幕間「蘆屋機関(下)」
桐秀院女子高等学校前で起きた傷害事件に関わる全ての隠蔽工作を終了させた蘆屋千沙都が次に向かったのは新日本の政治的中枢というべき場所であった。
東京市千代田区千代田。明治以前は江戸城が、そして太平洋戦争までは皇居があったこの地には現在、日本共和国大統領府が置かれていた。
「――以上をもって本件における隠蔽工作は終了しました」
蘆屋は一連の工作活動の完了を彼女の直属の上司に伝え終えたところだった。
彼女の上司は不機嫌そのものだった。
大統領内閣情報調査室長を兼務する国家安全保障担当補佐官、石田登喜夫はシャープな銀縁メガネの奥にある怜悧な目を蘆屋に向けると神経質そうな声をあげた。
「蘆屋君。君は何を考えているんだね」
「何か不手際がありましたか」
「ありましたかじゃない」
石田は蘆屋の提出した報告書の綴りを手荒く執務机の上に叩きつけた。
「この旧日本の呪詛感染者の一件、もう発見から3ヶ月にならんというのに未だに解決できないのかね」
蘆屋は微笑を浮かべた。
「相手は数多の戦場を経験した帝国でも名うての〝撫子〟です。限られた人手と装備だけでは捕捉にも骨が折れます」
「ふざけるな!そんな言い訳は聞きたくない。いいか、君の職務はなんだ。君の怠慢と無能を人のせいにするな」
蘆屋は眉一つ動かさず、石田を黙って見つめた。
「いいか、蘆屋君。ただでさえこの呪詛感染者による一連の事件は被害が大きいんだ。犠牲者も多数出ているし、目撃者も多い。隠蔽にも限界はあるし、度が過ぎてはかえって悪目立ちする。真相をマスコミに嗅ぎつかれでもしたら大スキャンダルになるぞ」
石田の叱声を聞き流した後で芦屋は僅かに目を細めて見せた。
「ご心配なく。その時はその記者を消してご覧に入れます」
「馬鹿を言え!君はまさか戦前の特高警察にでもなった気じゃないだろうな。君が消すべきはマスコミじゃない、京都の軍国主義者たちだろう」
蘆屋とこの上司との関係はさほど良好と呼べるものではなかった。
元々警察官僚上がりの石田は、他の同僚たちがそうであるように同じ治安維持機構である自衛隊、そしてそれを司る防衛庁を蔑視し軽んじていた。
新日本の国家体制を守っているのは第一に警察権力であり、張子の虎である自衛隊などは精々が米軍の指揮下で永遠に訪れることのない有事に備えて冷や飯食らいの日陰者としてのみ存続すればいいと信じる者たちの系譜に石田もまたその名を連ねているのである。
その為、情報調査室のスタッフも自身の出身である公安警察の手の者で固め、自衛隊出身の連中を遠ざけてその情報をも軽視する傾向が強い。
だが石田の蘆屋に対する忌避の感情は、警官の軍人嫌いという単純な理由だけではない。
端的にいって、石田は彼女を心の奥底で恐れていた。
「室長殿」
蘆屋は自らの上司を、あえて現在の新日本では用いられていない敬称を添えて呼んだ。
(この目だ)
ふと気を許すと吸い込まれ、魂すら奪われてしまいそうな磁力をもつ女の目が石田を捉えて離すことを許さない。
「改めてご教示いただかなくとも、この蘆屋は自らの職制についてはよく存じ上げております。自分は室長殿が生まれるよりも前からこの仕事に就かせていただき、そして恐らくは貴方がこの部屋を去った後もこの国に仕え続けることになるのでしょうから」
苦心して蘆屋から視線を逸らし、石田は小さく舌打ちした。
蘆屋千沙都――彼女こそはこの日本共和国における歪みを象徴するような人物であった。
この国に「特殊潜入事案対策室」が設立されたのは戦後まだ間もない頃のことだと言われている。
移民受け入れ政策の弊害である不法密入国者の多発や朝鮮動乱における流入難民対処等を名目に法務省傘下の一機関として動き出したこの組織の実際は、当時まともな国防や治安維持といった夜警国家的機能を禁じられた共和国政府が移民対策を隠れ蓑に設置した非公然の防諜組織だった。
そのスタッフも大半が警察官や自衛隊員から出向の形をとって選ばれていた事実を見れば、そこで何が行われていたのかは容易に想像がつく。
英語名はより直截的だった。〝Anti-intruder search and destroy agency〟、すなわち侵入してくる対象の逮捕ではなく殲滅を謳っていたのだ。
