8、集束する戦火(その9)「糸の切れた傀儡の幸福」
その晩以降、雪はたびたび捷子におまじないをかけられた。
その度に彼女の身体は驚くほどの力を身につけていった。
試しに走ってみたら陸上の世界新記録は間違いないほどの速さで駆けられたし、停まっているトラックをまるでベビーカーみたいに押して歩く事もできた。
まるで、魔法みたいだった。
いや、違う。
捷子は本物の魔法使いなのだ。
異能の力を得てからは、捷子のお使いも増えてきた。
夜更けに飛び出してひとっ走りすれば前よりも容易く捷子の親友に会えるようになったし、帰りも職員たちに見つかる心配もなく自分のベッドに戻ってこられるようになった。
その度に捷子は雪を褒めてくれた。
雪はあの少女の嫉妬を押し殺しつつも、その時ばかりは抱き締めてくれる捷子の抱擁の中で至福の時間を過ごす事ができた。
やがて捷子と出逢って一年近くが過ぎた頃、施設に来客があった。
なんでも、何処かの凄い大会社の会長が施設を訪問して多額の寄付をくれる事になったと言う事で、職員も子供たちもその時ばかりは大騒ぎだった。
「捷子、知ってる?すごく偉い人が来るんだって」
捷子はいつもと変わらない落ち着いた物腰で、ただ微笑だけを返してきた。
「そうね。やっとこの時が来たわ」
当日、高級車の後部座席から杖をついて現れた老人は、歓迎する子供たちや用意されたセレモニーもそこそこに、少し離れた所に佇んでいた捷子の所に進むと、その手を取って涙を流した。
捷子がその老人――和光惣吉の邸宅に引き取られる事になったのはその翌日の事だった。
その話を聞いた雪は、食事も摂らずに部屋に引き篭もり、ベッドの上で一日中泣いて過ごした。捷子との別れなど到底受け入れられそうもなかった。
だから捷子が雪の部屋を訪れた時も、雪は嬉しさよりも悲しさと腫れてしまった泣き顔を見られた羞恥ばかりが先走って捷子をまともに見ることができなかった。
「どうしたの?部屋から出ないでずっと泣いてるなんて」
苦笑しながら捷子は、運んできた夕食の盆を雪の学習机の上に置いた。
もうじきお別れだというのに、どうして捷子はこうして笑ってられるのだろう。もしかしたら、別離で胸が張り裂けそうなのは雪だけで、捷子は雪との別れなどどれほども思っていないのかもしれない。
「だって……捷子が……出て行っちゃう……」
子供のようにベソをかきながら答える雪に苦笑を浮かべると、捷子は彼女の寝台に自分も腰かけてきた。
「バカね。そんな事で泣いていたの」
「バカってひどい…」
「ごめんごめん、貴女にはまだ言ってなかったかしらね」
捷子は言いながら雪の髪を優しく撫でてきた。こんな時なのに、髪を梳いてくる捷子の白くて綺麗な指先は心地よかった。
「雪、貴女も一緒よ」
「……え?」
雪は驚いて顔を上げた。
「やっぱり聞いてないのね?ちゃんと説明も聞かないで部屋に籠もっちゃうんだもの」
呆れ顔を浮かべて彼女の目尻に溜まった涙を指で払い除けた後で捷子は微笑んだ。
「だから、貴女も私と一緒に行くのよ。住み込みで和光さんの家で働かせてくれるっていうの。勿論、貴女が嫌なら無理強いはできないけれどもね」
雪はこの奇跡に暫く呆然とした後で、感極まって捷子に抱きついた。
そうして、雪は和光惣吉の邸宅で捷子と暮らすことになった。
施設しか知らない彼女にとって、大富豪の邸宅での暮らしはまるで童話の夢物語みたいな日々だった。
勿論、その主人公のお姫様は彼女ではなく捷子なのはわかっていた。雪はそのついでで連れてこられた捷子の侍女の役である事はわかっていたし、本人もそれに異論はなかった。
唯一、想定外だったのは、捷子の親友である例の少女――煤ヶ谷柑那もまたこの屋敷に移ってきたことだった。
大喜びで柑那に抱きつく捷子を見て、暗い嫉妬の炎を燃え滾らせながらも雪はそれを堪える事ができた。
