喧嘩
「そ、そんなこと、最初っからわかっていたわ。政略結婚ってそういうものでしょう?」
そうだ、最初からわかっていた。
国と国を繋ぎとめるのが私の役割で、私自身じゃなく私の血と裏側にあるロゼッタにこそ価値がある。
それも全部わかった上で、ノースランドに嫁いできたのだ。
よどみが増していく心を吹き飛ばそうと、自分で自分に言い聞かせる。
動揺する私にジョアンはくすりと笑い、私の頬に優しく触れてきた。初めて私の頬に触れてきた男の人の手は少し冷たくて、驚きからぴくりと身体が震え、視線を落とした。
「でもさ、長い長い戦争も終わったし、この時代に政略結婚って必要なのかな? そんなに若くて美しいのに少しも愛がない結婚なんて、寂しいと思わない?」
「ジョアンは何が言いたいの?」
ちらりと視線を上げて尋ねる。
「オレなら君を大切にしてあげられる、って言いたいんだよ。だって、俺は君のことを一番に愛しているから」
甘く囁くように言ってきたジョアンは、少しずつ顔を近づけてくる。
もう少しで私の唇にジョアンの唇が触れるというところで怖くなった私は、慌てて顔を背けた。
「ごめん、まだ早かったかな」
ジョアンは手を離して、寂しそうに笑う。
「クライブは優しくないだろう。仏頂面だし、言葉も少ない。まぁここ数年のアイツはずっとそんな様子だったし、それはしかたないかもしれないけど、君のことを一度でも好きと言った? 抱き締められたり、キスをされたことはある?」
ジョアンの問いに何も返すことができない。
抱き締められたり、キスをされたりするどころか、私たちはプライベートで腕を組んだり手をつないだりしたことすらないのだ。
「まぁそうだよね。一度もないでしょう? ねぇ、ティアは触れてもらえなくて辛くなかった? まぁ、いまはいいかもしれないけれど、あと半年もしたらどうなるだろうね。子をなす気がない王と王妃に貴族たちは冷たい視線を向けてくるだろうし、それ離縁だ、愛妾を探せだなんだと騒がれるのが目に見えるようだよ」
ジョアンの言葉に、目の前が真っ暗になって一瞬意識が遠ざかる。
そんな私に追い討ちをかけるように、ジョアンはまた口を開いた。
「寝室だってあんなに離れていたって辛いと思わないし、ほんのちょっとしか顔を合わせなくても平気でいられる。男は、いつだって好きな女に触れていたいものなのにさ」
「……男の人って、そういうものなの?」
刺されたように痛む胸を押さえながら尋ねると、ジョアンは大きくうなずいてきた。
「そうだよ。オレなんか、いまも君に触れたくてしょうがない。だけど、アイツが一カ月以上も君に近づこうとしないのは、触れてこないのはなぜか」
続きなんか聞きたくないのに、ジョアンは私を嘲笑うように目を細めて再び口を開いた。
「それはね、ティアの地位さえあれば十分で、君自身はいらない存在だから、だよ」
「……ッ!」
想定内の言葉だったけれど、向き合うことを避けてきた事実を目の前に突き付けられて言葉を失い、頭の中が真っ白になってしまう。
「ねぇ、ティアは死ぬまでずっとこのままでいいの? 一人の女性としてじゃなく第二王女という地位の器として、恋や愛を知らずに生きていくの?」
ジョアンは、聞き分けのない子どもを説得するかのように、優しく穏やかに話しかけてくる。
ロゼッタにいた頃もノースランドにいるいまも、演劇を見るたび、恋の歌を聞くたび、私には無縁のことで別世界のできごとだと頭で理解しようとしていたけれど、心の中ではずっとこう思っていた。
『恋って、いったいなんだろう』
『愛し合えたとき、人はどんな気持ちになるのかしら』と。
恋人たちが微笑みあうのを見るたびうらやましいという気持ちが幾度も募り、第二王女という自分の地位を何度恨んできたことだろう。
「……いいわけ、ない。私だって、マリノみたいに幸せになりたいわ」
絞り出すように声を出すと、ジョアンは優しく笑った。
「だったら、オレとおいで。城を抜け出したって、それはならず者の誘拐か失踪にみせるから大丈夫。君には名前と身分を偽ってもらうことになると思うけどそれだけだ。心配いらないよ。明日の同じ時間、ここで待ってる。一緒にノースランドを出よう。オレなら必ず君を幸せにできるから」
苦しくて、悲しくて涙も出ない。なんでこんなに辛いと思うのかもわからない。
空はあんなにも晴れ渡って星も輝いているのに、心の中は真っ暗闇で、冷たい雨がふりしきっているかのようだった。
ジョアンと別れ、どうやって歩いてきたのかもわからないまま、気がついたら自分の部屋の前にいた。
ドアを開けようとした瞬間、廊下の向こうにいま一番会いたくないクライブが立っているのが見えて、一気に身体が強張った。
「ティア!」
クライブは怒鳴るように私の名前を呼び、イラついた様子で大股でずかずかと歩いてくる。
乱暴に私の手をつかんできたクライブは、部屋の中に私を無理に押し入れてきて、強く睨みつけてきた。
「どこに行っていた!」
深紅の瞳が怒りの炎のようにも見えるほど、はじめてクライブを恐ろしいと思った。
「どこって、屋上庭園へ散歩に……」
視線をそらし、かすれた声で答える。
「今日は極力部屋を出るなと俺は言ったはずだが」
「部屋にこもっているのも気が滅入るものでしたので、行ってしまいました。衛兵にはきちんと行先を伝えたのですが……申し訳ありません」
ねぇ、クライブ。貴方はどうしてこんなにも怒るの?
