7、和光惣吉の追想(その7)「ただ君を守りたかった」
和光惣吉は自らその児童養護施設を訪れた。
施設の職員が泣いて喜ぶほどの寄付金も、この老人の気紛れを美談として企業の慈善活動に仕立て上げようとする広報部の連中も惣吉にはどうでもよかった。
ただ、そこで待ち受けていた捷子の昔と変わらぬ姿に惣吉は感無量となっていた。
「……久しぶりだな」
「はい。ご無沙汰しておりました」
捷子は懐かしい微笑と共に惣吉に近づき、彼の手をとった。
周囲の者たちが鋼業王の突然の涙に驚く中、彼は廣山捷子を引き取るようにすぐに弁護士に命じた。
廣山捷子はその日の内に養護施設を出て、和光邸で住み込みで働く事になった。
全ては彼女の願いどおりだった。
あれほどに祖国に忠誠を誓っていた筈の捷子が突然、惣吉の庇護を求めてきた理由について、惣吉は詳しく尋ねたりはしなかった。
「驚きました。実は今でも少し信じられません。どうして私を助けてくださったのですか?」
逆に捷子に尋ねられ、惣吉はまるで少年のように照れ笑いを浮かべた。
「約束したじゃないか。君に困ったことがあったら私が助けると」
そう言って彼は懐から大事そうに捷子の手紙を取り出してみせた。「もしあの時のお言葉が嘘でなければ、助けて下さい」――そう捷子から手紙で頼まれた事が彼にとっては全てであった。
「ですが、これは裏切りですよ」
むしろ惣吉の身を案じるように尋ねる捷子に惣吉は笑いながら首を振ってみせた。
「勿論、今でも私は陛下と祖国に忠誠を捧げている。それは誓って本当だ。……だが、君が困った時には手を貸すという誓いもまた私の本心なのだよ」
惣吉は杖を頼りに自室の窓に近づき、カーテンを開けた。窓の向こう、遠くに無数の灯が夜の東京を照らしている。
「最近私は思うのだ。この国――敵国によって作られたこちらの日本の事をね」
「こちらの、日本」
「そうだ……この国は文化も持たず、歴史も持たず、お仕着せの民主主義だの自由主義だのといった空疎な理念を弄ぶだけの空疎で歪な紛い物だ。だが……この国には平和と繁栄がある。たとえ多少の不満があろうとも、多くの国民はそれでも他国と較べれば充分すぎるほど人がましい生活を享受できている」
捷子は黙って頷いた。
彼女も多くの時間をこの東京で過ごしてきた。この新日本の現実を知らない筈がなかった。
「無論、金だけが全てではない。人はパンのみに生きている訳ではない。だが、果たして彼らは今、目の前に現実にある繁栄を捨ててまで、今さらに我が祖国との間に民族の統一だの自主自立だのといった理念を受け入れるのだろうか、と」
新旧二つの日本の間には度々、統一の話も持ち上がっては消えていた。
分断国家の統一は理想ではあったが、現実には互いの政治体制の違いや経済力の格差、更には米国との外交政治的な問題が山積しているのが現状であり、また新日本の国民の多くは思想的、軍事的アレルギーから旧日本を毛嫌いする者も多かった。
「もしそうであるならば私の、そして君たちの今までの努力はいったいなんだったのか……この年になって、私は恐ろしくなったのだ」
窓を閉め、惣吉は顔を曇らせた。
捷子が憂い顔で近づき声をかけてきた。
「和光さん、具合が悪いのでしたらお休みになられた方が……」
その彼女の白い手を惣吉の皺だらけの手が掴んだ。
「もしかしたら、我々は久那守葉月の呪いにまんまと惑わされていたのかもしれない」
震える手で惣吉は唸る。
「なまじ君たちの力があるばかりに我々は武力に走り、対話と強調を疎かにしていたのかも知れぬ。たとえ一時の屈辱を覚えても米国に頭を下げ、耐え忍べばこの国の繁栄を祖国の国民たちにも与えられたのかもしれない」
「それは……考えても詮無きことです。経済的発展の代償にこの国は多くの物を失ったことも事実です」
「わかっている。だが、それでも我々大人が君たちに過剰な犠牲を強いたのは間違いない」
