4、少女は夜に目覚める(その2)「交渉」
平和金属が誕生したのは戦後間もない1947年の事だ。
当時、日本の重工業を牽引していた財閥が本土決戦の混乱と新旧日本の分裂に伴い、或いは解体を余儀なくされ、或いは南九州の新興工業地帯への移転を余儀なくされる中で、大陸帰りの和光徳次郎が友人の平信之と共に旧財閥系の製鉄工場を格安で買い叩き創業したのが事の起こりである。
戦時中、上海において特務機関長として陸軍の謀略に携わっていた和光徳次郎は、その当時に蓄えた莫大な財産を殆んど失う事なく日本に持ち帰り、上海在住時に築き上げた政財界に連なる豊富な人脈をもって巧みにGHQに取り入り、終戦直後の混乱期に新日本の鋼業界に確かな足がかりを確保した。
その後の平和金属は朝鮮特需や東京市再整備計画などの恩恵を受けて着実に発展を遂げていったが、平和金属が一躍新日本のトップ企業に上り詰めたのは和光徳次郎の長男の惣吉の辣腕による部分が大きかった。
父の築いた地盤と人脈を元に、東京オリンピックや米国と旧日本との蜜月期の終焉、高度経済成長期などの時流を巧みに読んだ惣吉は次々と事業を拡大して商機を掴みとり、日本のみならず世界的な企業へと伸し上がっていった。
和光惣吉は新日本を代表する経営者の一人として見做され、新日本の政財界にも強い影響力をもたらす存在となった。10年前に代表取締役を娘婿の平信司に譲り会長職に退いた後も、依然として平和金属は和光惣吉の会社であり続けた。
その惣吉が80も目前となった昨年、突然、孫よりも若い16歳の少女との入籍を発表した時、東京どころか世界が驚愕し騒然となった。
以来、世間はこの老人の奇行に些か下世話な関心を示し、またそれ以来惣吉がグループへの直接の干渉を控えて隠棲の度合いを強めた事から、世間は和光翁の色惚けを噂した。
同社の株価は下がり、社内にも不穏な空気が流れ、それでも平和金属が崩れなかったのは、惣吉が時折表に顔を覗かせては未だ衰えぬ眼力と頭脳をもってその危機を見事に回避してみせ、この鋼業王の健在ぶりを見せつけたからだ。
表舞台から一線を引いた後も、世田谷区成城にある彼の邸宅には連日のように政財官様々な客人たちが訪れて和光翁の顔色を窺い続けている。誰もがテレビのニュースで目にした事のある大物から得体の知れぬ怪しげな者まで、出入りする人物は様々だ。
今宵の客はどちらかといえば後者に属するのかもしれない。
財界の大物の前に立つには不釣合いな吊るしの安スーツを纏った男たちは、だが待ち受けた和光の個人秘書によって惣吉の待つ応接間にあっさりと通された。
やけに背筋の良すぎる鋭い眼光の男たちを前に、笑みこそ浮かべなかったが和光は手ずから一本数十万もするコニャックを差し交わして歓待した。
中東の紛争に起因する原油価格の高騰についての月並みな世間話を交わした後で、男の一人がさりげなさを装った口調で本題を切り出した。
「ところで和光さん。最近、奥様が色々とご活発にご友人たちとの交友の場を設けられていると伺いましたが」
70過ぎの老人とは思えぬ眼光で和光は男を見やる。
「なにぶん妻は幼い。この家に籠もっているよりも外で遊びたい年頃なのでね」
「なるほど、ご寛大でいらっしゃる。学生の身ならば外で見聞を広める事も重要でしょう。ただし、少しだけ派手に羽目を外しすぎているという噂も耳にしました。ご友人との友情を深めるあまり、うちの子供たちとも揉めてしまったとも聞きます」
優男然とした男は人の良さそうな顔に苦笑を浮かべてみせた。
「ほう」
「いえ、どちらがどうという話ではありません。彼女たちについては私が至らぬばかりに監督不行き届きな部分もありますので。ただし、奥様が仲良くされていらっしゃるご友人方は少し問題があるようでして」