いままでこんなことはなかったのに。
「……誰かに会ったか?」
眉を寄せて発せられた言葉に、全てを理解した。
クライブはロゼッタの第二王女である私がジョアンに恋し、二人でノースランドから逃げることを恐れているのだ。
それは、全部ノースランドのため。そして『ロゼッタの第二王女』を失わないようにするため。
なぜか裏切られたような気持ちになって悔しい気持ちが溢れだし、怒りのままに大きく息を吸い込んだ。
「どこに行ったの? 誰に会ったの? どうして私がそんなことを伝えなければいけないの!? あれをしろ、これをするな。王女の頃からもうずっとそんなのばっかり。嫁いでからも、意味不明なお茶会に全部顔を出して、毎日勉強と書類整理ばかり。周りは知らない人ばっかりだし、誰が信頼できる人なのかもわからない。朝食だってあんなに広い部屋でいつも無言だし、こんなのもう嫌!」
「おい! 急にどうした」
驚いた様子のクライブが私に近寄ろうとしてくるけれど、私は逃げるようにあとずさりをした。
「こんな惨めな気持ちになるんだったら、私はジョアンに嫁ぎたかった。ジョアンなら、貴方と違って絶対私を大切にしてくれるもの」
「とにかく一度落ち着いてくれ」
最近はクライブにイラつくことはほとんどなくなっていたのに、あまりにも冷静すぎる態度に怒りと悔しさが頂点まで達してしまった。
「落ち着けるわけなんかない! ねぇ、いくらで私を買ったの。クライブは私を宝物庫の金品で買ったんでしょう!? 第二王女の地位さえあればよくて、私なんか邪魔な存在なんでしょう!」
子どものように喚き散らしている自覚はあったし、大人にならなければとも思った。
幼い頃から満たされることのなかった想いをまとめてクライブにぶつけているだけだというのもわかっていた。
だけど、言い出したらもう止まらなくて、抑えが効かなくなってしまって。
「ティア、お前いったいなんの話をしている」
わけがわからないといった様子でクライブは立ちつくしていて、それがまた悲しくて悔しかった。
「取り乱して申し訳ありません。ですが、もうこんな生活耐えられません……早く出て行ってください……お願いですから、早く!」
思うより広くてたくましかった背中を叩くように無理やり押して、部屋の外へと追い出して鍵をかけていく。とたん、糸が切れたようにその場に座り込んで両耳を強く塞いだ。
「ティア、おい! ティア!」
もう嫌だ。お願いだから、そんな声で私の名前を呼ばないで。
クライブからの愛情を期待していたわけじゃない。
政略結婚だってこともちゃんとわかっていた。
だけど、ジョアンに突き付けられた言葉が、私の胸の傷を何度も何度も深くえぐってくる。
私自身は必要とされていなくて、欠片も愛されていない。
クライブにとって私は、金と引き換えに手に入れた、ただの道具でしかないのだ……と。
そのあとすぐにマリノも戻ってきたのだけれど、私は二人を部屋に入れることなく追い返し、翌日もどうせこの国を出るのなら仕事をする意味もない気がしてしまい、丸一日部屋にこもり続けた。




