幕間「反魂譚」
あぁ、ひどく苦しいなぁ――。
川田良三兵長は絶え間ない息苦しさを堪えかねて大きく息を吐いた。
南方へと向かうオンボロな徴用船の狭い船室の中で、彼はすっかり硬く凝りきった首を回し、薄暗い船室の天井を見上げた。
戦友たちがすし詰めに押し込められた船内は人いきれと閉塞感で満たされ、うんざりさせられてしまう。身じろぎすらままならぬまま、黴臭い貨物倉の中で鼠と一緒に雑魚寝をするしか無聊をかこつ手段はなかった。
それにしても船はいつになったら目的地に着くのだろう。
一昨日の晩に一服しがてら、こっそり空気を吸いに甲板に顔を出した時には九州の北岸が見えていたから、今は台湾あたりにはいるのだろうか。
船は南に進んでいる筈なのに、船室内はまるで真冬の満州のように冷え込み、体の震えが止まらない。それもその筈で、彼の身体は頭から水でも被ったかのようにぐっしょりと濡れ鼠となっていた。
「まったく、たまらねぇや」
一人悪態をつき、川田兵長はもたれた壁に後頭部を打ちつけた。鉄製の壁がやけに鈍い音を響かせる。
現役兵の頃ならば多少の無理も耐えられたであろうが、些か薹の立ったロートルの身にはこの船旅はきつかった。
つい先日、予備役兵として二度目の兵役義務も満了を終えた途端、三十路を跨いだ老兵に彼の祖国は即日召集を突きつけてきた。もう2年も彼は満州の荒野に張りつけられたままだった。
部隊移動の命令が聯隊に下されたのはその直後の事だった。
本土決戦に備えて内地に帰還するという噂が広まり、兵士たちは糠喜びに沸いたが、やがてそれはデマだった事が判明した。
物品受領の使役に駆り出された兵士の一人が、防暑衣の装備品を見つけたのだ。だとするならば、彼らの向かう先が日本本土の筈がなかった。
せめてもの救いは立小便がそのまま凍てつく酷寒の満州とおサラバして暖かい南方の戦場に移る事くらいだろうか。
それにしても、何日揺られようとも船は一向に目的地に到着せず、川田たちは漫然と時が経つのを傍観し続けた。
「あぁ……」
苦しさに耐えかね、川田は再び喘いだ。
肺腑の奥まで満たされるこの苦痛と絶望はいったい何事なのだろう。
「もう一度、母ちゃんとガキどもに会いてぇなぁ」
天井を見上げながら川田は呟いた。
彼の二人目の子供は、彼の家に赤紙が届く一ヶ月前に生まれたばかりだった。この二年間、彼の顔を知らずに育った我が子は、川田が帰還した時にどんな反応を示すのだろう。
ぼんやりと膝を抱えていた川田は不意に姿勢を正した。
「おや、呼び出しか?」
ゆっくりと腰を上げた川田の周囲でも戦友たちが立ち上がり、自分の歩兵銃を掴んでゾロゾロと船室を出て行く。
「さぁて、もう一いくさするとしようか」
川田も兵たちに紛れて船室を出た。
漆黒の狭い通路をゾロゾロと進むうちに、気づけば他の仲間たちと逸れ、川田は一人歩き続けていた。前方におぼろげな光が見え、誘われるようにして歩き続けた川田は戦場に辿り着いた。
待ち構えていた指揮官に敬礼を捧げながら、川田は内心で呆れ返る。
(なんだなんだ、女の指揮官か??しかもまだガキじゃねぇか。戦争も負けが込んできたらよくわからねぇ事が起きやがる)
もちろん軍隊と娑婆それぞれにおいてそれなりの人生経験を積んできた川田は内心を表に出すような事はしなかった。
(しかし、たいそうな美人じゃねぇか。門倉の家に生まれた俺の姪っ子も、これくらいの別嬪に育ってくれればいいが)
内地にいた頃に可愛がっていた彼の姪っ子を川田はふと思い出し、苦笑いを浮かべた。
無理かもしれない、と思ったのだ。親友の門倉の家に嫁いだ川田の妹は、兄の目から見てもさほどの器量良しではなかった。親友たちがこの戦争に巻き込まれずに無事に生き延びている事を川田は心の底から願った。
(それに引き換え、なんだこっちの頼りない坊主は)
随分と珍妙でけったいな制服を着込んだ、小柄で頼りない少年が彼を怯えた視線で見つめている。
見るからにひ弱で軟弱で、徴兵検査ではおそらく乙種合格も難しいだろう少年を見やり、いっそビンタをかまして気合でも入れてやろうかとも思ったが、川田にそんな時間的余裕はなかった。
敵が襲いかかってきたのだ。
(なんだこいつらは)
川田は呆れ果てた。現れたのは鬼だの妖怪だのといった人外の化生たちばかりだった。
不思議と恐怖はなかった。
満州で匪賊どもを相手に鍛え上げた彼の戦技は、妖怪変化どもを容易く蹴散らした。
(ここはいったい、何処なんだ。南方じゃないのか?俺はいったい何処の戦場にいるんだ)
周囲を見回し、川田は驚嘆した。
(なんだと、これはなつかしい。ここはお山の中学校じゃねぇか)
故郷の城山に建てられた中学校の校舎にいる事に彼は漸く気づいたのだ。
(するとここは九品の町なのか。俺たちは知らずに内地に帰還していたのか。あぁ、驚いた。お国はアメ公どもの爆撃でひどく叩かれてると聞いていたが、町にはこれだけ家も残っていて立派なビルヂングもあちこちに建ってるところをみると、やはりこの戦は俺たちが勝っているんだな)
川田はぐるりと周囲を見回した。彼の知る郷里とは随分と形を変えてしまっているけれども、ここは紛れもなく彼の生まれ育った九品の町の城山だった。
(あぁ、夢にまで見た故郷の空気だ。母ちゃんは元気だろうか。坊主たちは大きくなっただろうか。門倉や妹や姪っ子は無事だろうか)
やがて、戦いは終わった。
指揮官の少女が川田たちを集めて最後の命令を発する。
(あぁ、編制解除だ……そうか、もう戦わなくていいのか。ようやく俺は家に帰れるのか)
川田はそうして気がついた。
(そうか――――俺はもう――――死んでいたんだっけ)
彼の乗っていた輸送船が、敵の潜水艦の魚雷攻撃を受けていた事を川田はやっと思い出した。傾いた船内に流入する海水から逃げることもできず、轟沈する船と共に深海に沈んでいった最期の記憶が蘇る。
少女の言葉に呼応するようにして、この世に呪縛され続けていた魂が不意に解放され自由になっていくのが体感できる。
(そうか、もう俺は戦わなくていいのか。ようやく家に還られるのか)
何十年ぶりかに解放された魂が歓喜に打ち震える。
少女が深々と頭を下げてきた。
(あぁ……あんたは俺たちに頭を下げ、労わってくれるのか。ありがとうと言ってくれるのか。俺達の死は無駄ではなかったと、そう思ってくれるのか…ありがたい、ありがたい)
川田の身体はゆっくりと大気の中に消え逝き、そして魂魄だけがゆっくりと飛び去って行った。




