第18話 本物の感情
王都の片隅にある古い庭園は、長い間忘れられた場所だった。石造りのベンチには蔦が絡みつき、噴水は枯れて久しい。でも、その静けさが今の私には心地よかった。
カイゼルは私の隣に座っていた。黒い髪が風に揺れ、金色の瞳が遠くを見つめている。彼は朝早く、公爵邸の私の部屋をノックして、有無を言わさず外に連れ出したのだ。
「これも契約の一環だ」
彼はぶっきらぼうに言った。
「婚約者がやつれていては、俺の沽券に関わる」
言葉は素っ気ない。けれど、その奥にある優しさを感じ取れた。昨日から食事も喉を通らず、眠ることもできなかった私を心配してくれているのだ。
庭園の向こうから、街の喧騒がかすかに聞こえてくる。人々の笑い声、商人の呼び込み、馬車の音。普通の日常が、そこにはあった。
「……ありがとう」
「何がだ」
「こうして、外に連れ出してくれて」
「礼なんていらない」
カイゼルは立ち上がった。
「行くぞ」
「どこへ?」
「デートだ」
私は目を丸くした。
「デート?」
「婚約者らしく振る舞うんだ。街の連中に見せつけてやる」
「でも、私は今……」
「だからこそだ」
彼は振り返った。真っ直ぐな視線が私を射抜く。
「噂に負けるな。堂々としていればいい」
その言葉に背中を押された。私は深く息を吸い込んで立ち上がった。
庭園を出て、市場へと続く通りに出る。午後の日差しが、石畳を白く照らしていた。人通りも多く、すぐに注目を集めた。
「あれ、ヴァルトハイム公爵家の」
「隣にいるのは、例の」
「本当に婚約者なのかしら」
囁き声が聞こえる。でも、カイゼルは動じない。堂々と歩いている。私も、その隣を歩く。背筋を伸ばして、前を向いて。
露店が並ぶ一角に差し掛かった。色とりどりの商品が、所狭しと並んでいる。カイゼルは、その中の一つの店の前で立ち止まった。
髪飾りを売る店だった。銀細工の繊細な飾りが、陽光を受けてきらきらと輝いている。
「どれか選べ」
「え?」
「婚約者への贈り物だ」
店主が目を輝かせた。
「お嬢様、こちらなどいかがでしょう」
差し出されたのは、紫水晶をあしらった髪飾りだった。私の瞳と同じ色。
カイゼルが手に取った。そして、私の髪にそっと差した。指先が一瞬だけ髪に触れる。
「似合う」
短い言葉だったが、心臓が大きく跳ねた。
店を出て、通りを歩く。今度は私が立ち止まった。焼き菓子の店だ。甘い香りが漂ってくる。
「カイゼル、これ好きでしょう?」
「なぜ知ってる」
「前に執事さんが言ってたの。坊ちゃまは、この店の焼き菓子がお好きだって」
彼の表情が、わずかに和らいだ。
「……余計なことを」
でも、嫌そうではない。私は焼き菓子を買って、彼に手渡す。
「はい、お返し」
「お返し?」
「髪飾りの」
カイゼルは少し困ったような顔をして、それを受け取った。そして、その場で一口食べる。
「……うまい」
子供のような素直な反応に、思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「ううん、なんでもない」
でも笑みは止まらなかった。あまり見せない彼の素顔。強がりの仮面の下にある、普通の青年の顔。
通りを抜けて、王都を見下ろす丘へと向かった。午後の陽射しが、街を黄金色に染めている。遠くに王宮の尖塔が見え、その向こうには双月山脈が霞んでいた。
私たちは丘の上のベンチに座った。風が心地よく吹き抜けていく。
しばらくの沈黙の後、カイゼルが口を開いた。
「なぜ、あの時俺の手を取った?」
突然の問いだった。でも、私には分かった。あの日、婚約を申し込まれた時のことを聞いているのだと。
「逃げたかったから」
「それだけか?」
「……違う」
私は深く息を吸った。
「あなたとなら、運命を変えられると思ったから」
カイゼルの金色の瞳が、真剣な光を宿している。
「なぜ、そう思った」
「分からない。でも、あなたの瞳を見た時、この人となら大丈夫だって、そう感じたの」
「根拠もなく?」
「根拠なんていらなかった。直感だけで十分だった」
カイゼルの表情が変わった。いつもの皮肉な笑みではない。心からの、穏やかな笑顔だった。
初めて見る、その表情。
胸が、大きく高鳴った。
――これは、何?
分からない。でも、確かに感じる。温かくて、切なくて、苦しいような、不思議な感覚。
カイゼルも、私をじっと見つめていた。その瞳に、今までとは違う何かが宿っている。
「リーナ」
「……はい」
「俺は」
言いかけて、彼は口を閉じた。そして、視線を逸らす。
私も、同じように視線を逸らした。顔が熱い。心臓が、うるさいほど鳴っている。
気まずい沈黙。でも、不快ではない。むしろ、甘い緊張感があった。
――偽りの婚約のはずなのに。
契約だけの関係のはずなのに。
なぜ、こんなに胸が苦しいのだろう。
風が吹いた。髪飾りが、かすかに音を立てる。カイゼルが選んでくれた、紫水晶の飾り。
「帰るか」
カイゼルが立ち上がった。夕日が、彼の横顔を赤く染めている。
「……うん」
私も立ち上がる。でも、足が動かない。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。そんな願いが心をよぎった。
「リーナ」
「はい」
「明日から、審問会の準備をする」
現実に引き戻された。そうだ。三日後には、審問会が待っている。
「俺が必ず、リーナを守る」
その言葉に、また胸が高鳴った。
――お前、じゃなくて、リーナって呼んでくれた。
小さな変化。でも、とても大きな変化。
私たちは、並んで丘を下りた。夕焼けが、二人の影を長く伸ばしている。手と手の間は、ほんの少しの距離。でも、その距離が、今はもどかしかった。
偽りの関係に、本物の感情が芽生えた瞬間。
それに私は気づいた。
でも、口にすることはできなかった。