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6、月に怯えて逃げ出せども(その4)「哲、遁走」

 背中から伝わってくる石壁の冷たさを感じながら、門倉哲は悄然と項垂うなだれていた。

 つい先程、背後の塀越しに民家より僅かに聞こえた悲鳴はもう途絶えて久しかった。

 やがて、哲のもたれかかる塀を越えて小笠原みづきが姿を現した。彼の姿を認めて近づいてきたみづきがぼそりと声をかけてきた。

「行くぞ」

 哲は顔もあげずに、掠れた声を出した。

「……殺しちゃったの?」

 問いかけに返事はない。

 それでも哲は言葉を続けた。

「あの子、悪い子なんかじゃなかったよ?この数日ずっと調べてたけど、あの子は何一つ悪い事なんかやってなかったよ。真面目でおとなしくて、普通の女の子だよ」

「その説明はさっきも聞いた。あぁその通りだったな、ろくに戦おうともせず、泣いてるだけだった。――さぁ次だ。西の方角に微量だが呪詛の痕跡を感じた。該当する目標を探してくれ」

 淡々と口を開くみづきに、哲は初めて感情を爆発させた。

「いやだ!」

 怒りのままに、目の前の少女を睨みつけて哲は怒鳴る。

「もうヤダよ!人殺しの手伝いなんて!なんで殺したんだ!抵抗しなかったんだろ!?なのになんで……これじゃミヅキさんが悪い奴じゃないか!なんでだよ!こんな事して、心が痛まないの!?」

 憤怒をぶつけられ、それでも少女の顔は変わらなかった。

「哀れだとは思う。だが、自業自得には違いあるまい。さぁ立て。命令だ」

「いやだ!いやだよもう!」

 哲はみづきを突き飛ばし、走り出していた。

 恐ろしかった。

 みづきは次から次に少女たちを殺して回り、そしてその片棒を哲は担がされていた。

 嫌なのに、もうみづきには関わりたくないのに、彼女がそう命令すれば、気づいた時には哲はみづきの言うがままに次の獲物を見つけ出し、調べていた。

 罪悪感と恐怖で気が狂いそうだった。

 見知らぬ街を闇雲に走り、すれ違う人影に怯えて悲鳴をあげ、肺腑が悲鳴をあげるまで駆け続けた。

 目指すべき目的地があった訳ではない。ただ一歩でも遠く、みづきから離れたかった。

 がむしゃらに走り続け、足が攣りそうになり、心臓が爆発寸前になったところで漸く哲は立ち止まった。

 気づけば彼はまったく知らない土地にいた。

 東京市内ということは間違いないのだが、地元ではない哲には、交差点の標記を見ても今自分が何処にいるのかなど検討もつかなかった。

 駅でも探して電車で帰るべきだろうか。

 だが、こんな時間ではとうに終電も走り去った後だろう。

 手持ちの財布を思い返せばタクシーもホテルも利用できそうもない。

「どうしよう……」

 こんな土地勘のない場所で一晩を過ごすのはひどく憂鬱だった。それに、今にもみづきが後ろから追ってきそうな気がして怖かった。

 切羽詰った哲は、途方に暮れたように周囲を見回した。

 勿論、そこに何かがある筈も無かった。だが、哲の目は近くのアパートに吸い寄せられていた。

 一見して何の変哲も無い、二階建ての古びたアパート。だが、その中の一室がまるで磁力を持っているかのように哲を引きつけてくる。

 哲はポケットからスマートフォンを取り出した。アプリを立ち上げて弄ったその後で、連絡先から一人を見つけ出して電話をかける。

 数コールの後で不機嫌そうな応答があった。

『……なに?』

 哲は必死に語りかけた。

「あ、柚香ちゃん?助けてよ!」

 電話相手の舌打ちする音が聞こえた。

『はあ??ワケわかんないし。それと敬愛する偉大で可愛い柚香ちゃんでしょ??ちゃんと枕詞つけろって言ってんじゃん』

「それどころじゃないんだよ!追われてるんだ!助けてよ!」

 捲し立てる哲に、電話口の森本柚香は数秒間黙り込んだ後で、面倒くさそうな声を立てる。

「なにそれ?どういう事?てゆーか、今私ヤバいから暫く連絡すんなっつったじゃん?」

「ごめん!でも本当にこっちもヤバいんだ!助けてよ、お願い!なんでもするから」

『え~ムリ。今、あたし外に出らんないし。男なんだし自分でなんとかしなよ?じゃあ頑張って、グッドラック♪』

 非情な宣告と共に電話が切られた。

 哲は天を仰ぎ、「くそっ!」と足元の石くれを蹴飛ばした。まったくもって頼り甲斐の無いご主人様である。

「ふん、いいよ。そっちがその気ならこっちにも考えがある。てゆーか、()()()()()()()

 息巻いた哲が向かったのは先程見つけ出したアパートだった。

 今日びオートロックもない入り口を潜ると、近くの郵便物入れを見やる。居住者たちの名札が並ぶ中、一つだけ空白のままの部屋があり、そこにダイレクトメールなどの郵便物が溜まっている。

 哲は迷わずその部屋に向かった。

 インターホンを鳴らす。二度、三度鳴らすが応答はない。

 部屋の明かりも落とされているが、電気メーターが動いているのを哲は確認した。

 やおら携帯電話を取り出して再び通話ボタンを押す。途端、アパートの扉越しに室内から着信音が聞こえてきた。人の気配がした後で、哲の電話は通話先に繋がる事も無くコールの途中で切られてしまった。

 哲は鼻を鳴らした後で猛然とインターホンを連打し、ドアをノックして大声で叫ぶ。

「お~い、敬愛する偉大で可愛い柚香ちゃん!開けてよ!僕だよ!哲だよ!入~れ~て~!」

 30秒ほどした後でドカドカと足音が聞こえた後で扉が開く。チェーンをかけたまま、中から少女が睨んでくる。

「……殺すぞ」

「来ちゃった♪えへへ」

 満面の笑みを浮かべて答えた後で、哲は応対に出た少女をしげしげと見やる。

 年は10歳くらいだろうか。子供っぽいトレーナーにスカートという身なりは年相応の幼さを醸し出しているが、少したれ目がちの妙に婀娜っぽい目とショートカットの黒髪をした、数年後の成長が楽しみになる風貌の少女だ。

 いや、なんなら今すぐイケるな、などと感想を抱いた後で、哲は慌てて口を開いた。

「ごめんなさい。部屋、間違えました」

 丁重に頭を下げて扉を閉める。

「あれぇ?おかしいな。間違えちゃったかな」

 頭を掻きながら引き返そうとした哲の背後で、チェーンが外れる音がして少女が顔を出した。

「おいコラふざけんな」

「あ、ごめんね。お兄さんおうち間違っちゃった♪」

「…哲あんたそれ、わざとやってんの?」

「え?え~と」

 あらためてマジマジと少女を見やり、哲は「あぁ!?」と声をあげる。

「柚香ちゃん!?どうしたのそれ!?イメチェン!?ロリビッチやめたの!?うわ~気づかなかった!全然雰囲気違って見えるんだもん!え~、絶対こっちの方がいいよ~!うん、アリだよマジで!」

「ちょ、騒ぐな!……とにかく入れ!早く」

 慌てた様子の柚香に哲は部屋に押し込められた。


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