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4、少女は夜に目覚める(その1)「今野朝莉の夢」

 夜の旧校舎に今野朝莉は一人立ち尽くしていた。

 長い廊下を照らす蛍光灯はその全てがジィと不快な音を立てて明滅を繰り返し、その度に宵闇が人工灯と交互に寒々とした空間を支配する。

 あぁ、またこの夢だ――朝莉は思う。

 臆病な彼女が無人の校舎にただ一人で残る筈も無く、帰りが遅くなる時にはなんだかんだ理由をつけて哲や誠司たち先輩を巻き込む筈だ。だから夜の旧校舎に一人留まっている今の状況は現実ではありえないとすぐに理解した。第一、旧校舎は先日の火災で取り壊しになったばかりではないか。

 もう一つ、理由がある。

 この光景は以前にも見た事がある。それも一度や二度ではない。あの火災の夜以来、朝莉は数日おきにこの夢を見続けていた。

 恐らく火事に出くわしたショックがまだ心の何処かで抜けきっておらず、それ故にその時の恐怖と不安の記憶が夢となって現れているのだろう――話の種に放送部でこの話をした時、先輩の八木実花がそんなもっともらしい理由づけを話していた。

 この夢が何度も見たいつものそれと同じならば――ほら、やっぱり。何かの破裂音が聞こえ始めた。

 朝莉の身体はその音に向かって勝手に動き出す。廊下を折れて別棟に目がけて走り出す。その様子を、まるで他人事のように朝莉は見守る。

 これはあの晩、彼女がとった行動そのままだ。

 別棟に飛び込んだ瞬間、何か重たい空気がべったりまとわりつくような不快な感触が全身を包む。

 朝莉は振り返る。いつの間にか、別棟の入り口に誠司が立っていて声にならない声で何かを叫んでいる。朝莉の足は止まらない。誠司を置き去りにしたまま、何かに惹かれるように勝手に階段を昇り出してしまう。

 いやだ、行きたくない。

 行けば、またアレを視てしまう。

 彼女の意思とは無関係に朝莉の身体は三階を一気に上り詰める。辿り着いた三階は鼻につく獣じみた生臭い臭いに満ちていた。何かが争い喚く声が響き渡っている。

 ――いた。哲先輩だ。

 腰を抜かした哲が何か得体の知れない怪物たちに取り囲まれ、それを哲と一緒にいる少女が片っ端から倒している。

 三つ編みにセーラー服、モンペ姿の少女は同性の朝莉から見ても胸のドキドキしてしまうような美少女だった。

 そしてそれ故に朝莉は思ってしまう。そんな浮世離れして美しい少女ならば、当然それはこの世のモノであろう筈はないのに、と。

 なのに哲は魅入られたようにその少女の姿に見蕩れ、恐怖に怯えながらも逃げようともせずにそこに留まり続けていた。

 声をかける勇気は無かった。下手に話しかければ、あの哲たちの周りに群がる怪物たちにも気づかれてしまう。

 そうだ、あの日もそうだった。あの訳の分からない奇妙な体験について哲を小一時間ほど問い質そうと心に誓い、そしてそれは結局果たせなかった。

 あのなんと言ったか、妖艶な美人の刑事に固く口止めされたからだ。

 元来、お喋りな朝莉がそんな赤の他人との口約束を履行できる筈もなかった。けれども、あの吸い込まれそうな瞳に見つめられながら他言無用を誓わされたその後は、不思議と誰にも話す気が起きなくなっていた。

 肝心の哲にさえも、だ。

 あの日以来、哲は明らかにおかしかった。部活をサボる事が多くなり、たまに顔を出しても上の空だ。実花情報により、カノジョらしき存在ができたと聞いた時は内心、背筋が寒くなった。実花の話を聞く限り、哲のカノジョとやらはあの晩の少女に他ならない。