沈黙する捷子に惣吉は枯れた声で告げる。
「君からの手紙を貰った時、これは神が私に与えた贖罪の機会だと思ったのだ。偽善かもしれない。だが、それでもかまわない。せめて君の今度の人生くらいは幸せに過ごさせてやりたいのだ」
「和光さん」
「なぁに、見ての通り、私はどうせ老い先短い身だ。恨まれても怖いものなんてないよ」
惣吉はあえて楽しそうに笑ってみせた。
彼は徹底して捷子を守るつもりになっていた。既に新日本で確固たる足がかりを築いている彼が本気を出せば、さしもの日本帝国もおいそれとは手出しができない事はわかっていた。
「それに、勝算はあるのだろう?」
惣吉の問いかけに、捷子は躊躇いながらも頷いた。
「はい。チャンスだと思いました。殆んど同じタイミングで私と柑那がこの新日本領内に転生できました。そして、まだ皇軍は私たちに気づいていません」
「つまり、連中が君たちを奪還できないような状況を作り上げてしまえばいいのであろう?」
「それだけでは足りません。もし彼らと交戦することになった時に、迎撃しうる力も必要です。……ただし、こちらは私の方である程度、目算が立ちました」
「ならば、私は既成事実を作り上げればよいのだな?」
頷いた後で、惣吉は楽しげに笑ってみせた。
「そこで一つ、私に知恵があるのだが聞いてはもらえまいか?」
「なんでしょう?」
「うん。捷子くん、君さえよければだが――私の妻に、ならんか?」
さしもの捷子もこれには面食らったらしい。
暫く口をパクパクさせて惣吉を見やってきた。惣吉は声を出して笑った。
「いやいや、案ずる事はないよ。もはやこの老いぼれに男としての能力は残っておらん。十年前ならいざ知らず、もう君にどうこうできるような気力も残ってはいないよ」
耳まで真っ赤になりながら、捷子が困惑した視線を向けてきた。
「まぁ、それでも君の人生に結婚歴がついてしまうから無理強いはしないがね。けれどもこう言ってはなんだが、私の財布には金なら腐るほど余っているし、あちこちに融通も利く。それに私の妻ともなれば幾ら連中でもやすやすと手を出す事はできん。私が死んでも、君には遺産が残せる。皮肉な事だが、こちらの日本は金さえあれば生きていける。君は、柑那君と二人でこの邸宅で好きに暮らせばいい」
惣吉の言葉が与太の類ではない事に気づいた捷子が思案する顔になった。
暫くの沈黙の後で、おかしそうに微笑む。
「そうですか……私が和光さんのお嫁さんですか」
「どうかね、この爺いのプロポーズを受けてはくれんか?」
おどけてみせながら、不意に惣吉は気がついた。
もしかしたら彼は昔から本当に捷子に恋をしていたのかもしれないのだ、と。
目が覚めた。
この十数年というもの、誰との同衾も無かったベッドで惣吉はゆっくりと身を起こした。
邸内で誰かが争い、走り回っている。
彼が起き上がり、居住まいを正し終えたその時、扉が開き覆面姿の男たちが雪崩れ込んできた。
「廣山捷子は何処だ?」
惣吉は拳銃を突きつける男に向けて薄く笑ってみせた。
「残念だったな。生憎、妻はもうここにはいない」
「何処に行った?言え」
「はて、最近はとみに物忘れが激しくてな。もはや何も覚えておらぬ」
途端、激しい打擲を受けて惣吉は地面に倒された。
「この裏切り者の色惚け爺ぃめ」
男が銃口を向け、罵る。
(思えば、あの久那守葉月の妹に命を救われたその時、私も葉月の呪いを浴びてしまっていたのかもしれないな)
天井をぼんやりと眺めながら、惣吉はそう考えた。
既にこの邸宅を離脱した彼の細君の顔が脳裏に浮かんだ。
(捷子……生きろ。いいな、幸せになるんだ)
屋敷を去る直前、涙を流した捷子の最後の別れの言葉が蘇る。
「さようなら、惣吉さん。今までありがとうございました」
もはや、後悔などある筈がなかった。
引き金が引かれ、飛び出した銃弾が彼の体を貫くその時まで、惣吉の目に映っていたのは、廣山捷子の可憐な姿だけであった。




