第16話 揺れる想い
王家の主催する夜会が始まって間もない頃、王宮の庭園は色とりどりの魔法灯に照らされ、幻想的な光景を作り出していた。噴水から立ち上る水飛沫が、蒼月と紅月の光を受けて七色に輝く。貴族たちの笑い声と、楽団の奏でる優雅な旋律が夜風に乗って流れてくる。
私はミラベルとアルテミシアと共に、噴水近くのテーブルで冷たい果実酒を飲んでいた。二日前、ユリウス王子からカイゼルへの決闘申し込みの報せを聞いてから、ずっと胸の奥に重い石を抱えているような気分だった。
それでも、せっかくの祭りだからと、ミラベルが誘ってくれたのだ。薄紫色のドレスを着た彼女は、いつもの研究服とは違って可愛らしい。アルテミシアも、獣人族の正装である革と毛皮を基調とした衣装で、野性的な美しさを放っている。
「また見てやがるな、あいつら」
「アルテミシア、気にしないで」
「でもリーナ、さっきから貴族どもがじろじろと……」
私は軽く首を振った。視線を感じないわけではない。むしろ、痛いほど感じている。カイゼルとの婚約、そして王子との決闘の噂は、あっという間に社交界に広まってしまった。
「無響者のくせに、なぜヴァルトハイム公爵家の嫡男と」
「聞いた? 王子様まで巻き込んでるらしいわよ」
「何か怪しい術でも使ったんじゃないかしら」
遠くから聞こえてくる囁き声が、小さな針となって私の心を刺す。
アルテミシアが立ち上がった。琥珀色の瞳が、縦長の瞳孔に変わりかけている。
「おい、てめーら! 聞こえてんだぞ!」
彼女の一喝に、周囲の貴族たちが蜘蛛の子を散らすように遠ざかっていく。獣人族の戦士の威圧感は、都会育ちの貴族には恐怖でしかないのだろう。
「アルテミシア、ありがとう」
「礼なんていらねぇよ。友達だろ」
「でも、これ以上騒ぎを起こすと……」
「大丈夫ですわ。彼らも、これで少しは大人しくなるでしょう」
ミラベルが眼鏡を直しながら言った。その優しさが心に染みる。
私は立ち上がった。人混みの中にいると、息が詰まりそうだった。
「少し、夜風に当たってくるわ」
「一人で大丈夫?」
「うん。すぐ戻るから」
二人の心配そうな視線を背に、私は噴水から離れた。庭園の奥へと続く小道を歩いていく。人の声が次第に遠ざかり、代わりに虫の音が聞こえてきた。
月見の丘と呼ばれる小高い場所に辿り着く。ここからは王都の夜景が一望できる。無数の灯りが、地上の星空を作り出している。
私は深く息を吸った。冷たい夜気が肺を満たし、少しだけ頭がすっきりする。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
カイゼルとの偽りの婚約。それは運命から逃れるための、ただの契約だったはずなのに。
足音が聞こえた。振り返ると、金茶色の髪が月光に照らされている。
「ユリウス王子……」
彼は穏やかな微笑みを浮かべていた。公式の場で見る堅い表情とは違う、柔らかな表情だった。
「君と、少し話がしたかった」
「私なんかと、何を」
「君だからこそ、話したいことがあるんだ」
ユリウスは私の隣に立った。適度な距離を保ちながら、同じように王都を見下ろす。
「美しい夜景だね」
「……はい」
「でも、この光の一つ一つに、たまゆらに苦しむ人がいるかもしれない」
意外な言葉に、私は彼を見上げた。青い瞳はじっと街を見つめている。
「殿下、お立場的にそう言ったことは」
「僕も疑問を感じているんだ。この国の在り方に」
――僕?
