記憶喪失
雪乃は寂しそうに笑いながら言った。
「お願いがあるの。」
ベンチから立ち上がり、ゆっくりと振り向いて泣きそうな大きな瞳でまっすぐ野瀬を見つめた。
「あなたに、私の秘密を共有してほしいんだけど、お願いできるかしら?」
★
ベンチを見つけ腰を下ろし、煙草を思いっきり吸って一気に吐き出す。
ふと、さっきまで自分が居た病室を見上げた。ここから見る病室は緑の木々が光を反射しとても明るく、
笑い声さえ聞こえる。先ほどとは大違いだ。
1時間前、彼女の意識が戻ったと知らされ俺は、仕事場を飛び出しあの病室向かった。久しぶりだった。こんなにも全速力で走ったのは。病室の入り口で足を止めた俺の視線の先に目を開けた彼女がベッドに横たわっていた。カーテン越しの光が当たった彼女の頬は以前より少し痩せてはいたが、くせのある長い髪、茶色かかった大きな瞳、血色のいい唇は一ヶ月前と何も変わってはいない。
ベッドの傍らには白衣姿の医者と両親がいた。
「雪乃。大丈夫か?」
父親が彼女に声をかけた。しかし、彼女は反応しない。まっすぐに白く高い天井を見つめていた。
何かがおかしい。俺にも何となくわかった。なんだ?そう自問自答し、一歩病室に足を踏み入れたときだった。彼女の視線が父親に注がれ、小さく口を開いた。
「どなたですか?」
病室の空気が一変したのが全身で分かった。
「身体に異常は見られません。一時的なものだとは思われますが、何か大きなショックを受けたのでしょう。記憶を失っておられます。何時回復するか、はっきりとは断定できません。もう少し入院して様子を見てみましょう。」
俺は刑事になって6年、たくさんの事件を追い、数知れない人と一時的な出会いがあった。人との付き合いは正直得意ではない。世の中にはどれだけの人間がいて、自分の人生にどれだけの人間が関わっているのか興味もないし、知りたいとも思わない。仕事だと割り切ってこそ、事件を解決したいと思えばこそ人と接するのみ。ただそれだけだ。親と兄貴、数えられるくらいの親友、信頼できる同僚くらいが俺の目にまともに映る人間。彼女なんかもちろんいない。女という存在は面倒臭いとしか思えない。
31歳になって彼女もいない俺をまわりは心配する。同僚は早く結婚しろと急かす。刑事という職業のせいだということは十分に理解はしているのだ。何か事件があれば何日も職場に泊り込み、出会いなんかなかなかない。それでもいいと思ってきた。仕事の充実感と自分の自由な時間さえあれば俺は十分満足だ。それが俺の人生であり、これからもその考えは変わらない。そう思っていた。彼女に出会うまでは。
もう一本煙草を吸おうか迷って、いや、やめておこう。ポケットにしまう。もう一度病室を見上げた。
「くそっ」
何かがもやもやする。事件を解決できない時とは違う、くやしい?つらい?、いや違う。まわりから無表情とか感情表現が下手だとはよく言われるが、決してそうではない。俺は、悔しいことは悔しい、嬉しいことは嬉しい、ちゃんと感じられる人間だ。こんな晴れた青空だって気持ちいいと感じられるのに、今俺の中で起こっているこの感情を一体何と表現すればいいのか。しかし、原因は分かっている。こういうもやもやは嫌いだ。
原因が分かっているなら、自分で解決したらいいだけの話だ。確かに今までの問題とは少し違うようだが、今までもずっとそうしてきたんだ。今回だって同じことだ。そう自分に言い聞かせながら足早に病室へ向かった。ドアを開けると彼女が一人ベッドに横たわっているだけだった。俺はゆっくりと近づいた。人の気配を感じたのか、彼女はゆっくりと目を開き俺を見た。
「貴方は、誰?」
彼女は小さな声で俺に尋ねた。
「気分は?」
彼女の質問になぜ答えなかったか、自分でも良く分からなかった。
「そうね。良いのか悪いのか良く分からないわ。」
「だろうね。一ヶ月も眠っていたんだから。」
彼女は少し目を開いて、そうなの?と言った。
「さっき、誰も言わなかったのか?」
「ええ。誰も言わなかったわ。みんな悲しそうな顔で出て行ったけど。」
一度下を向き、すぐ俺を見上げた。
「貴方は悲しそうではないわね。」
