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幕間「田原誠司の受験勉強講座~政治経済編・第一回~」

 これは哲たちの物語とは直接関係のない話になる。

 彼らを取り巻く環境を知る者たちにとっては当たり前に過ぎて改めて知る必要もない事実の羅列であり、この国に暮らす若者たちならば避けては通れない、けれども長い人生から見れば取るに足らない瑣末な懊悩を垣間見るだけの描写に他ならない。

 或いは平凡な日常、個人の意思や努力ではどうにもならない社会、太古より連綿と継続してきたつまらぬ日々の積み重ねがやがて歴史を作るという傍証程度にはなりうるのかもしれない。

 たとえその平凡な日常が虚構の平和と経済繁栄によって編み上げられただけの危うい幻想だったとしても、そこで暮らす住人たちにとっては目に見える光景こそが現実世界に他ならないのである。

 勿論、他の全ての事柄と同様に事象の背景に存在する現状と自分の認識をすり合わせて世界の真実を再確認する事の有効性はなんら否定されるべきものではない。




 九品学園高校放送部には三年生が卒業ギリギリまで引退しないという慣例がある。

 放送にまつわるテクニックや器材の操作などには一朝一夕では身に着けられぬ専門の知識が必要であり、後進に伝えるべき事柄は星の数ほどもある為――などと、もっともらしい理屈が一応つけられてはいるものの、それを言ったら他のどの部活も同じであろう。

 要は他の部活のように夏の大会だの何だのといった三年間の部活動の総仕上げといったイベントがなく、その割に日々の放送部としての活動は連綿と継続されていく為に本人たちも引退のふんぎりがつかないというのが実相であった。

 とはいえ、卒業生の大半が大学や短大に進学する九品学園にあっては、いくら引退していないとはいっても三年生たちが部活動にばかり青春の情熱を捧げられる筈もなかった。

 この時期になると部室に参考書やら問題集を持ち込み、受験勉強に精を出す輩もチラホラと散見される。

 家でやればいいのに、と後輩たちは心の中で目の上のたんこぶたちを睨んでも、いざそれを先輩たちに言うのは憚れるし、それにいざ自分が三年生になった時に受験勉強の合間に気晴らしのできる慣れ親しんだ環境をむざむざ手放す気にもなれず、結果、この奇妙な風習は延々と続いているのだ。

