21世紀の預言者
アダムに始まり、イエスを筆頭にムハンマドまでの25人の預言者達。彼らは神の言葉を預かり、人々に広める役割を担った。乱れた時代に現れ、各地で世界を正す為に活躍した彼らが、伝説上の人物になって久しい。理由と証拠を求め、目の前の真実を見ようとしなくなった現代において、彼らの偉業は夢物語の一つなのだ。しかし、乱れた時代に預言者は現れる。この、21世紀にも。
櫛原光夏16歳。地元の高校に通う2年生。家は神社だが、それを除けばごく普通の女子高生。器械体操部に所属し、成績も優秀な健康優良児だ。
「芳川さん、こんにちは。今日はいいお天気でしたね」
そんな彼女は、週に1度病院へ通う。風邪一つ引かない彼女が、カトリックの大病院に通う理由は、ボランティアである。ホスピスで死を待つ人達。様々な人生を送り、様々な病気を患った人達がいるが、誰しも抱く想いがある。
寂しい。怖い。
彼女は、医者でも無ければカウンセラーでも無い。ただの女子高生である。それでも、出会った人達に何かをしたかった。寄り添い、話を聞く。ただそれだけの、例え小さな力だとしても、無力ではない。ある日、そう教えられた事でこの場に通うようになった。
「光夏ちゃんが来てくれるのが、毎日楽しみで仕方ないわ。また、聖書を読んでくれるかしら」
芳川さん。HIVに感染した事から人生が狂った。肌は荒れ、髪も抜け落ちた中年の女性。光夏が出向くと、いつも聖書の朗読を頼まれる。当然、光夏はクリスチャンではないが、読み聞かせる内に知ったイエスの物語には、何度も心を打たれた。今日も、読み終えた頃には芳川さんは泣いていた。半身不随となり、動かなくなった左手を、無理やり右手で掴んで持ち上げる。そして胸の前で手を合わせ、泣きながらただ一心に祈りの言葉を捧げるのだ。
「光夏ちゃん…一つ、話していなかった事があったわね」
祈りを終えると、真っ赤に腫れた目を向けながら、唐突に芳川さんは話し始めた。
「私は、女性しか愛せないの。男の人と関係を持ったけど、心が満たされるどころかこの様よ。ずっと、心の隙間が埋まらないの」
突然のカミングアウトに、光夏は動揺した。いつも、感覚の残る右手を握って話を聞いていたが、今はその右手も震える。
「私は、もう長くは無いわ。お願い…一つだけお願いがあるの。私を、抱きしめて」
「え…?」
状況を理解するのに、少し時間がかかった。今まで、学校帰りに聖書を読み聞かせていた芳川さんが同性愛者?そして、自分は今、女性しか愛せない同性愛者にハグを求められている?
「…ごめんなさい。突然変な事言っちゃって。もう日が暮れるわ」
戸惑う光夏に、寂しそうに、申し訳なさそうに芳川さんが声をかける。
「すいません…また、来ます。おやすみなさい」
光夏は、何もできなかった。その場から、逃げたいと思ってしまった。頭には、イエスが浮かんでいた。イエスは、社会から隔離され、虐げられていた人々…彼の言葉を借りるなら『小さくされた人々』に進んで触れた。全てを受け入れ、寄り添った。何度も、何度も読んだ物語。それでも、光夏は動けなかった。自己嫌悪を感じつつ、とぼとぼと帰り道を歩く。
「お嬢ちゃん、何を暗い顔しているんだい?」
コンビニの前を通りかかった時、声をかけられた。ジーンズに白無地の長袖Tシャツ。ひょろりとした長身の外国人は、光夏に笑顔を向ける。
「…あなたは!」
突然の再開に、光夏は驚く。1年前、光夏にホスピスの存在を教えた人だ。その時も、学校の帰り道に突然現れ、アドバイスをして去って行った。光夏は、抑えきれなくなり、今日の出来事を話した。
「そうか。それは辛い思いをしただろう。君は苦しんだが、それはそこに愛があるからだよ」
外国人は、光夏の頭をぽんぽん。と叩いて慰めた。
「小さくされた人々は、社会から冷たい扱いを受けている。誰にも認められないと言うのは寂しい事だ。自己肯定もできず、ただ一人で漂うしかない。自分の全てを受け入れて欲しいという望みも叶わないまま。そんな時こそ、寄り添わなくてはいけない。生きていていいんだよ、そこにいていいんだよ、そんな簡単な言葉をかけるだけで、救われる人もいる。全てを受け入れ、黙って寄り添うだけでいいのさ。でも、それが難しくもあるんだけどね」
「私…行かなきゃ」
もう、今の光夏に迷いは無かった。
「行ってらっしゃい」
外国人は、満足気な笑顔で送り出す。
「芳川さん!」
光夏は、病室に走って戻った。そして、ベッドの上の芳川さんに抱きつく。
「どうして…こんなに急いで」
「さっきはごめんなさい。でも、一つだけ言わせて下さい。私は、ここに。あなたも、ここにいます」
それからしばらくして芳川さんは亡くなった。安らかな顔をして聖書を持ち「救いの預言者は現れる」と言い残して。