「先日、妻が登校中に刃物を持った暴漢に襲われたらしいな。それもその問題とやらが原因かね」
和光翁の言葉に男は苦笑を深くしてみせた。
「有体に言えばその通りです。奥様にもしもの事がなくて何よりでした。あまり危険な遊びには関わらない方がいいかと思います」
「それは違うな。まずは責められるべきは凶行に走った輩ではないのかね?それとも君たちは犯罪者に肩入れするのかね」
「滅相もありません。和光さんと我々は半世紀以上もの長きに渡ってうまくやってきました。我々は和光さんの味方ですよ。私が言いたいのは、不測の事態が起きないように話し合いたいという事です――失礼ですが、ただいま奥様はご在宅中でしょうか?できれば顔を見てお話させていただくのが一番かと思うのですが」
僅かに白濁した目で男をじっと見据えてから和光翁は手元の葉巻を咥えた。男が如才なく手を伸ばしてライターで火を点ける。コイーバの熟成された香りが紫煙と共に漂う。
「妻はまだ子供でな。客人のもてなしに不調法があってはならん」
「それは失礼いたしました。なんにせよ、我々はお互いの領分を尊重しあって今後もうまくやっていかなくてはなりません。勿論、それは和光さんのお力添えがあってこそ成り立っております。まったくありがたい事です」
和光惣吉が客人たちをもてなしていたその頃、その広大な邸宅を一人の少女がそぞろに歩いていた。
スタイルのよい体をダメージデニムのショートパンツとシースルーのブラウスで飾り、その上から短いジャケットを羽織っている。年齢に不相応な色気を撒き散らしながら彼女はブーツを履いたまま土足で邸宅を歩き回っていた。
明らかに部外者である事といい、また人目を――特に異性の目を――惹きつけそうな容姿であるにも関わらず、彼女とすれ違うこの家の使用人たちはまったく少女に注意を払わなかった。咎めだてられる事もなく幾つかの部屋を巡り歩いた少女は、次に辿り着いた部屋で初めて足を止め、室内に潜り込んだ。
どうやらこの屋敷の女主人の私室らしきその部屋は、その彼女の年齢を反映してか、落ち着いた基調の家具の上に愛らしいぬいぐるみが飾られ、窓際には小さな花の鉢植えが置かれているなど、少し大人ぶった背伸びと年相応の少女趣味の混交された部屋だった。
侵入した少女は明かりもつけずに室内を見回す。
部屋の持ち主はどうやらここには居ないようだった。化粧台や文机、書棚を巡った後で少女はベッドに辿り着く。まるで物語の姫君の使うような寝台の枕元に飾られた写真立てに気づき手にとった。
そこには部屋の主の和光捷子と、もう一人別の少女が満面の笑顔をカメラに向けていた。
まるで彼女たちに微笑み返すように艶やかに口許を綻ばせた後で、少女は写真を元に戻して何食わぬ顔で部屋を出た。
不意に彼女は小首を傾げた。何処からかピアノの音が聴こえてきた。少女は踵を返してその音色を辿る。ピアノは離れから聴こえていた。『月光』だろうか。
その入り口付近に男が立っていた。
スーツの下にはちきれんばかりの筋肉が詰まっているのがわかる。不動の姿勢を保ったまま、視線だけが間断なく周囲を探っている。プロのボディーガードだ。
少女はその男の前を音もなく横切る。男の動きに変化はない。そのまま彼女は離れの裏手に回る。そこにはささやかな西洋風の庭園が設けられ、デッキやチェアが引き出されて茶器が湯気を立てている。
小型のピアノに引っ張り出されてそこで誰かが演奏しているのだ。
少女は更に接近を試みようとして、足を止めた。
近くの茂みに、何かが潜んでいた。
「止まれ――誰か」
低く聞こえる誰何の声でが彼女の耳朶を打つ。少女は息を吐く。
「誰か」
男の低い声で二度目の誰何と共に槓桿を引く音が聞こえ、
「誰か」
三度目と同時に少女は転がってその場を離れた。同時に、発砲音が響き、先程まで彼女の立っていた辺りに弾痕が穿たれる。
