門出
雪乃に別れを告げて一週間が経つ。いや、この表現は間違っている。『雪乃から逃げて』これが正しい表現だろう。29年の人生でたくさんの人間と出会ってきたが、こんなに短期間で人間とは人を愛せるものだったんだ、雪乃から俺は色んな事を教わった気がする。
俺は相変わらず忙しい毎日を過ごしている。出来る限り、雪乃のことを考えまいと、今まで以上に仕事に集中し、遅い時間まで資料に目を通す。しかし、こんな風にふと気がついたときには、頭の中が雪乃のことで一杯になる。まだ目は覚めていないのだろうか、今頃どうしているのだろうか?と。カップに入ったコーヒーを仕事机から持ち上げ、窓から暗くなった外を眺める。秋の京都は紅葉見物客で遅くまであちこちに火が灯り、賑わっている。入り口の扉が開く音が聞こえ、俺はゆっくりと振り返った。
「野瀬君、まだいたのかね?ごくろうさん。」
教授が少し疲れた顔で俺に微笑む。
「教授こそ、遅くまでお疲れ様です。」
「いや、ほんとに参ったよ、今日は・・・。」
そう言ってソファーにドカッと腰をかけた。俺は教授にコーヒーをいれ、ソファーへ歩き、教授の前のソファーへゆっくりと腰を下ろす。教授の前にコーヒーを置いた。
「あぁ、ありがとう。今日は講演会だったんだが、今日の傍聴者はつわもの揃いだったよ。なかなか帰してくれなくてね。」
「大変でしたね。」
「しかし、明日から少し余裕が出来そうだ。」
そう言って野瀬のいれたコーヒーを美味しそうに飲んだ。
「しかし、また急がしくなるんでしょう?明日からは少し休養を取られてはどうですか?」
「そうしたいんだが、ね。」
教授は一呼吸置いた。
「野瀬君・・・。」
「はい。」
「実は、事務所を九州へもう一つ作ろうかと思うんだ。」
「九州・・・ですか?」
俺は何気に教授の話を聞く。教授はチラッと俺を見た。
「あぁ。それでだ。君に・・・そこの所長を務めてほしいと思っているんだが・・・。どうかね?」
教授の突然の言葉に飲みかけたコーヒーを噴出しそうになる。
「私・・・ですか?いや・・・でも・・・私はまだ弁護士になって日が浅いですし・・・。」
「確かにそうだがね。弁護士になってからの君の評判は、たいしたもんだよ。弁護士会までその噂は流れているようだ。弁護士はたくさんの事例をこなし、経験を積まなきゃいけない。所長になろうと、それは今までと何も変わらないんだよ。」
「しかし・・・。」
「彼女が・・・気になるのかね。」
教授が静かに俺に問う。俺は小さく息をつく。
「いえ・・・。彼女は関係ありません。私はもう・・・。」
会いに行くことはありません。俺も静かに言った。
「会いに行かない?どうしてかね?」
「いえ、特に何もありませんが・・・。」
教授は俺をじっと見る。手に持っていたカップを静かにテーブルに降ろした。
「まぁ、言いたくなければ、これ以上は聞かないが・・・。それなら問題はないだろう?」
「・・・。」
「すぐに返事をくれとは言わんよ。少し考えてみてくれないか?」
「・・・はい。わかりました。」
教授はニコッと笑い、
「さて、今日は疲れたからこれで失礼するよ。」
そう言ってドアに向かって歩き出す。俺はソファーから立ち上がり頭を下げた。教授の姿が見えなくなったのを確認し、再度ソファーへ座りなおす。
「九州か・・・。」
俺はポケットに手を入れ目を閉じた。目の裏に浮かぶのは雪乃の顔。俺はもう雪乃には会わないと決めたのに、この一週間一層雪乃のことが頭の中にグルグルと回っている。
「この際、京都から出て、遠く離れた地に行くのもいいかもしれないな。」
多分この先、ここにいれば彼女に対する想いは消えることはない。いや、離れてもそうだろう。しかし、近くにいるより離れていた方が諦めもつく。彼女も目が覚めて、退院したらきっとまた東京へ戻るに違いない。
「・・・痛いな。」
俺は胸を押える。胸の奥のどの部分が痛むのか分からないが、雪乃と会っていないこの一週間、ずっと個の痛みをおぼえている。分かっている。すぐに治らない痛みだということは。
「・・・明日、教授に返事をしよう。」
気が変わるといけない。早い方がいい。俺はソファーから立ちあがり、重い足を引きずるようにドアに向かって歩く。
「それでは九州新事務所の設立と、野瀬君の所長就任を祝って・・・。」
乾杯!教授の乾杯音頭に合わせ全員でグラスを宙へかざす。所長の話を貰った次の日、俺は教授へ了承の返事をした。今日はそのお祝い(?)ということで俺がこの事務所に来て、初めての飲み会。珍しく牧野も参加している。
「牧野さんも、飲み会などは参加する方なんですか?」
別に嫌味を言っているわけではない。いつも18時にはきっちり帰る牧野が20時にここにいることが不思議だった。
「いつもではないですが・・・。たまには参加しないとうちの奥さんが逆に心配するんでね。」
「そうなんですか?珍しいですよね、飲み会に行かないと心配する奥さんも・・・。」
「余りこんな話はしないんですが、女房は体が弱いんです。私が18時に帰るのは子供を保育園へ迎いに行くからです。女房なりに悪いと思って気を使ってるんですよ。自分のせいで、私の時間を費やしているんじゃないかってね。だからたまにはこういう場所にも参加して安心させないと、体に負担がかかりますから・・・。」
牧野はそう言って、グラスの中のビールを一気に喉に流し込んだ。
「正直、意外でした。奥さん想いなんですね。」
俺もグラスを空け、瓶に手を伸ばす。取ろうとした瓶を牧野が先に取り、俺のグラスに注いだ。
「女房は私が二人目の旦那なんです。初めの夫は酒癖が悪くて、女房への暴力がひどかったそうです。お腹に子供がいたそうなんですが、そのせいで流産しましてね。私と結婚してからもその後遺症で余り体調が良くなかったのに、私の子供を産むことだけは頑として譲らなかった。思えば、結婚した当初から女房の私への気遣いは始まっていたんですよ。」
牧野は自分のグラスにビールを注ぎ、また一気に飲み干す。俺は黙って牧野の話を聞いた。この男も本当は色んな事を胸に抱えているに違いない。
「しかし、私はこんな人間です。うまく相手に気持ちを伝えられない。多分、たった一言『愛してる』そう言えたら・・・。」
牧野は苦笑いをする。
「変な話をしてしまいました。すみません・・・。」
「いえ・・・。」
牧野の言葉が何故かすごく俺の心に響いた。
「本当に、奥さんを愛しているんですね・・・。」
「えぇ・・・まぁ・・・。」
恥ずかしいのか、牧野は頭をポリポリっと掻いた。
「私は昔から女性とは縁がありませんでしたから。女房と出会ったことは私にとって、奇跡なんです。」
「奇跡・・・ですか。」
「そう思わないと何だか罰があたる気がします。」
牧野は今度は一口ビールを飲んだ。うっすらと柔らかな表情でグラスを見つめる。
「女房にプロポーズしたあの時の勇気・・・。私にはあれ以上に怖いものはありませから。」