いつもは「私」のはず。今の彼は王子としてではなく、一人の人間として話しているのだと理解した。
「君は、たまゆらできないことで苦しんできた。でも、それでも前を向いて生きている。その強さは、どこから来るんだろう」
「強さなんて……私はただ、逃げているだけです」
「逃げることも、時には勇気だよ。特に、理不尽な運命からなら」
彼の言葉が心に響いた。
「僕は王子として生まれ、王子として育てられた。疑問を持つことすら許されなかった。でも、君を見ていると思うんだ。本当の強さとは、運命に従うことじゃない。運命に抗うことなのかもしれないって」
月光が彼の横顔を照らしている。なぜだろう。一切こちらを見ず、彼は街だけを眺めている。その表情には深い苦悩が滲んでいた。
「セレスティアとのたまゆらも、本当に神が望んだものなのか。それとも、ただの偶然なのか。最近、分からなくなってきたんだ」
私は言葉を失った。王子が、妹とのたまゆらを疑っているなんて。
風が吹いた。花の香りを運んでくる、優しい風だった。
「君は、カイゼルを愛しているのか?」
突然の問いに、心臓が跳ねた。
「それは……」
「ごめん、答えなくていい。ただ、君たちを見ていると、たまゆらがなくても心は通じ合えるんだと、そう思えるんだ」
彼の瞳に、寂しさが浮かんでいる。それは、孤独な王子の素顔だった。
「兄様」
冷たい声が響いた。振り返ると、セレスティアが立っていた。エメラルドグリーンの瞳が、月光を受けて鋭く光る。金髪が夜風に揺れ、まさに氷の女王といった風情だった。
彼女は優雅に微笑んだ。完璧な笑顔。でも、その奥に潜む感情を、私は見逃さなかった。
――嫉妬。激しい、炎のような嫉妬。
「兄様……まあ、これはいったいどういう事です?」
「リーナは僕の友人だ」
「友人? 無響者と?」
「たまゆらの有無で、人の価値は決まらない」
ユリウスの声は落ち着いていた。けれど、そこには確固たる意志があった。セレスティアの笑顔がわずかに歪む。
「兄様は、お優しすぎるのです。このような者に情けをかける必要など」
「セレスティア」
彼の声が、初めて厳しくなった。
「彼女を『このような者』と呼ぶな。リーナ・アスティスという一人の人間だ」
空気が凍りつく。セレスティアの顔から笑みが消えた。
私は息を殺して、二人を見つめていた。兄妹の間に、見えない火花が散っている。
「……失礼します」
この場にいることが耐えられなくなり、私は頭を下げた。
「リーナ、待って」
「いえ、私はもう……」
振り返らずに、私は丘を下りた。背後から視線を感じたが、振り返ることはできなかった。足早に歩いていると、噴水の近くでミラベルとアルテミシアが心配そうに待っていた。
「リーナ! 大丈夫?」
「顔色悪いぞ」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」
嘘だった。でも、今は説明する気力もなかった。
*
リーナが去った後、ユリウスとセレスティアは月見の丘に二人きりで残された。双月の光が、二人の間の深い溝を照らし出している。
セレスティアは、兄の横顔を見つめた。その表情は、今まで見たことがないものだった。
「兄様」
「なんだい、セレスティア」
「あの女に、心を奪われたのですか」
ユリウスは答えなかった。ただ、王都の夜景を見つめている。
「わたくしたちは、たまゆらで結ばれた運命の相手です。神が定めた、完璧な組み合わせ」
「本当にそうだろうか……私たちのたまゆらは、本当に神が望んだものなのだろうか」
その言葉に、セレスティアは息を呑んだ。
ユリウスは振り返った。青い瞳が、妹を真っ直ぐに見据える。
「もしかしたら、ただの偶然かもしれない。あるいは、誰かが仕組んだものかもしれない」
「何を……何をおっしゃっているのです」
「僕は最近、考えるんだ。たまゆらという仕組みそのものが、人を不幸にしているんじゃないかって」
セレスティアの顔から、血の気が引いた。
「それは、わたくしとのたまゆらを否定するということですか」
「そうじゃない。ただ、疑問を持つことは必要だと思うんだ」
風が吹いた。冷たい風だった。セレスティアの金髪がたなびき、その表情が露わになる。
暗い眼。そこ以外は無。表情は無かった。
「兄様は、変わってしまわれた」
「変わったのかもしれない。でも、これが本当の僕なのかもしれない」
ユリウスの声に覚悟が滲む。
セレスティアは拳を握りしめた。完璧に整えられた爪が、掌に食い込む。
「……失礼いたします」
彼女は深く頭を下げると、丘を下りていった。その足取りは優雅だったが、肩が震えていた。
一人残されたユリウスは、双月を見上げた。蒼月と紅月が、仲良く並んで輝いている。
――僕は、何を求めているのだろう。
答えの出ない問いが、胸の中で響き続けていた。