……ダリル兄様がこんなにもクズだったとは」
「おい、お前いまなんと言った? もう一度、俺の目を見て言ってみろ」
聞き捨てならない、とダリルは立ち上がり、馬上のクライブを睨みつける。
「ああ、何度でも言ってやる、アンタはクズだ。今頃、砦は指揮官不在で混乱していることだろう。そんなの指揮官が初めての俺でさえわかる。アンタのせいで、いまどれだけの人が戦っているのか、死んでいくのか……なぁわかってんのか。死ななくていい奴らがいま、あそこで死んでいっているんだ!」
怒りで顔を赤く染めてクライブはダリルに怒号を浴びせ、一方のダリルは反論もせずに、ぎりぎりと奥歯を噛みしめクライブを睨みつけた。
ことの重大さを理解する気がなさそうなダリルに、クライブはまた眉を寄せた。
「俺はアンタと血がつながっていることが恥ずかしくてしかたないよ。ダリル、アンタは民を預かる者として、決してしてはならないことをしたんだ。これを王族の恥だとは思わないのか。いまここで死んで、詫びてもらったっていいんだぞ」
クライブは剣を左腰から抜いてダリルの喉元に突きつける。
少しずつだが霧も晴れはじめ、刃に光が当たり妖しく煌めいた。
侮蔑がこめられた冷たい視線を振り切り、助け船を求めてダリルはあたりを見回すが、皆一様に鋭く見下すような瞳でダリルを見つめていた。
「ぐぅぅぅ、クソが!」
耐えきれなくなったのだろう。ダリルは顔を真っ赤に染め上げて馬にも乗らず走って逃げていった。
白い霧に吸い込まれるようにダリルは消え、すぐに騎士のロジェがクライブの馬の横に自身の馬を横付けしてきた。
「クライブ王子殿下、不測の事態が起こった場合、隣の班へ救援依頼せよと言われております。救援要請の伝令を出したあとは、ここで待機されますか? 陣を下げますか?」
「すぐに伝令を送れ! そのあとは……」
クライブは視線を落とし、悩む様子を見せた。
指揮官としての初めての出陣でこのような大きな事態に陥るとはだれも想像していなかったため、クライブだけではなく騎士や王国兵たちも混乱を極めていた。
『このままでは全滅しかねない』と、さらに陣を後ろに下げることを勧める者と『ジュピト帝国軍をここで押さえるためにも、ぎりぎりまで戦うべきだ』と言い張る者に意見が二分していく。
視線を落としたままのクライブは、ざわつく兵たち全員に聞こえるように声のボリュームを上げた。
「なぁ、教えてくれ。なぜ、お前たちは誰も、仲間の救援に行こうと言わないんだ」
騒がしかった陣中が、しんと静まり返っていく。
小さく息を吐いたクライブは立ちつくす兵たち一人ひとりに視線を送った。
「俺が新米指揮官で無茶なことは言えないし、ノースランド唯一の王子だから危険な目に遭わせられないと、そう思っているのだろう。だが本当は全員、心の中ではこう思っているんじゃないか? ……戦っている仲間を助けに行きたい、と」
皆、うつむいて唇をかみしめたり、こぶしを強く握ったりしている。その様子から兵たちの想いは明白だった。
「ロジェ、俺は決めた」
クライブは隣にいる若い騎士を強い瞳で見つめ、馬を操り陣の一番前へと躍り出ていく。
「命令を下す。武器を手にとり、前だけを見ろ」
剣を天高く掲げたクライブは、すぐに切っ先を落としてヤークル平野中央に向けながら、困惑する兵たちに高らかに言い放つ。
「総員突撃! ジュド閣下を救援せよ」
地面が揺れるほど大きな鬨の声があがった。
そこから先は、怒涛の展開だった。
指揮官であるクライブ自ら先陣を切り、一気に前線まで駆け上がったのだ。
返り血で全身を赤く染め、立ちはだかる者全て一振りで斬り捨てていくさまに、兵の士気も上がった。
ヤーク砦陥落を防ぐことは叶わなくとも、せめてジュド閣下は救えるかもしれない、と兵たちは湧き立っていたが、目の前に広がる現実は想像よりもはるかに厳しいものだった。
ヤークル平原中央にクライブたちがたどり着きジュピト帝国軍を撤退させたあと、あたりを見回すとロゼッタ兵の屍の山が築かれていたのだ。
ロゼッタ兵士も勇敢に戦ったのだろう。
ジュピト帝国軍の兵の屍もそこには多数混じっていたが、ロゼッタ兵は皆負傷しており、生き残った者は五分の一もいない。
「ジュド閣下は……?」
憔悴しきったクライブが生き残りの兵に尋ねると、兵は静かに首を横に振って亡骸の元まで案内をしてきた。
今朝まで声を聞き、勇気づけるように優しく肩を叩いてくれた尊敬する男が、泥と血にまみれ、剣で左胸を貫かれている。
クライブは崩れるように膝をついて、まぶたを閉じたままのジュドへ手を伸ばした。
「ジュド閣下……なぜ貴方はこのようなところで眠っておられるのですか? 貴方の夢は、約束はどうなさるのです……?」
震える声でジュドの手を握り、その冷たさと力ない感触にクライブは救援が間に合わなかったことを知ったのだった。




