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9、逃避行(その9)「ファーストクラスの逃亡者たち」

 まるで闇夜に紛れるようにして羽田空港を飛び立ったルフトハンザ航空LH7237便は機首を翻して遥か西の彼方を目指して漆黒の空を飛び続けた。

 時刻が深夜という事もあり、室内灯の落とされた機内では殆んどの乗客たちが眠りにつき、静寂に包まれている。

 その数少ない例外が、機体前部に設けられた専用コンパートメントの向こうにあるファーストクラスの座席の乗客たちの中にいた。

「……眠れないの?」

 闇の中で、隣の座席から声を潜めた柑那の声が届き、捷子は小さく息を吐いてから返事をした。

「えぇ……やっぱり気が昂ぶって眠れそうにないわ」

「うふふ、ファーストクラスなんて慣れない贅沢をするからじゃないの?無理して気合入れなくたってどうせ寝るだけだったんだし、私はエコノミーで充分だったのに」

「……ダメよ!もし万が一、あいつらの追っ手が機内にいたら……」

 捷子は真面目に訴えたつもりだったが、返ってきたのはクスクスという笑い声だった。

「捷子は心配性だよね。それはいくら何でもあの人たちを買い被りすぎよ」

 憮然としながらも捷子は柑那の言い分が正しい事は理解していた。

 いくら超常の呪詛感染者たちを擁する日本軍であろうとも、そこまで捷子の動きを追いかけられる筈がなかった。

 彼らは捷子の別荘で交戦している筈だったし、捷子がこの便の予約を捻じ込んだのは僅か数時間前の事だ。足取りを追える筈がなかった。

 だが、頭では理解していても捷子の心からは焦燥と恐怖が消えなかった。

 柑那もそれがわかっていたのだろう。悪戯っぽく笑いながらそっと顔を近づけてきた。

「でも、そうだよね……もし追っ手がいたとしてもここなら安全よね、あの人たちお金は無いから絶対ファーストクラスなんか乗れないもの」

 柑那の冗談に思わず捷子も笑みを洩らした。

 他愛もない事でも笑ってしまえば、少しは気分が和らいだ。

 そうだ、大丈夫だ。何も心配することはないのだ。全てはうまくいったのだから。

「ごめんなさい、心配させてしまったわね。でももう大丈夫よ。一〇八特攻の連中は別荘を全力で叩いたみたいだし、偽装は完璧だった。それにあの門倉って男の子の処分も任せてきた。大丈夫よ、大丈夫。私たちは勝ったんだから」

 自分に言い聞かせるように捷子は呟く。

「処分?」

 聞き咎めたらしい柑那が尋ねてきた。彼女はあまりその手の薄ら暗い話は好きではなかった事を思い返し、捷子は僅かに後悔しながら答えた。

「えぇ……うちの会社が懇意にしてる人たちにお願いしたわ。……仕方がなかったのよ、あの子の目は自分の見つけたいものを見つけてしまうノルブを目に宿しているわ。彼がいたら私たちの居場所が露見してしまうかもしれないもの」

 言い訳めいた口調になってしまった事を捷子は自覚していた。

 責められるかとも思ったが、柑那はその事に関して何も言わなかった。代わりに、別荘に留まった少女たちの身を案じてみせた。

「残った子たち、生き残れたかな」

「無理よ。俄仕込みの戦力で一〇八特攻は防げないわ」

 捷子は即答した。

 呪詛感染者の扱いに最も長けた連中が、未熟な呪詛感染者に遅れをとる筈がなかった。少なくとも練度の点でいえば彼らは特殊部隊として世界屈指の強さを誇る。そこに〝撫子〟たちの力が加われば大概の敵にはまず負けることはない。

「せめて、雪ちゃんだけでも連れてきてあげればよかったのに」

「ダメよ。かわいそうだけど、雪の姿が無ければ私たちが逃げた事に気づかれてしまうわ」 

 柑那が溜め息を洩らした。

 捷子も自分が非情な言葉を吐き続けている事に気がついていた。

「……ごめんね柑那。私、ひどいよね……冷たくて最悪だよね……私の事、嫌な奴だって思ったよね?」

「……捷子は頭いいクセに時々バカだよね」

 柑那の手が伸びてきて捷子の震える手を握ってきた。

「悪いのは私だよ。捷子じゃない」

「柑那は悪くないわ!」

 思わず声を張り上げてしまい、慌てて捷子は口をつぐんだ。柑那の手が強く握り締めてきた。

「……じゃあ言い方を変えるね。捷子は私の為に頑張ってくれたんだもん。私が責められる訳ないじゃん。だから、もう忘れちゃいなよ。今さらもう引き返せないんだし、考えても自分を傷つけちゃうだけだよ」

「柑那……うん、私は柑那だけ傍にいてくれたらそれでいいの」

「あはは、ものすごい告白されちゃった」

 それから柑那は客室乗務員を呼び、ワインを頼んだ。

「じゃあ、まずは脱出の成功に乾杯しましょう。それと私たちの未来に」

 相当に今まで気を張り詰めていたのだろう、血の色のように赤い葡萄酒を臓腑に流し込んで程なくして捷子は眠りに落ちた。

 静かな寝息を立てる捷子の髪にそっと触れた後で、柑那は微笑みながら彼女に毛布を掛け、自らも座席のリクライニングを倒すと束の間の安息に身を委ねた。

 

 

 空港を降りてから電車を乗り継ぎ、降り立った田舎の駅からは柑那の呼び出した日本兵の運転する自動車に乗り換えた。

今日びの新日本の自動車とは比較にならないほど劣悪な車の乗り心地に加えて、整備の行き届かない辺鄙な山道には難儀したけれども、坂を昇るにつれて見えてきた目的地は、そんな些細なマイナスポイントなど一瞬で吹き飛んでしまった。

「うわぁ……すごい!」

 柑那が声をあげた。

 小高い山の上に、古色蒼然とした城が見えてきた。

「素敵…おとぎの国みたい。本当に私たち、あのお城で住むの?」

 初めて見る新居に柑那は興奮気味だ。

「凄いでしょ。一目惚れして買っちゃったんだ」

「うわ~なんちゅう衝動買い。和光さんに感謝だね」

 柑那の軽口は笑う事ができず、一瞬だけ捷子の胸に痛みが走る。

 かつてこの辺りを治めていたという貴族の廃城を買い取ってくれたのは彼女の名目上の夫の和光惣吉だった。いざという時に海外で身を隠せる場所を探していた時に、わざわざ見つけてくれたのだった。

 隠れ家など裏路地のアパルトマンで充分だと言っていた筈なのに、一目見てこの物件にすっかり心を奪われてしまった彼女を惣吉がニコニコしながら見つめていた事を思い出す。

「さぁ柑那、あそこが私たちの新しい家よ。私たちはこの新しい土地で生まれ変わるの。ここなら誰の邪魔も入らない。お国の人たちも追っては来ないわ。私たちはずっとここで生きていくのよ」

 目の前に広がる城を見つめながら、捷子は力強くそう告げた。





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