1. チケット
恋人に、自分の似顔絵を描いてもらったことがあるだろうか。
なかなか珍しいと思う。
美術の授業でペアのクラスメイトが描いてくれた、じゃなくて。
何かのイベント会場で似顔絵師に描いてもらった、じゃなくて。
恋人に、だ。
俺は、そんな経験なかった。
だけど、それと近いことが、今、目の前にあった。
壁にかかったキャンバス。
白い壁がずらりと続く静かな空間で、淡いライトが当たる。
その中心には、ひとりの人物がいる。
真横から、半歩後ろへ下がった位置……そこからちょっと見上げるようなアングル。誰かと並んで歩くけど、気づけば一歩遅れてついてくる、そんな目線。
肩の傾き、頬の輪郭まで、丁寧に拾われている。
……あれ、これって。
見る人によってはただの人物画だろう。モデルが誰かなど気にも留めない。
でも、俺にはわかる。
胸がざわつく。
知らないうちに誰かに描かれて、人前に出されて……こんなこと、普通なら不気味に思うだろう。もし誰かに似ていると気づかれたら?なんてところまで想像するかもしれない。
それでも、目が離せない。
キャンバスの色づかいが、俺の戸惑いごと受け止めるように柔らかく、静かに光を帯びている。
均一で完璧だけど、どこかにわずかな揺らぎがある。
知っている誰かの目線が、そこに残っている気がした。
ドキ、と心臓が鳴る。
戸惑いだけじゃない。驚きと、少しの喜び。
──それに、どうしようもない後ろめたさが混ざっていた。
「……なんで、俺がここにいるんだよ」
思わず、口をついて出た。
……元カノが、AIで、俺を描いていたんだ。
◇
数日前。
昼間の柔らかい日差しが、窓のブラインド越しに落ちる店内。
俺はいつものカラオケ喫茶にいた。
「陽太くん、会計頼むよ」
「はーい!」
窓辺の席から声がして、反射的に振り返る。
常連の佐々木さんが立ち上がって手を挙げていた。
机を拭いていた布巾をさっと回収して、カウンター端のレジに小走りで向かう。
「いつものカラオケ喫茶」とはつまり、俺の職場。父さんと母さんが始めた店で、今は俺も一緒に回している。
コーヒーとたまごサンドのセット。
手慣れた指が瞬時にキーを打ち、差し出された現金を受け取る。
「レシートは、どうされます?」
「いらないよ」
答えを知りながら聞くのも、習慣のようなものだ。
にこやかに返す佐々木さんは、ふとレジを指差して言った。
「そういえば、これ。新しくなるんだったかな?」
「はい、週末に端末が届くんです。タッチレス会計ができるやつで。でも、このレジも残しますよ。雰囲気ありますし!」
「なるほどねえ、ここも少しずつ変わっていくんだね」
そんなやりとりをして見送る。心地いい懐メロのBGMが流れる中、作業に戻ろうとしたとき……扉がカランと鳴った。
宅配便の配達員さんが、細長い封筒を抱えて入ってくる。
「お届け物でーす」
「あ、はい!」
「森本陽太さまでお間違いないでしょうか?」
「はい、そうです。ありがとうございます!」
伝票の端を指で示され、ボールペンを渡される。受け取り欄に名前を書く。
……新しいレジ端末じゃなかったな。ちょっと早めに届いたのかと思ったけど。
外に出て配達員さんを見送りながら、受け取った封筒を空に透かしてみる。
白くて細長い封筒。中には、同じ形の少し小さい紙が透けていた。
宛名は俺の名前。送り主は……
「……え、マジで?」
すぐに室内に戻り、封筒を開ける。手が少し震えて、うまく切れない。
それでも中の紙は破けることなく出てきた。
さらさらとした横長の紙。思わずなぞりたくなる。
端には、切り取り線と日付。中央には、滑らかで繊細な風景画。
その横には、手書き風のサイン。金色の箔押しがされたその文字が、キラキラと光を反射して輝いていた。
──A. Kisaragi
ごくり、と息をのむ。
これは……絶対、綾だ。如月綾。俺の、元カノのペンネーム。
そっか。綾、夢叶ったんだ。
めちゃくちゃ頑張ってたもんな。個展ってこと?良かったじゃん。
連絡が取れないから、どうしてるのかまったくわからなかった。
喜ばしいことだ。でも、胸の奥がかすかにチクリと痛む。
なぜか。その理由は、自分でもよくわかっている。
ふと、顔を上げる。
カウンター席とテーブル席の奥、カラオケステージ。
アコースティックギター、マイク、アンプ。スポットライトは誰も照らさず、静かに佇んでいた。
……綾は、夢を叶えたんだ。
本当に良かった。
深呼吸をひとつ。再びチケットに目をやる。
場所は?時間は?心を落ち着かせながら視線を動かす。
そこで目に飛び込んできた文字。
見落としていた、個展のタイトル。
──「AI × Art──A. Kisaragi個展」
「……AI?」
息が詰まる。
理解はまだ追いつかないのに、心だけがざわついていた。