「けっして関わってはならないよ。特に君は引かれ易い体質のようだしね」

 女刑事の忠告が何度も頭に蘇る。

 引かれ易いとはどういう意味だろう。けっしていい意味であろう筈が無かった。

 そういえば、女刑事にはお守りを貰っていた。

「念の為、当面は肌身離さず身につけておけ」

 お香のいい匂いのする真っ白な手巾ハンカチ。墨染めで何か文字のような紋様が描かれていた。ズボラな朝莉は貰ってそのまま通学鞄に突っ込んだままにしていた。

 あぁ、もうそろそろ今日の夢もおしまいだ。

 ひときわ巨大な鬼が爆発し、退散する少女を追って哲も姿を消した。

 爆発により発生した紅蓮の炎が校舎を嘗め始めている。後はいろんな人たちが集まってきて、大騒ぎになって、おしまいだ。

(私も戻ろう)

 朝莉は思った。たとえ夢でも燃え盛る炎は熱い。 

 階段を降りようと振り返り、朝莉は足を止めた。目の前に、誰かが立っていた。

 漆黒の軍服に同色の軍帽。その容姿は先程去っていった三つ編みの少女にも似ているが、やや大人びているように見える。美しい顔立ちの筈なのに、何故だか醜悪極まる怪物と対峙したかのような恐怖と慄きを朝莉は覚えた。

 或いはその女の纏う禍々しい空気に呑まれた所為かもしれない。

 今までの夢にはこんな女は現れなかった。勿論、現実でも遭遇はしていない。

 たじろぎ後ずさる朝莉に微笑みかけながら女は手を差し伸べてくる。

 アレに近づいてはいけない、と朝莉の本能が訴える。

 美しい形をとった悪意だ。

 逃げようとした朝莉の足が何かにとられて転倒する。手だ。血まみれの人間の手だ。

 振り返り、朝莉は悲鳴をあげた。

 教室の扉が開き、そこから無数の人の腕が伸びていた。朝莉の体が群がる手に捉われ引き寄せられる。抗えずに引きずられたその先は、泥のような闇だった。

 朝莉は声にならない絶叫をあげながら闇の中で藻掻き、どこまでも沈んでいった。

 

 自分の絶叫で目が覚めた。

 深夜2時半。最悪すぎる夢だった。

 パジャマが汗でびっしょりになっていた。朝莉は盛大なため息をつき、枕に倒れこむ。柔らかい枕の感触が先程の闇を思い出させて、慌てて朝莉は枕を放り投げる。

 再び眠ろうとして、あの悪夢が頭を過ぎってしまい寝つけない。

 ベッドの上で煩悶を繰り返すうち、空が白々と空けてきてしまった。

 結局、目が覚めてしまった朝莉は目の下に隈を拵えながらベッドから這い出す。

 いつも朝の弱い娘が早起きした事に驚く母親が用意したトーストを腹に収めた後で、朝莉は家を出た。いつもより随分と早い。

 九品学園高校までは自転車で15分程度だ。まだ登校する生徒も少ない通学路を朝莉は自転車で走る。朝の冷たく清浄な空気が昨夜の悪夢を払ってくれるようだ。

 登校時の最大の難所、心臓破りの地獄坂の手前に辿り着いた朝莉は大きく深呼吸した。気合を入れなければこの坂を自転車で昇るのはキツい。

 肺腑の中を早朝の澄んだ空気で満たし、いざ漕ぎ出そうとしたその時、出鼻を挫くようにクラクションが鳴らされた。

 振り返るとすぐ近くの車道にハザードを点した高級車が停車していた。その中から、見かけない制服に身を包んだ少女が降りてくる。

「はじめまして、今野朝莉さんですね」

「はぁ、そうですけど。どちら様ですか?」

 一目でお嬢様とわかるその少女はニッコリと微笑みながら歩み寄ってくる。

「私、和光捷子と申します。失礼ですが、最近貴女は悩みがありませんか?たとえば、気味の悪い夢を見るとか、親しい人におかしな事が起きているとか」

「えぇと、宗教の勧誘か何かですか?それなら間に合ってるんで結構です」

「宗教ではありませんよ。私はただ貴女とお友達になりたいだけなんです。貴女は選ばれてしまいました。けれども、私ならそれを救って差し上げられます」

 和光捷子は手を差し伸べてきた。

「ようこそ、朝莉さん」


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