どういう事情かはわからないが、柑那は普段は人目につかない屋敷の離れで人目を避けて暮らしており、捷子もおおっぴらに彼女に会いにいける訳ではないようだ。
自然、捷子との時間は雪の方が長くなる。
時折、人目を忍んで捷子が柑那に会いに行く数時間さえ我慢すれば、捷子は雪のものなのだ。
それに、屋敷での生活は何不自由ないものだった。
住み込みのお手伝いという名目で屋敷に移ってきた二人だったが、実際に彼女たちが働かされる事は殆んどなかった。
捷子などはまるでこの家の令嬢のごとき扱いを受けていたし、雪だって多少の雑用を命じられた他は殆んど捷子の身の回りの世話ばかりを任されていた。
それだって、大概の事は捷子は自分でやってしまうので、殆んどやる事もなかったのが実情だ。
代わりに、雪が捷子からおまじないをかけられる頻度は増加した。
時には禍々しい印象の儀式さえ行われ、雪が苦悶でのたうつ事もしばしばだった。
けれどもおまじないが終わった後の捷子はいつも以上に優しくて、そして雪自身、自分の力が増していくのを確信できた。
そしてもう一つ、雪は格闘技を習わされた。プロの格闘家の道場に通わされて、本格的な稽古を受けさせられた。捷子から与えられた力は使うことを禁じられていたから、習い始めた当初は筋肉痛でまともに動けなかった。
それでも、雪はこの稽古を嫌がらなかった。体を鍛えておけば、捷子の身に何かが起きた時、彼女が捷子を守ってあげられる。そう思っていた。
捷子が誰かに追われ、狙われる立場にあるという事は雪も既に薄々感づいていた。
もし捷子が暴漢に襲われて万が一の事があったら――いや、あの美しい捷子の白い肌に傷でもついたらそれだけで大問題だ。
雪は師範が驚くほどの集中力で稽古に励み、半年も経つ頃には驚くべき成長を遂げていた。
その分、彼女の体には生傷が絶えなかった。
捷子にそれを見られた事がある。
入浴中、戯れに捷子が浴室に入ってきたのだ。
雪は声にならない悲鳴をあげて、必死にその身を隠した。貧相な体を捷子に見られた羞恥以上に、筋肉がついて青痣や擦り傷だらけになった醜い体を見られて軽蔑されたくなかったのだ。
「……痛々しいね」
「見ないで」
雪の懇願も虚しく、捷子は青黒く変色した彼女の脛に触れた。
「ごめんね、雪」
捷子も彼女が格闘技を習わされたその理由を知っていた。
雪は慌てて答えた。
「全然平気。私みたいにブスな子は青痣があろうが大差ないんだし、それで捷子を守れるなら」
「雪はブスなんかじゃないわ。こんなに可愛いんだもの。むしろ、男の子に取られるんじゃないかって心配してるのよ。道場でも告白されたんですって?」
雪は真っ赤になった。
「どうしてそれを……でも、そんなのすぐ断ったから!」
「あら勿体無いわ」
「ううん、勿体無くなんてない。私には……捷子だけがいればいいから」
精一杯の勇気を奮った告白は、あっさり冗談だと流されてしまった。
「まぁ嬉しいわ。じゃあ私と結婚しちゃう?」
途端、稽古で殴られても滅多に噴き出さない鼻血が浴室の床を穢し、和光邸は時ならぬ大騒ぎになってしまった。
だから、あの和光惣吉が捷子にプロポーズして、そして捷子がそれを受け入れて結婚したと知った時の雪のショックたるや想像を絶するものがあった。
勿論、本来ならば何の縁もない彼女を引き取ってくれた惣吉への恩義は雪だって感じている。少し怖くて気難しそうだけれども、時折、顔を合わせると優しい言葉をかけてくれたりもする。
だが、孫のように年の離れた捷子に手を出そうとするのであれば話は別だ。そして立場上、捷子がそれを断りがたい立場にいることも明白だった。
邪な下心から捷子を引き取ったのかと思えば、雪は本気で惣吉への殺意を覚えた。
彼女が本気になれば、惣吉など一瞬で仕留められる。
そうはしなかったのは、捷子直々に止められたからだ。
「いい?変な事を考えてはダメよ?」
どうやら雪の考えなどお見通しだったようだ。
