9、逃避行(その6)「朝莉ルート」
朝莉が一瞬で彼の手の届かない遥か遠い場所に行ってしまったような気分になるのは何故だろう。愕然とする哲をニヤニヤと見つめた後で、朝莉は囁くように告げた。
「ある訳ないじゃないですか。バーカ」
何故だか安堵感を覚えてホッと胸を撫で下ろす哲に、朝莉は気恥ずかしそうに続けた。
「だから先輩がいきなりホテル誘ってきた時はマジかーって焦りました。てゆーか、少し休むだけならカラオケとかネカフェでいいですよね?」
「いや、それは……疲れてるだろうし、ちょっと横になったり寛げる場所の方がいいと思ったからだよ!別に変な意味なんかないよ!」
「ホントですか~?てゆーか、緊張して全然寛げないんですけど?」
「うぅ……ごめん。悪気はなかったんだよ」
頭を抱える哲を朝莉はクスクスと笑った。
「あ~あ、まさか哲先輩とラブホに来る事になるなんて思ってもみませんでした」
「僕もだよ。ゴメン、そんなつもりじゃないから安心して」
「そんなつもりって?」
「いや、それはその…もう勘弁してくれよ」
タジタジになりながら哲は悲鳴をあげた。正直、この状況は彼のキャパシティーを遥かにオーバーしていた。
そんな哲を呆れたように見やり、朝莉が溜め息をついた。
「……もぉ、ヘタレですよね哲先輩。知ってましたけど」
「なんだよ、悪かったなヘタレで」
「はいはい。わかってましたよバ~カ」
ボスっと殴られ、哲は呻いた。
「ちょ、痛いな!なにすんだよ」
「哲先輩が悪いんでしょ?どう考えても」
「なんでだよ」
抗議の声をあげた哲の肩に朝莉の頭が乗ってきたのはその時だった。
「……これだけキラーパス通してるのに悉くスルーするとか、決定力不足すぎじゃないですか?」
肩にもたれかかられたまま、恨めしげに睨まれて哲はたじろいだ。
「はぁ?なにがだよ」
「……だから、ちょっとくらいならオーケーだって言ってたのに、バカ」
「ちょっとって何が……えぇ!?……えぇぇぇっ!?」
「やだ、大声出さないでくださいよ」
「ちょっとって、え?え?なにがどこまでがちょっとなの?ねぇ?ねぇ?」
「あぁ~もう!キモいからやっぱりダメ!」
突き飛ばされてしまった。真っ赤な顔をした朝莉に恨めしげに睨まれる。
引っくり返ったまま、哲は尋ねる。
「ねぇ、さっきのってひょっとして」
「一時の気の迷いですから忘れてください!精神的にドン底だったから、一瞬血迷ってしまっただけですから」
「はい」
すっかり機嫌を損ねてしまったらしい朝莉にそっぽを向かれ、気まずい空気が流れた。
「……ねぇ今野」
「なんですかヘタレ先輩」
「ごめん。よくわかんないけどごめん」
「まだわかんないとか。ありえない」
「いや、その、なんというか……いや、おまえが何を言ってんのかなんとなくはわかるよ。でもさ、それ、僕の誤解だったら最悪の展開だし」
返ってきたのは重たい溜め息だった。
「……誤解って……嫌いな人とだったら絶対こんな場所来ないでしょ?」
「ねぇ……それってつまりさ」
「うるさい。人が落ち込んでるのにつけこんでホテルに連れ込んだくせに」
「うわぁ、ひどい言い草」
「だってそうじゃないですか。全部先輩のせいですよ」
枕を投げつけられた。
「先輩が訳のわかんない事に首を突っ込んだりするから、私まで巻き込まれて、何人も人が死んで…とうとう私、人殺しにまでなっちゃって」
「今野」
朝莉が泣いていた。
「だからせめて警察に捕まる前に、好きな人に素敵な思い出を作ってほしかったのに……それなのに肝心の相手はヘタレのウスラ馬鹿とか最悪じゃないですか!泣きたくもなりますよ」
返す言葉もなかった。
そもそも、哲がハヅキさんなどに興味を持たなければ、そしてその後に出会ったミヅキさんを追いかけさえしなければ、多くの悲劇は避けられたのだ。
少なくとも、目の前の少女に関しては彼の被害者である事は間違いなかった。
気づいた時には哲は朝莉を抱き締めていた。
「ごめん」
「うるさい」
「ほんとごめん」
泣きベソ顔の朝莉が睨んでくる。
「本当に悪いと思うなら責任とってくださいよ」
「え?あ。うん。初めてだけど頑張るから」
「ちょちょちょ!?そうじゃなくて!物事には順番があるでしょ」
「あ、そうだよね。えぇと、こういう場所ってちゃんとゴム置いてるよね」
「じゃなくって!それよりずっと前の段階の話ですよ!なんかあるでしょ普通!?ほら、意思表示的なアレですよ!」
あぁ、と哲は頷いた。
「今野」
朝莉に向き直り、姿勢を正した途端、何かを期待した目で見つめられ、哲は羞恥と緊張で押し潰されそうになった。