「じゃぁ、どんな風に見えるかい?」
「そうね・・・。」
彼女はゆっくり目を閉じ、
「何だか、愛しいものを見るようだわ。」
そう言って目を開き少し笑った。
彼女の言葉に一瞬息が詰まったが、俺も小さく笑い返した。
「そんなこと言って恥ずかしくないのか?」
そう?彼女はキョトンとして首を少し傾けた。
「ねぇ、お願いがあるんだけど。」
「なんだ?」
「外が見たいわ。」
OK。俺はそういって、足元のレバーを回した。
「ありがとう。」
「カーテンも開けようか?」
「うん。」
ガラス越しに外の景色を見て、彼女ははじめ眩しいのか大きな目を細めた。次第にゆっくりと元の大きな目に戻り、目尻を下げて微笑んだ。
「緑が綺麗。今は夏なのね。太陽が眩しいわ。」
「そうだな。久しぶり見る景色はどうだい?」
「う~ん。」
彼女は手を口元にもっていき、大きく息を吸った。
「不思議な気分ね。貴方が言ったように一ヶ月眠っていたのなら、眠る前も同じ太陽の光を見ていたはずでしょ?でも私は覚えていない。」
彼女は言葉を切り、じっと窓の外を見た。
「でも・・」
彼女はそう言って、俺を見上げた。
「何だか落ち着くわ。貴方と一緒に見てるせいかしら?」
そう言って満面な笑みを俺に投げかけた。
「君は人を恥ずかしがらせるのが得意なんだな。」
チクリと胸の奥が痛んだ。彼女が記憶喪失だからか?それも確かにある。彼女と笑顔をみて、さっきのもやもやが何だったのか、この胸の痛みが何なのか。よく分かった。
ー彼女の記憶の中に俺という人物がいたことを、彼女が忘れてしまったからなんだと。ー
そして、
ー俺と彼女しか知らない秘密を、今は俺しか知らないということ。ー
「俺といて落ち着くなんて初めて言われたな。君は変わってるよ。でも、君から言われるとなぜか悪い気はしない。君だけは特別だ。何かあったら俺を呼べばいい。時間がある時は来るよ。」
「ほんとに?嬉しいわ。後で看護婦さんに電話番号を伝えて。」
彼女は本当に嬉しそうだった。
分かったよ。俺は手の平を少し高く上げてひらひらと動かした。
「そんなに嬉しいかい?」
「嬉しいわ。だって・・・」
彼女は俺を見て言葉を切った。
「そういえば名前を聞いてなかったわ。」
「野瀬だよ。野瀬健吾」
よろしく。俺は彼女に挨拶をした。さっきは答えられなかったが、何故か今回は抵抗がなかった。
「私は・・・」
「知ってるよ。氷川雪乃さん。」
俺は笑って頷いた。
彼女はチラッと俺を見上げ、ゆっくり視線を外に向けた。彼女の手がシーツをゆっくり掴む。
「ごめんなさい。」
彼女は小さな声でそう言い、唇を少し噛み締めた。
「貴方・・・野瀬さんは私のことを知っているのに、私はあなたのことを覚えていない。それどころか、自分のこともわからない。ごめんなさい。」
彼女は何度も俺に謝り、小さく息をついた。
俺は近くにある椅子をベッド脇に寄せて座った。彼女はいつも苦しんでばかりなのか。本当に・・世の中は不公平だ。俺は自分の太ももを軽く叩き、謝らなくていいさ。そう彼女に言った。
「いいじゃないか。君が忘れていても、俺が覚えてる。俺だけじゃないよ。家族や友達もちゃんと君を覚えてる。一ヶ月前もちゃんと君が生きていた証拠だ。大丈夫さ。今は悩まずにゆっくり休めよ。」
自然と出た言葉に自分自身少し驚いた。
「そろそろ職場に戻らないと怒られるな。」
俺は時計を見て、さてと。と椅子から立ち上がった。
じゃあ、行くよ。俺は彼女にそう言って病室の出入り口に向かって歩いた。
「ありがとう。」
背中から彼女の声が聞こえた。俺は手をあげてそれに答えた。
「ねえ!」
もうひとつだけ・・・。彼女が少し大きな声で言った。
「一ヶ月前の私は、幸せそうだった?」
彼女の不安げな質問に、今度は俺が彼女に見えないよう唇を噛み締めた。口元の力を抜き、顔だけを彼女に向け、
「ああ。」
笑って答え、病室を出た。少し歩いて立ち止まった。
「くそっ・・・。」
何に対して悔しいのか分からない。
俺は長い廊下をまた歩き出した。歩きながら心の中でもう一度君に答えた。
「いいや、君は幸せそうじゃなかったんだ・・・・。」




