別れ話
俺は歩き慣れた道を歩いていた。彼女の待つあのカフェに一歩ずつ進んでいた。
軽快なベルの音が温かい店内に鳴った。驚くほどに人が少なかった。
「いらっしゃいませ」
女店員の高い声が聞こえた。レジを挟んだ向こうには厨房が見えた。あのメープルシロップの香りが流れてきた。
「何名様でしょうか?」
女店員が訊いてきた。俺は手の平を向けて店内に入っていった。
見回しても彼女の姿がないように思える。
「こっち」
彼女の声が聞こえてきた。
「わるい、遅れたな」
彼女の顔を見て、謝った。目を合わせてはくれない。
「どうせいつものことでしょう?」
そう言われちゃ、そうだけれど謝ったのだからいいだろう。
男店員が一杯の水を持ってきた。
「おにーさん、コーヒーひとつ」
「すぐにお持ちします」
彼女は男店員を睨むように見送った後、俺を見た。やっと目が合った。
「シュンヤ。この前言ったこと覚えてる?」
「あぁ、覚えてるさ。別れようって話だろう? 俺は嫌だね」
彼女は目頭を摘まんで、溜息を吐いた。
「あなたが嫌だって言ったって、私は別れるわ」
「なに言ってんだ。今住んでる部屋の家賃も払えないくせによ」
彼女は顔をしかめて、目を逸らした。
「それにどうせ、俺と別れるのも他の男がいるからだろ?」
「違うわよ! 誰が男となんか付き合いますか! あんたで終わりよ」
また言ってる。彼女はこんなこと言ってる割に、浮気を繰り返す。
「浮気を何回した? んー? 数えらんねえな」
顔が真っ赤になって、この女はカップに口を付ける。ホットミルクだった。
女店員がコーヒーを持って来てくれた。この店は、ブラックだ。
「おねーさん、おねーさん! 砂糖と、ミルクくれない?」
彼女は窓の方を見ていた。
「どうした? パンケーキでも食えばいいじゃねえか。どうせ、俺の金だろう?」
「何言ってるの、あなたの口座からは、この一か月下ろしてないわよ」
一か月、たったの一か月だ。この半年間で一体いくらこの女が使ったのか分からない。
「お前は、黙ってりゃいい女だよな」
「うるさいわね、くそ男」
彼女はココアを飲み干した後、スマホを取り出して触りだす。
「次、来れるのはいつだよ」
「もう会わない。そう言ってるでしょ?」
俺は、深く溜息を吐いた。
「お前が死のうが生きてようが、何度でもここに来るぞ?」
「ばっからしい。馬鹿なんじゃないの?」
相変わらず口がうるさい彼女は、スマホを鞄に入れて席を立った。俺も同時に席を立ち、彼女の後ろを歩いた。
「毎回悪いわね」
レジでたった二杯の飲み物のお金を払った。こんなのは、安いものだ。
彼女と駅で別れた。彼女と住んでいた部屋に俺は歩き出した。
部屋の電気を点けた。冷たい空気が嫌だった。上着は脱いでやらない。
冷蔵庫を開けた。一昨日の夜に彼女が作ってくれたおかずがタッパーに入っている。あと四つ。こんなのしなくたってコンビニで食えるのに。
俺は、適当に選んだ生姜焼きを食べた。残り四つのうち、二つが生姜焼き。彼女の得意料理だったはずだ。その割にはあまり美味くない。
タッパーの底に張り付いて取れない焦げた玉ねぎが妙に甘かった。
日本酒を出して、おちょこに注ぐ。俺は一晩中飲み続けた。
いつの間にか、涙が出ていたが知らない。俺は泣いてなんかない。そう言い聞かせることにした。
朝だった。俺はちゃぶ台の前で寝転がっていた。
スマホのアラームが鳴って目が覚めた。午前十時だ。おちょこを床に置いて、ベッド脇に置いてあったパソコンを開く。
会社のアカウントはメッセージばかり。個人のアカウントは意味の分からない検索欄で埋まっていた。バツを押し続けて、全部消えた。
意味の分からないものは見ないことにしている。
しばらく開発の部長とメールをしていると電話が鳴った。
俺は、スマホを取りたくなかった。
頭を抱えていると、パソコンにもその通知が入ってしまった。電話は彼女からだった。
俺は急いで、スマホを取りに跳んだ。おちょこを踏みそうになって転びかけたが、ベッドに倒れた。それも痛いが大丈夫だ。
「もしもし、くそ女」
「くそ男」
「どうした、もう寂しくなったか?」
冗談吹いてみた。けれど彼女は少し声が震えていた。
「別れたくない」
彼女はそう言った。
「わかってる。心配すんな、費用も全部払ってやるからよ」
彼女の笑い声が小さく聞こえた。
「うん。じゃあね、仕事してろくそ男」
「切るぞ、くそ女」
電話を切ったのは彼女だった。何を怖がってんだか。
雨の日だった。彼女のいた病院から、電話が来た。
彼女は死んだ。
俺はいつまでもあのカフェに通う。
こんにちは。音神 蛍です。
久しぶりに、一話完結の短編を書きました。出来る限り短く、そして伝えたいことが伝わるように書いたつもりでありますが、「つもり」のまま終わってしまわないのか不安で夜も眠れなそうであります。
ぜひ、読了後のご感想をいただきたいですね。
よろしくお願いいたします。
ではまた。




