10、そして僕たちは戦場に向かう(その4)「水漬く一族の姫巫女の話(下)」
昭和二十一年、停戦。
久那守葉月は御上に叛旗を翻した稀代の極悪人として処刑され、原爆から生き残った数少ない久那守の一族も非国民のレッテルを貼られた。
日本中の陸に、海に無数の怨嗟が漂っていた。
憎い。悲しい。苦しい。
海に空に野山に散った亡霊たちは夜毎にその霊力に惹かれて彼女に纏わりつき、その清浄な魂を侵蝕し続けた。
少女はそれを力ずくで祓う事はなかった。
とり憑いた無数の死霊たちの悲嘆と絶望が伝わっていたからだ。
「鎮めましょう。あなたの苦しみも悲しみも憎悪も全て、私が受け止めます」
彼女は亡霊たちに語りかけた。
「だから兵隊さんたち、泣かないで。貴方たちの死は、決して無駄ではないんだから。呪詛に囚われた魂は、何年かけても私が解いてあげるから」
少女は身を清めて何日も祝詞をあげ、一心に死者たちの救いを祈り続けた。
寝食も忘れて祈り続けた彼女の前にそれが現れたのは、三日目の夜の事だった。
風もないのに蝋燭が一瞬大きく揺らぎ、消え去った。
暗闇に包まれた本殿の隅に、宵闇よりも更に濃い闇が煮凝り蹲っていた。
少女は思わず後ずさった。
それは、あまりに強力な呪詛の塊であった。彼女の手に負える相手ではなかった。
父を呼ぼうかと少女が考えたその時、闇が語りかけてきた。
「水漬姫」
名前を呼ばれて少女は慄然とした。その一言一言に含められた恐ろしい力の呪いのせいだけではない。その声自体に聞き覚えがあったからだ。
「――――葉月、姉様?」
「水漬姫、大きくなったのね」
親しみと憎しみを混在した声が、懐かしそうに告げてくる。
「葉月姉様、何故に貴女は死してなお祟るのですか」
少女の問いかけに、闇が嗤う。
「私はこの日本を許さない。私の大切な人を奪い、私の心を壊した日本が憎いの。だから、絶対に滅ぼしてみせるわ」
「葉月姉様、貴女はもう全てを忘れて眠るべきです。もう苦しむのはやめてください!姉様が安らかに眠れるように、私が鎮めて差し上げますから」
甲高い哄笑が本殿を揺らす。
「私はけっして眠らない。この大八島を骨で満たし、血で染め上げることこそ私の願い」
「葉月姉様!」
「水漬姫」
一塊の闇に過ぎぬ筈の葉月が彼女を凝視するのがわかった。
「愛しい私の妹、水漬き草生す死者たちの姫よ。ならば貴女が私の呪いを背負ってみせるかしら?この救いのない絶望を貴女が癒してくれるのかしら」
つかの間の沈黙は少女の逡巡の故ではなかった。己の覚悟を問う最愛の悪霊に対する彼女の気構えの為の間であった。
「……かまいません。私は葉月姉様を慕っております。他の誰かがなんと言ったって、私は姉様の味方です。貴女がそれを望むなら、私は貴女の呪詛を肩代わりしましょう」
「あぁ水漬姫、哀れな娘。ならば私は貴女を呪う。この国を滅ぼす呪詛を貴女にあげるわ。永劫に終わらない苦悶の中で我が眷属になりなさい」
瞬間、闇が広がり少女は黒い奔流に飲み込まれた。
肺腑を満たす甘美な痛みの中で、少女は葉月の姿を見た。
葉月は彼女の頬を愛おしげに撫でて告げる。
「さぁ、貴女には私の力を全てあげる。力を抜いて、そして全てを受け入れるのよ」
少女は全身が憎悪に犯されていくのを感じていた。両の瞳が呪詛で紫に変色していく。
「――姉様」
「逆らわない方がいいわ。抗えば苦痛が延びるだけ。さぁ、堕ちなさい」
「これが姉様の悲しみ――お辛い想いをされたのですね」
少女の双眸から涙が零れる。
「死者達の怨嗟が貴女を捉えて離さない。姉様は彼らに捉われているのですね」
紫に光る目で彼女は葉月の周囲に蠢く無数の怨霊を見やった。
「なるほど、これは私の手には余ります……私は貴女を救うことはできない……でも、その代わり、私はこの力で死者たちの魂魄を救います」
少女は胸を抑え、喘ぎながら告げた。
「この戦いで死んだ人たちの荒ぶる魂を鎮めて慰めます。死者達の憎しみがこれ以上、貴女に向かないように……姉様が一日でも早く、この呪いから解き放たれる日がくるように……そして、姉様の大切な大尉さんが見つかるように……」
圧倒的な憎悪を放射していた筈の葉月が一瞬たじろいたように少女には感じられた。微笑んだ少女はそのまま、深い闇に飲み込まれていった。
本殿の床で昏倒していた彼女は、家の者たちに発見された。
往診に訪れた医師の見立てでは不眠と栄養不足による貧血だという事だった。
少女の体が変容してしまった事は彼女自身しか気づいていなかった。
かろうじてその兆候を示すものといえば、呪いの影響なのか、視力が低下してしまいメガネをかけるようになった事くらいだ。
けれども、確実に変化は起きていた。
これまで彼女を取り巻き苛んでいた筈の死霊たちが、少女に怯えて慄き、やがて傅くようになっていた。
そして彼女が呪詛に感染してから一週間も経たないうちに、敗残の亡霊の如く軍服の男たちが姿を現した。
激昂した父親と彼らの間で何が語られていたのかは少女は知るよしもない。
話が終わった時、黙り込んだ父の隣でその軍人たちが少女に同行を求めてきた。
既に少女の準備は整っていた。
オンボロなトラックの荷台に揺られながら少女は慣れ親しんだ神社の境内を振り返った。
見送る親族たちの隣で陽炎のように久那守葉月の亡霊がひときわ美しい微笑を浮かべているのが見えた。