 そしてまた一人、三年生の女子生徒が放送部の部室に顔を出した。

 ドキュメント班の八木実花だ。放送部名うての才媛と噂される彼女だったが、今日の実花にはその片鱗はない。

 いつもの凛とした強気な顔立ちは暗い表情にとって代わられ、自分の椅子に着くなり吐いた溜息が重い。

「わっ!?先輩、どうしたんですか?」

 先に来てマンガ雑誌を読み耽っていた今野朝莉が驚いたように声をかけた。

 実花は幽鬼のような顔で彼女を見やり、頭を抱えてテーブルに伏せる。

「ヤバいわ……このままじゃ私、一浪だわ」

「あー、実力テスト返ってきたんですか?ドンマイです先輩、来年また哲先輩と受験勉強頑張ってください」

「今野ぉ!!」

 脱兎のごとく逃げ去る後輩を夜叉の顔で一喝した後で、実花は同じ机の同級生を窺う。

「……田原、あんたはどうだったのよ」

 ドキュメント班リーダーの田原誠司はいつもの茫洋とした顔のまま、折り畳んだ紙片を鞄から取り出して実花に渡す。

 それを開いた実花の顔が強張り、肩を落とした。

「うっそ……なんでA判定出てるのよ!あ~も~!悔しい」

「おまえそんな悪かったのかよ?おまえのも見せてみろ」

 がっくりと項垂れたまま、実花は力なく自分の判定結果を見せる。第一志望校の評価判定がDになっていた。

「なんだおまえ、成績下がってんじゃん」

「うるさい!地理で失敗したのよ」

 実花は涙目で答える。

「地理ってイケる時はイケるんだけど、問題が合わないとダメなのよ」

「なんだそりゃ。つまり分かってないって事だろそれ」

 誠司のツッコミに実花は悄然とした。

「うぅ…………志望校、ランク落とそうかな」

「えっ、マジかよ」

「だってこのままじゃ絶対落ちるもの」

 頭を抱える同級生に誠司は溜息をつく。

「つーか、理数系ならともかく社会が苦手ってのがよくわかんねぇな。ほとんど暗記だろ」

「知らないわよ私だって!でも苦手なものはしょうがないでしょ」

 逆ギレする実花に閉口しながらも、誠司は彼なりのアドバイスをした。

「じゃあ選択科目、政経にでも変更しろよ。ぶっちゃけ地理よりは楽だぞ?」

「今から方針転換しろっての!?あと何カ月だと思ってるのよ」

 悲鳴をあげる実花に誠司は断言した。

「いや、たぶん間に合う。要点覚えれば全然余裕」

「……でも、なんか負けを認めたみたいで私のプライドが許さない」 

「何に対するプライドだよ。そんなものにこだわって落ちちまったら元も子もないだろ」

「それは……そうだけど」

 実花はなおもブツブツと口ごもっていたが、やおら顔をあげて誠司を見やる。

「……なんだよ??」

「田原、さっきの実力試験、あんた政経で95いってたわね。得意なの?」 

 誠司は嫌そうな顔をした。なんとなく、実花がこの後何を言うのか予想がついたのだ。

「どちらかといえばな」

「じゃあ、そんなに政経勧めるんならあんたが教えてよ」

「えー」

 途端、横合いからいつの間にか戻ってきていた朝莉が挙手をした。

「は~い!先生、私にも教えてください!私も政経とかヤバいんですよー」

「あのなぁ。なんあで息抜きに部活に来て、おまえらの家庭教師なんかしなくちゃなんないんだよ」

 誠司は諦め半分になりながら一応は抗議した。どうせ押し切られるにしたって自分の意思表示はしておくべきだった。


 数分後、誠司はホワイトボードの前にペンを持って立っていた。

「ったく、教えるっつったって、どこから教えればいいんだよ」

「とりあえず最初は何も知らない相手に教えるように始めてちょうだい」

 頭を掻く田原に真剣な顔で実花が告げる。既にノートを広げてやる気満々だ。

「おっけぇ、今野にも分かるようにだな」

「さりげなく失礼です田原先輩!」

「了解。いっとくけど、これは俺の自己流の覚え方だからな?自己責任で覚えて、後は自分で勉強してくれよ」

 そんな前置きで、誠司による第一回政経講座が始まった。

「じゃあ、とりあえず最初は政治史からな。これがわかればだいたい教育省が俺たち高校生にこの教科で何を覚えさせたいのかが見えてくる。相手の戦略さえわかれば戦いはかなり有利になるぞ」

「戦略ってそんな大袈裟な」

「今野、受験ってのは俺たち受験生と教育省との戦争だぞ」

 誠司に睨まれ、朝莉は慌てて「了解であります、サー!」と敬礼の真似事をした。

「まず、全ての始まりは1946年の8月15日だ。この日は何の日でしょうか?」

「は~い!シューセン記念日です!サイレンが鳴って東京ドームで高校球児たちが黙祷します」

「そうだな、太平洋戦争が終わった日だな?歴史的にはこの日を境に我が国は新たなスタートラインに立ったんだ。米軍の行ったダウンフォール作戦で解放された南関東、南九州、沖縄、この三地域がGHQの指導の下で、特別統治行政区として次々と民主化の道を進んでいく。キーワードは『民主化』『平和主義』『国際化』の三点だ」

 小気味良い音を立ててホワイトボードに文字が刻まれていく。

「まずは国民主権、普通選挙の実施、男女平等、農地改革、帝政からの脱却などの民主化政策が打ち出されていったんだ。続いて戦前に軍部が暴走して侵略戦争を引き起こし、アジアの人たちに多大な迷惑をかけた反省から戦争の放棄が打ち出された。まぁ、これに関してはその後の政治情勢から自衛隊が発足したり日米安保条約が結ばれたりしてるけど、おかげで今のところうちの国は戦争をしないで済んでいる。そして最後に『国際化』だ。戦前の凝り固まった国粋主義の過ちを繰り返さないように、そして資源のない我が国が経済発展に活路を求められるように、アメリカを中心とした諸外国との交流を深め、国際人として乗り出せるようにしていったんだな。たとえばそれまでは英語が公用語じゃなかったんだ。爺さん婆さんで日本語しか喋れない人、偶にいるだろ?」

「あ、うちのひいお爺ちゃんがそうです。ピザ頼んでもお味噌汁とご飯で食べます」

「まぁそうした数々の改革の後で、平和憲法も新たに制定された後で、サンフランシスコ講和会議の席で我が国は日本共和国として独立が認められたんだな。いわゆる新日本、共和制日本の誕生だ。ちなみにこの時の初代大統領が建国の父として名高い吉田茂だな」

 誠司は民主化日本の象徴とされる吉田が実は尊皇家の保守的な政治家である事はあえて口にはしなかった。大学受験にそんな問題は出されないからだ。

「戦後、新日本は平和憲法の下で近代化を果たしていく。アメリカの庇護の下、殆んど全ての資金と資源を経済に注ぎ込む事で飛躍的な発展を遂げた。アジアで最も平和で民主的な先進国として西側諸国にもこの日本列島における正統な政権として受け入れられている。客観的に見れば今や世界屈指の経済大国だ」