ピアノがとまる。
茂みから日本兵が飛び出してきて、小銃の先に着いた銃剣を少女に目がけて突き入れてくる。少女は懐から取り出した大型のナイフでそれを流しざま、もう片方の手に握った拳銃を兵士の顔に向け放った。のけ反り地に倒れる日本兵を無視して少女は近くの植え込みに身を隠す。猛然と誰かが駆け寄ってくる。
女だ。暗視ゴーグルをつけ、手には長い槍を掴んでいる。
追われる少女は土に塗れるのもかまわず匍匐で距離をとり、そして何を思ったか植え込みの中でブラウスに手をかけボタンを外し始めた。
小一時間近い会談は、唐突に応接の扉をノックして飛び込んできた秘書により中断を余儀なくされた。
秘書の耳打ちを受けた和光惣吉は眉一つ動かさないままに客人たちに告げてきた。
「所用を思い出した。乃木君、すまないが」
男は物分りの良い顔で肯いた。
「さようでございますか。ではそろそろ我々もお暇させていただきます。お忙しい中、ありがとうございます」
あっさりと身支度を済ませた男は、秘書に導かれて退出する間際、和光翁に向けて慇懃に会釈をした。
「では先の件、くれぐれもよろしくご検討願います」
「わかっている」
秘書に導かれて屋敷を出る途中、男は不思議そうに彼に尋ねた。
「なにか騒がしいですね。何かお困りごとでしょうか」
秘書は平静を顔に貼りつかせたまま答える。
「あぁ、これはお恥ずかしいところを。なんでも部屋に鼠が出たとかで家政婦たちが騒いだみたいです。なにぶん古い建物なもので」
「これだけ広ければお屋敷の維持も大変ですね。いや、私などにはそんな生活は見当もつきません」
酒で上機嫌になった男は秘書に陽気に笑いかけた。
「もし我々の手助けが必要な時はいつでもお声がけください。鼠程度でしたら即座に駆逐してご覧に入れますので」
それではどうも、いえいえこちらこそと社交辞令を交わし、待たせていた運転手に合図して車に乗り込み、巨大な正門を後にする。
遠ざかる和光邸を振り返り確認した後で、男は声を出した。
「見つかったのか、常磐」
後部座席の男の隣に、いつの間にか少女が座っていた。何故だか白いシーツに包まり、申し訳なさそうに男を見つめ返す。
「申し訳ありません、班長殿。向こうは英霊殿を呼び出して警戒していました。私の油断です」
男はため息を洩らした。
「和光のご老人に気づかれたかな」
「こちらの正体は暴露してはいない筈です。ただ、ステルスを高める為に服と下着を置いてきてしまいました」
「捕まるよりはマシだ。やむをえないよ」
男はスーツの上を脱ぎ、少女に渡した。
「だが厄介だな、常磐でも見つかるほどの兵士を操るか。それほどの警戒をして、何を隠している」
一人ごちるような男に、借り受けたスーツを羽織った少女は告げる。
「煤ヶ谷柑那がいます」
「……煤ヶ谷?あの久那守の傍流のか?」
「はい。廣山捷子の寝室に写真が飾られていました。未確認ですが、柑那らしき姿も庭園で見かけました。恐らくはあの離れに匿われているのかと」
男は目を細めて考え込んだ。
「現界していたのか。だが、何故だ。それならば何故俺たちにそれを隠す?」
答えのない自問の後で、男はため息をついた。
「坂木、やはりあの爺さん、何か企んでいるな」
「妖怪爺に暴走気味のレゼルボア、それに久那守の眷族か。確かに厄介な事になりそうだ」
助手席で煙草に火を点けていた連れの男が窓の外に煙を吹いた。
「ユズの情報どおりか。だが、常磐でさえ手こずる警戒ぶりだ。外から探るのは厄介だな」
「じゃあどうするよ?下手打ってあの爺さんに臍を曲げられたら面倒だぜ、乃木?」
日本帝国陸軍中尉乃木誠一郎は将校に相応しき果断さで決断を下した。
「〝草〟を放つ。廣山捷子の道楽に付き合いながら、内部から探るしかあるまい。奴らに面が割れてない撫子を潜り込ます」