勿論、軍事アレルギーの極度に高まった戦後の新日本でそのような武力行動が大っぴらに行えるはずもなく、彼らの機関は頭文字をとって〝ASADA〟の秘匿名称を用いられる事が多かった。
もっとも、この組織の存在を知る一部の者たちの間ではその指揮官の名を冠した「蘆屋機関」の通称の方が有名だった。かつて第二次世界大戦中に暗躍した悪名高い陸軍の機関と同名だったからだ。
戦前に活動していた初代蘆屋機関の長、蘆屋彌稚乃は女性だてらに東洋の魔都と呼ばれた上海や様々な利権の渦巻く満州の中心都市大連で活動していた陸軍所属の情報工作員であったと言われる。
出処不明の謎の資金源と敵味方に通じる人脈を駆使して神出鬼没の暗躍を続け、また噂では怪しげな魔術に秀でた達人であったとも噂される人物だった。
とりわけ未来予知の術に優れていたとされる彼女は、やがて日本本土の軍上層部を巻き込んで霊的国防論を推し進め、かの久那守葉月を見出し育て上げたとも言われている。
終戦間際の混乱の中で蘆屋彌稚乃が謎の失踪を遂げた後、数年の空白を経てASADAの指揮官として現われた人物こそが同姓の婦人自衛官、蘆屋千沙都一尉だった。
以降、何十年もの長きに渡り、彼女は復活した蘆屋機関の長として新日本の歴史の陰で暗躍を続けていた。
その任務は大きく分けて三つ、帝政日本及びその他の諸外国による霊的侵攻への対処、戦時中に配された霊的地雷群いわゆる百鬼事案の対処と隠蔽、そして久那守葉月の呪詛の伝播の抑制である。
かつて新日米安保条約を巡って世論が二分されていた頃、この蘆屋機関が槍玉に挙がった事がある。革新系の野党代議士がこの謎の機関に流れこむ資金の流入や活動内容の不明に目をつけて軍国主義化の兆候だと追及したのである。
入手した創設当初の資料を片手に、たとえ密入国者であっても他国人を侵入者と表現し、そしてサーチアンドデストロイなどという物騒な単語を組織名に冠していた事を声高に追及する野党議員に対し、真実を答えられない法相が冷や汗を掻きながら苦しい答弁に苦慮しているその間にも、蘆屋は紛糾する国会を取り囲むデモ隊に紛れて闇夜に荒れ狂う百鬼を狩って回っていたのである。
「ともかく、だ」
咳払いをして石田は女に背中を向けた。
「これ以上、その小笠原某とかいう怪物の跳梁も、裏で糸を引いてる帝国主義者どもも見過ごす訳にはいかん。君の所で手に負えないなら持っている情報を公安部に渡すんだ。それと君は隠蔽作業にのみ専念して勝手な真似はするんじゃない。いいな?」
暫しの間、石田は背後から強烈な視線を感じた。振り向けなかった。
やがて、緊縛が解けた。
「ご随意にどうぞ。それでは失礼いたします」
一礼の気配の後で足音が遠ざかっていく。扉が完全に閉まり、足音が遠ざかっていくのを確認した後で、石田は冷や汗と共に椅子に身を投げた。
「魔女め」
情報調査室長は蘆屋の異名を忌々しげに吐き棄てた。
情報調査室を退出した後で、蘆屋千沙都は秋森を待たせてある駐車場に向かう。
石田の命令に関しては表向きは従うつもりだった。時の権力者たちに対しては、彼女の首にしっかりとした首輪が嵌まっているように認識させている方が何かと得策だった。元より彼らの認識し得ない領分に関しては遠慮する必要などないのだから。
それに、彼女の今の第一目標は小笠原みづきではなかった。
「和光捷子、貴女が第二の蘆屋彌稚乃になるというの」
長い廊下を歩きながら、蘆屋はそっと呟いた。
「面白いわ。貴女にあの憎くて愛しい姉様の名が継げるというならば見せてもらうわ」
地下にある駐車場脇の運転手たちの控え室で、咥え煙草で雑談をしていた秋森が彼女に気づき、近づいてくる。
「ん?どうした。また仕事でも干されたのかよ」
勘のいい元刑事に蘆屋は微笑で答えた。
「まぁそんなところだ。まったく、最近は百鬼狩りのお鉢ばかりが回ってくるし、貧乏籤もいいところだな」
「嫌ならさっさと解散して俺を元の仕事に戻してくれてもいいんスよ?」
彼なりの冗談と共に差し出してくる煙草を断り、蘆屋は車に乗り込んだ。
この国の奇怪な状況を作り上げた原因の一端は間違いなく彼女の姉にある。国を滅ぼした極悪人の妹として、蘆屋千沙都にはその行く末を見守る義務があった。
そうであるならば戦後の共和制日本の繁栄の陰で続けられる彼女の遊戯に終わりなどある筈もなかった。




