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9、逃避行(その10)「星の数より飯の数」

 帰還した小笠原みづきらによって和光捷子の生存と逃走の情報がもたらされた後も、けっして状況が好転した訳ではなかった。

 日本軍第一〇八特別攻撃隊指揮官代理の乃木誠一郎中尉はただちに本国経由で各国大使館に和光捷子の入国を確認させたが、未だ彼女の足取りは掴みきれていなかった。

「ねぇ、本当にその子の言ってる事は本当なんですか?捷子兵長がヨーロッパに逃げたっていうのはその子が言ってるだけなんですよね?」

 自身が強硬に主張していた捷子死亡説が否定された遺恨からか、飯尾史奈乃(しなの)が疑いの眼差しで睨んできて哲は思わずビビッて目を逸らしてしまった。

「あ~あ~、おナノーってば自分の意見が否定されたからってムキになっちゃって、まだまだガキだねぇ」

「そ、そんなんじゃないですよ!私はただ、客観的な裏づけのないままに動くのが危険だって言いたいだけですから。別に捷子兵長が死んだと力説しちゃってカッコ悪いとか全然思ってませんから」

 柚香に馬鹿にされて真っ赤になりながら史奈乃は抗弁した。

 彼女の言う事も一理ある。今のところ、哲の言葉を確かめる術は一つも無く、そして当の哲はあからさまに彼らに対して不信と敵意の目を向けてきているのだ。

「安心しろよおミヅ。こいつ、目だけはすごいんだ目だけは」

「目だけはって……」

 肩に回された手を不満げに払いながら哲は口を尖らせた。

「別に疑うなら信じなくてもいいよ。僕は捷子さんの事なんか正直もうどうでもいいしね」

「まぁそう言わないでくれ。今の我々には君の力が必要なんだ。勿論、協力してくれたら相応のお礼はさせてもらうよ」

 話しかけてきた男の整った顔を哲は見やった。

 乃木と名乗った男はここにいる連中のボスらしかった。

 もっとも、温厚さが前面に出た優男然とした乃木を見る限り、そんな印象は全く感じられなかった。哲に対しても気さくで丁寧な対応を見せるばかりで理不尽な物言いや乱暴な振る舞いはいっさい見せなかった。街ですれ違っても、ちょっと気の利いた有能なサラリーマン程度にしか思えないだろう。

「とはいえ、どうすんだ乃木?廣山捷子生存のソースがそこの坊主の証言だけじゃ部隊は動かせられないぜ?」

「大使館からの武官情報を待つか、或いは諜報部イガモノに協力してもらうかですかね?」

「だが、居場所がわかったとしても今の俺たちに派手な動きはできんぞ?」

「自分が行きます」

 大人たちの会話を遮ったのはみづきだった。

「米軍憲兵隊の目も光る中でこれ以上、部隊を動かすのは危険が伴ないます。で、あるならば目下のところ員数外の自分と森本が動くのが最適かと具申します」

 みづきの言葉に、柚香が嫌そうな顔をした。

「げっマジで?今ヨーロッパ行っても移籍期間中でサッカーやってないからつまんないんだよね」

「球蹴り遊びの事などどうでもよい。廣山捷子が完全に潜伏して新たな牙城を作る前に潰すのが先決だ」

 言い争う二人を尻目に考え込んでいた乃木が困ったように頭を掻く。

「うーん、確かに小笠原の言うとおりではあるんだが」

「何か問題でも」

「あぁ、大問題だ。おまえたちに動いてもらうとして、予算を何処から引っ張ってくるかが難しくてな」

「うわ、みみっちい」

 柚香が呆れ声を出した。

「仕方ないだろ。銀行口座は幾つか凍結されてしまってるし、アジトの金庫もMPどもに押収されてしまったんだから」

「え~じゃあバルバラの方に手を回してお金出させたら?女子サッカー部使って欧州遠征とかどぉ?」

「無理に決まってるだろ。どこからそんな予算が出てくるんだ」

「では自分が銀行に出向いて軍資金を徴発して参りましょうか」

 みづきの言葉は全く冗談には聞こえなかった。いや、本気でそう進言したのかもしれない。

「ったく、どうしてこうウチは貧乏性なのかねぇ」

 呆れ顔の柚香が肩を竦めた。

「しゃあないな。じゃああたしがいっちょ一肌脱いであげるよ」

「ユズちゃん、いくらビッチだからって売春ウリはどうかと思うよ」

 混ぜっ返した茂庭寧にサソリ固めを仕掛けて絶叫をあげさせた後で、柚香は涙目の寧に電話をかけさせた。

 電話口に相手が出たことを確認してからニンマリと笑みを浮かべた。

「あぁ()()?あたしだよあたし、ユズ。久しぶり、覚えてる?うん、そうそう。元気してた~?」

 乃木がブッと噴き出したのを無視して柚香は電話相手に向けて猫撫で声をだした。

「実はちょっと物入りでさー、急に外国旅行行きたくなったんだけどお金足りなくてさー?だからちょっと閣下の力で融通してくんない?」

 電話相手が絶句したのがわかった。何事かまくしたててくる声が電話越しに伝わってくる。少なくとも好意的な反応でない事は明白だった。

「はぁぁ??無理だぁ??なんでさ!」

 そりゃそうだろ、とこの場にいる誰もが思う中で柚香は一人、無理筋を無理と考えていなかった。

「いいじゃん、あんたの金じゃないんだし、機密費からチョロっと回してくれればいいじゃん。…………おいコラ、松本ぉ?貴様、随分と偉くなったもんだなぁオイ?メコンでビビッてションベンちびった松本少尉殿を助けてやったのは何処のカワイコちゃんだったか忘れたとは言わせねぇぞこの野郎。あとアンタ最近、奥さんに内緒で美人の中尉殿を愛人にしたらしいじゃん?えぇ~?すっとぼけるの?別にいいけどさ~?次の人事異動で栄転するのに変な噂流れちゃったらマズくない?でもユズちゃん口軽いからな~」

 頭を抱える乃木を尻目に、邪悪な笑みを浮かべた柚香が手でOKサインを作ってみせてきた。

「あはっ♪そうそう、最初から素直にそう言えばいいんだよ。勿体ぶるなんて閣下もお茶目さんなんだから~。はいはい、わかってるって。これでメコンの貸しはチャラにしてあげるから。……はぁ??何言ってんの、まだプリズベンでの貸しが残ってんでしょ。じゃあまた何かあったら電話するねー」

 電話を切った後で、柚香は乃木にウインクをしてみせた。

「じゃあ誠一郎、後は任せたし。……なによ、その顔。せっかくあたしが話つけてやったのに文句言いたげじゃん?」

「あぁ、色々と言いたいことはあるが、まぁいい」

 頭痛を覚えながら乃木は溜め息混じりに代わりに柚香から受話器を受け取り、何処かに電話をかけ始めた。たった今、柚香が本国の将軍から取り立てた過去の貸しを現実の形として引き出す為だった。

 唖然としながらそのやりとりを見守っていた哲が、思わず近くにいたみづきを見やる。

 彼女も哲の言いたい事がわかったらしい。

「我々にはこんな言葉がある。星の数よりメンコの数、だ」

 わかったようなわからないような説明だった。


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