「でも、このままじゃ捷子があのお爺さんと……」
「いいのよ、それで。私はお願いして惣吉さんと結婚するのよ」
「なんでよ!?ありえないわ」
雪の反対に、捷子は困ったように笑うだけだった。
「私にも、色々あるのよ。雪、貴女にも言えない事がね」
口を封じられた雪の恨みがましい視線に耐えかねたのか、捷子は宥めるように告げてきた。
「それに雪、結婚するとはいっても、たぶん私たちの結婚は貴女が考えてるようなものじゃないの」
事実、捷子と惣吉の結婚は名目的な意味合い以上のものではありなかった。
惣吉自身が何度目かになる再婚であり、また花嫁が未成年の少女という事もあって結婚式の類は一切行われず、ただ弁護士立会いの下で幾つか作成された書類と、近くの教会で撮られた写真だけがその微かな証拠を示すものであった。
数枚の写真を撮った後で老いた新郎はさっさと教会を後にし、そして新婦の傍には僅かに雪と柑那の二人だけが残るだけだった。
花嫁姿の捷子に複雑な表情を浮かべる雪とは対照的に、柑那は素直に捷子の純白のドレス姿を羨み、楽しそうに彼女と同じ写真に収まっていた。
「いやぁ~、とうとう捷子に先越されちゃったか~しかも超玉の輿だよね~羨ましい」
「うふふ。こうしてこんな格好をすると、なんだかんだで嬉しいものね」
どうして二人はあんな風に笑っていられるのだろう、と雪は思った。
どう考えても、八十過ぎの老人と十六歳の少女の結婚では二人が一緒にいられる時間などそう長くはなく、愛情よりもむしろ打算ばかりが目に付いてしまう。
捷子が聡明であればあるほど、彼女にはそうした打算や欲得で結婚などしてほしくはなかった。
「雪、貴女もこちらにいらっしゃい。一緒に写真を撮りましょう」
捷子の誘いを雪は断った。
「ごめんなさい。先に帰る」
捷子の結婚を心から祝福などできなかった。
同時に、まるで彼女たちが結婚したばかりのような捷子と柑那の仲睦まじさに入っていけない自分に敗北感を覚えていた事に雪は自分で気がついていた。
痛烈な痛みに無理やり意識を戻された。
目の前の女は雪がこれまで立ち会ってきたどの相手よりも強く、速かった。ギリギリでかわし損ねた銃剣の刃が雪の頬を掠めて血が噴き出す。
死力を尽くした死闘は、確実に雪の命を削っていた。
最初に相手をした怪力の女、或いは参入してきた目の前の女、どちらか片方だけが相手であればまだ勝機は――少なくともなんらかの活路は――見出せたかもしれない。
だが、このレベルの相手に二人がかりで襲いかかられては雪にできる事は幾らもなかった。
速度の差を活かして最初の女を仕留めようとした雪の攻撃は、それをあっさり見破られて逆に敵の反撃を食らう羽目になった。
二人目の女の攻撃は一発一発自体はたいした威力はなかったが、それでもあの手にした銃剣をまともに食らえば即座に致命傷になりかねない。
そして少しでも隙を見せたら最初の女が襲いかかってくる。こちらに対応しようとすれば、途端に二番目の女が迫ってくる。
なす術がなかった。
辛うじて振るった拳で最初の女の腕を砕き一矢報いたのが限界だった。
即座に二番目の女ががら空きとなった雪の体に銃剣を深々と突き刺してきた。
雪の口から生温かい液体が溢れる。
だが、これは雪が半ば狙っていた瞬間でもあった。
武器を雪の体の中で失い、既になった二人目の少女に雪は組みついていく。
一瞬でも押さえ込めれば、後は力ずくでその首をへし折るだけだった。
驚愕に染まる少女の顔に向けて雪は手を伸ばし、その途中でガクリと後ろに引き戻された。
振り返った先に、最初の女が片手で雪の襟首を掴んでいた。
次の瞬間、強烈な遠心力と共に雪の身体は吹き飛び、壁に叩きつけられた。
薄れゆく意識の中で、雪は小さく最愛の友人の名前を呟いた。これで彼女は雪の事を親友と認めてくれるだろうか。
捷子の微笑を思い浮かべながら、雪は深い闇へと落ちていった。