「実際に住んでいる身としてみれば全くそんな気はしないけどね」

 実花のツッコミを誠司は否定しなかった。

「もちろん、問題がない訳でもない。1990年代からの長引く不況による景気の低迷、政局優先でリーダーシップ欠如の政治家たち。移民政策の失敗による失業率の上昇と治安の悪化。そして、陸続きに未だ軍国主義を続け、核を保有したファシスト国家が存在するという安全保障上の問題だ」

 誠司は日本共和国の隣に日本帝国と書き込み、括弧で旧日本と付け足した。

「日本帝国――いわゆる旧日本だ。天皇を元首と定める議院内閣制の政治システムをとったファシスト国家だ。首都は京都だけど経済の中心地は大阪。もちろん軍国主義の国らしく当然ながら徴兵制度も布いているけれども平時の兵数は10ン万と言われてる。意外と少ない感じもするが、まぁ、あの国の事だからどこまで本当かなんて誰にもわからない。それに予備役、つまりパートタイムの兵隊を集めたら一時的には何百万って数になるらしいしな」

 やはりこの手の内容は女子たちにはウケが悪いなと思いつつ誠司は続ける。

 朝莉はあからさまに興味のない顔で頬杖をついているだけだったし、実花でさえノートをとる手が止まっている。

「主要な産業は自動車と工業、兵器、それにこれを商売といっていいのかはわからないけれども、兵士を積極的に紛争地域に派兵して、それを外貨獲得の手段とするっていう独特の政策がとられている。いわば国ぐるみで傭兵稼業に勤しんでいるわけだ」

 実際、紛争のある所に日本兵ありというのは今や国際社会の常識になっていた。

 殆んど年中行事のように旧日本は兵士を世界中にばら撒き、そしてそれが米国をはじめとする諸外国の怒りを買って外交的孤立を深めていると言われていた。

 世界で一番平和な国の隣に世界で一番危険な国が並存していると言われるのが今の誠司たちの住む日本列島であった。

「幸いにも京都政権の兵隊が新日本に侵攻してきた事はないけれども、過去には何度も旧日本の工作員の潜入騒ぎが起きているし、うちやアメリカとあっちの国が揉める度に開戦の危険性が取り沙汰されるってのは厄介な話だな」

「いつか、戦争になるんですか?嫌だなぁ」

「う~ん、まぁ俺はただのプロレスだと思うけどね。京都の連中とアメリカ人が互いに拳を振り上げて怒鳴りあって、その別室で東京と京都のお偉いさんたちがコソコソと妥協しあって話をつけるってのがいつものパターンだしね。だいたい、旧日本もこっちの国に攻め込んだら逆に自分たちがアメリカにボコられるってのは分かってるだろうし、戦争するならもうとっくの昔にやってるんじゃないかな」

 不安そうな顔の朝莉に誠司は告げてやった。

「もう一つ、戦争は絶対にないって言える証拠がある。詳しい話は経済の時に話すが、うちの国の輸出と輸入、両方とも実は旧日本が上位3ヶ国に入ってるんだ。まぁ、考えてみたら当然だな。国内で作るより安価な物を同じ日本人が同品質で作ってくれるんだし、輸送コストもかからない。向こうだってこっちからの工業製品だの科学技術だのが入らなくなった日には一気に経済が麻痺してしまう。経済的に考えたら戦争するメリットなんてないんだ」

「えぇ~、なんかそれ気持ち悪いです。相手はバリバリ悪い国じゃないですか。悪の枢軸とか世界の敵とか言われてますよね。それを実は裏で通じ合ってるとか、なんかいかにも日本人的っていうか、金の亡者っていうか」

 顔を顰める朝莉に誠司は苦笑を返す。

「今野、おまえの言うとおりだ。正直、あっちの日本との付き合いは政治だの経済だの利権だのが複雑怪奇に絡みまくってて正直、素人にはわからない。色々とタブーもあるしな。だから安心しろ。その辺りの話は絶対に期末テスト入試には出ない」

 後輩の顔は晴れなかった。

「うちの近所にも京都の工作員いたりして。私の隣のおうちってお兄ちゃんいるらしいんですけど見かけたことないんです。部屋からずっと出てこないらしいですし」

「それはそれで大変だろうけど、たぶん別の意味で触れちゃいけないタブーだと思うぞ。まぁ、受験生にとって大事なのはあっちの京都政権率いる旧日本とうちの国との違い、それだけだ。こっちは自由な民主主義国家で向こうは未だ軍国主義を続けるファシスト国家。こっちは平和を愛する経済大国で向こうは戦争を愛する後進国。少なくとも受験における正答ではそうなってるから個人的な信条はともかくそう答えろ。間違っても論述問題で京都を誉めるなよ?一発アウトだからな」


 結局、この誠司による即席の政経特別講座は彼らの入試が終わるまで続く事になる。


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